『優しさの痛み』——愛想歌

「痛みを取り戻すことが、この子にとって『良いこと』なのかわからないよ」


 あるいは、と俺は思ったのだ。石喰いであるリンドウならば、目の前の子供をなんとかしてやれるかもしれないと。しかしリンドウは、その想いに首を振る。


「カナン、君の想いは理解している。だけど、繰り返してしまうけれど。それはエゴだ」

「……エゴでも、目をそらしていては悪夢の終わりはないだろう?」

「君の言うことは間違いではない。間違ってはいないんだ。けれど、それは君だからこそ選べる道だ。この子は君と同じように、痛みを受け止められるほど強いわけじゃない」


 石喰いの言葉は、正しいのだろう。同時に俺の想いも間違いとは言えない。

 冷えた風が俺たちの間を流れて行った。何かをすることも、何かをしないことであっても。どちらも完全ではない。後悔のない答えが選べるほど世界は優しくない。


「君は優しいよ、カナン。世界がどうであれ、それは真実だと私は思っている。でも……君は強いから。立ち向かうことでしか、痛みを克服できないと考えてしまうんだろう」


 キキョウは黙ってアカネの小さな頭を撫でていた。幼い子供の心は、そんな手のひらの温かさを感じているのだろうか。解らない。たぶん、リンドウの言う通り、俺には受け止められず閉ざしてしまう心のことを理解できないのかもしれない。


「それでも……変わらないことが、この子の幸せだとは思えない」

「そうだね。確かにこの子は幸せではないだろう。だけど、不幸でもないんだ」


 俺たちのやりとりを、キキョウは静かに聞いていた。否定もせず肯定もしない。揺らぐことのない瞳は、ずっと子供にだけ注がれている。俺たちがどう考え言葉にしたとしても、彼女の心は変わらずそこにあり続けているのだろう。


「君の優しさは、とても——ひどく甘い」


 俺は優しくなんてない。少なくとも、幼い子供に向けるべき「優しさ」ではありえなかった。



 気づけば、手を握りしめていた。爪が食い込み、皮膚が痛みを伝える。だが、そんな痛みなど、言葉にもできぬ悲しみのかけらにも及びはしない。


「ならば、お前はどうするべきだと思う?」


 花が咲き、散っていく。そのことに哀切を覚えるのは、失われゆくものを愛したからだ。


 失われれば、悲しい。だから取り戻せるものがあるなら、届く手があるのならば。心を掬い上げ、もう一度笑ってほしいと願うことは、愚かしいことなのだろうか?


「……その答えは、私の中にはないよ」


 落葉。美しく色づいた枯葉が、窓辺の花のそばに落ちる。音もなく舞い降りたそれを、リンドウは遠いもののように見つめていた。口元だけが静かに笑みを刻んで、石喰いは何も語らぬ二人に語りかける。


「あなたは、どうしたい?」


 優しさは、言葉のように一つではない。厳しさもあるいは理不尽さも、見る方向が違えば誰かにとっては優しさであるかもしれない。けれど、リンドウの持つ「優しさ」は、人の持つそれよりも澄み渡りながらも深かった。


「心を閉ざしている痛みを石に変えれば、少なくともその子は現実に目覚めることはできるだろう。だけど、それだけだ。痛む心は消えることはない。現実を受け止めることができなければ……その子は本当に壊れてしまうかもしれない」


 強くはない。それは限りなく柔らかい声音だった。キキョウは唇を結ぶと、消え入りそうに微笑んだ。喜びも悲しみもない、薄く引き伸ばされた感情のあとがそこにある。


「私は、この子にもう一度笑ってほしい。泣いていてもいいから、声を聞かせてほしい」



 それが正直な感情だと、俺にでも解った。キキョウは何度も子供の頭を撫で、わずかな間だけ目を閉じる。何かを堪えるように、祈りを込めるように。閉じた瞼は震えを持つ。


「……だけど。それはきっと、私のエゴなんだわ」


 開かれた瞳は、揺らがぬ感情に染まっていた。キキョウは今度こそ、本当の笑みを浮かべる。強くはない、だが弱くもない。揺るがない瞳で微笑んで、彼女は首を横に振る。


「この子は、アカネは……今もまだ、悪夢の中で耐えている。その眠りは苦しいものでしょう。悲しいものでしょう。だけど、きっとこの子はいつか笑ってくれるわ。この子の持っているはずの強さを……私は信じているから」


 目先の救いではなく、本当の意味での救いを求めたい。彼女の瞳はそう語っていた。もしキキョウの語るように、幼い子供が悪夢から自ら目覚める日が来るならば。


「だから私は、この子のそばで待ち続けるわ。痛みも悲しみも、そばに居られるなら……いつか報われると信じている」


 キキョウは夢見るように笑う。そう、きっとそれは幸せだ。希望が報われないのだとしたら、それは真の意味で諦めた時だけなのだ。


「それがあなたの願いならば、私はそれを祝福しよう」


 いつものように微笑んで、リンドウは俺を見た。俺といえば、苦い笑い方をするしかない。やはり俺は誰かを助けられる人間なんかではないのだ。改めて強く思えば、キキョウはそっと俺に向けて笑みを投げかける。


「あなたがこの子のことを想ってくれたこと、嬉しく思うわ。少なくともあなたは……アカネを可哀想な子にはしなかった」


 心とは、とても脆いもの。風が吹けば揺らいでしまう。嵐になれば砕けるかもしれない。だがそれでも、俺は彼女の浮かべた笑顔に強さを見た。冷たい鉄塊のような強さではなく、挫けても立ち上がるだけのしなやかな強さを。


「……あなたはとても優しい人だわ。だからどうか」


 ——あなたは「あなた」を、大切にしてあげて。



 限りなく優しく微笑んでいた。その意味はきっと、俺には永遠に解らないかもしれない。


「君の心が、いつか」


 リンドウが不意に呟いて、振り返った瞬間。吹き抜けた風の向こうで、幼い子供の顔がわずかな表情を形作ったように見えたのは、気のせいだっただろうか。



 ——いつか、痛みが消えたなら。

 石に花が咲くように。永遠に終わらない季節が、終わるように——。


『散りゆく秋を愛と呼べば』——了


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