『ホオズキ』——露鬼灯

 夜。祭囃子が響いている。約束した通り、湖の木の下で彼女を待つ。


 懐に入れたままの石の花が冷たい。冷たいだけの温度に、僕はなぜか安堵感を覚えた。何も感じないよりはずっと、その感覚は僕を生かしている。


 一度だけ目を伏せて、長い息を吐き出した。足元に伸びていたはずの影は、とっくの昔に消え去っている。今、足元にあるのは、誰かが落として言った鬼灯だけだった。


「ホオズキ」


 穏やかな声が聞こえて、自然に伏せていたはずの目は前を見ていた。


 目の前に立っていたのは、美しい緋色の衣装をまとった彼女。ささやかな風が吹くたび、綺麗に結い上げられた髪が揺れる。綺麗だと、何の疑問もなく思う。


「ごめんね、待たせちゃって。お店がなかなか片付かなくて」

「いや、大丈夫だよ。それより忙しかったなら手伝いに行けばよかったね。お店、親父さんだけになってしまっても大丈夫だった?」

「それは心配ないわ。ひと段落ついて、お客さんもお祭りの方に流れて行ったから」

「そっか。……それなら良かった。実は少し心配だったんだ」


 他愛のない会話を交わしながら、僕たちは祭りの会場へと歩いていく。


 何でもない顔をして彼女の手を握れば、そっと手を握り返してくれる。彼女は目を細めて微笑んでいた。何気ないけれど、退屈なんかではない。


 たぶん、これが幸せというものなのかもしれない。少しだけ触れた手が温かい。それだけのことなのに、僕はきっと笑えている。


 祭りの会場に足を踏み入れると、たくさんの人の笑顔があった。彼女が「賑やかだね」と、笑って手を握りしめてくる。僕は彼女の手を握り貸し、「こうしていればはぐれないよ」と笑い返す。


 黄昏色の灯りが、祭囃子に合わせて揺らめいている。楽しげな声を上げて子供達が走り抜けていく。屋台の食べ物が良い匂いを漂わせ、提灯を下げた男女が笑い合いながら通りすぎる。


 僕たちは、祭囃子の響く中を歩いていた。彼女が金魚すくいの金魚を覗き込んで、「取れたことないんだよね」とがっかりしたように眉尻を下げる。


「コツがあるんだよ。ちょっと見てて」


 屋台の親父に硬貨を渡すと、僕は金魚を見つめた。赤い色をした金魚は、祭りの熱気など素知らぬ顔で泳いでいる。僕は一匹に狙いを定めると、勢いよく掬い上げた。


「あ」


 掬い上げることは出来たが、途中で紙が破れてしまう。落ちていく金魚を見つめて、僕は何となく胸の奥でもやのようなものが漂うのを感じていた。


「もう、ホオズキもダメなんじゃない」

「ごめん。格好悪いね、本当に」

「ううん。気持ちだけで充分……充分なの」


 繰り返した彼女の顔は、透明な笑みに彩られていた。


 何故だろう。どうしてか、その笑みに心を隔てているはずの壁が揺れた気がした。取り返しのつかないことをしているような、もう二度と戻れない場所にいるような。不安定な足場に立っているように、壁ごと心が揺れている。


「ホオズキ」


 いつものように、彼女が僕の名前を呼んだ。いつの間にか、繋いでいたはずの手が離れていた。少しだけの距離。離れてしまった場所に立って、彼女は微笑んでいた。


「ねえ、ホオズキ」


 やはり微笑みは綺麗なくらいに透明で、僕は黙って彼女を見つめていた。


 もう戻れないのだと、気づいてしまう時みたいに。気づけばいつの間にか引き返せない場所に立っているとわかってしまった。だけど僕はそこから目をそらす。見たくないものは身ければ存在しない。そんなこと無理だって、解っていたけれど。


「ホオズキは、私と一緒にいて楽しかった?」


 祭囃子が遠ざかっていた。人の波も、祭りの灯りもひどく遠い。僕と彼女は、離れてしまった距離を埋められなかった。たった数歩で手が届く。けれどわずかの距離が今は遠い。


「僕は」


 君といて、楽しかった。ただそれだけのことを、僕の唇は紡げなかった。


 顔はいつものように笑顔を浮かべているのだろうか。だがもう取り返しがつかない。彼女は僕の瞳を見つめて、何かを堪えるように首を振った。


「ホオズキ。私……私ね」


 再び僕を見た彼女の瞳に、薄い膜がかかっていた。彼女は僕に理解できない脈略で、何かを決意してしまったのだろう。彼女は笑っていたけれど、以前のような明るさはない。


 雲がかかった空の下、霞んでしまった光の残滓のように。


「ずっと……あなたの心が見えなかった」


 懐の石の花が、トゲのように肌を刺した。冷たいような、痺れるような不可解な感覚。僕は彼女を見つめたまま、今も笑っているのだろうか?


「ずっと、あなたのことが大好きだった。ずっと、笑っているあなたを愛していた。でも、あなたは私を見ていた? あなたの目に……私はちゃんと映っていたの」


 ずっと、君のことを見ていたよ。それは真実なのに、僕は何も言うことができなかった。

 笛の音が高く響いている。泣くように、叫ぶように。でも僕は言葉を失ったように、彼女を前にして立ち尽くすしかない。


 彼女は、泣いていた。笑いながら、涙を流していた。


「どうして、何も言ってくれないの?」


 どうして、僕は何も言えないんだ?


「どうして、笑っているの?」


 どうして、僕は笑っているんだ?


「あなたの心が見えないよ……ホオズキ、私は」


 何かが砕ける音がした。密やかに、些細なことのように、石の花は胸元で砕け散る。


 彼女はもう、涙を隠さなかった。泣きながら笑って、最後のように彼女の言葉が降る。

「笑っているあなたが大好きだったけれど、今はその笑顔が悲しい」


 言うな。僕は言葉の代わりに手を伸ばす。だけどその手は届かない。涙が軌跡を描いて散って、彼女は僕に背を向ける。


「さようなら、ホオズキ。もう、あなたの笑顔を見るのが辛い」


 手を伸ばしても、たった数歩の距離が埋まらない。僕のためらい、僕の玻璃の壁。たったそれだけの隔絶が、彼女との距離を永遠に近いほど隔てた。


 彼女は去っていく。僕は立ち尽くしたまま、小さくなっていく背中を見つめていた。


 唇が、今更のように彼女の名を呼んだ。だけどもう、彼女には届かなかった。たった独り残されて、僕は両手で顔を覆った。


 心がぐらぐらと揺れていた。水の満たされた器に穴がいて、大切なものがこぼれ落ちてしまったかのように。心は空虚だった。そして胸をかきむしりたいほどの感覚に満たされている。何かを失ってしまった。そう気づいた瞬間、僕は声を上げて笑った。


「ああ……そうか」


 これが、痛みなんだな。


 温かい雫が手の中に零れ落ちた。それが涙と気づいて、僕は唇を噛みしめる。


「……あなたにとっての幸せが、『それ』であることを祈っているよ」


 石喰いの声が脳裏に響いた。ああそうだ。それは幸せだ。知らなければ、何も失うことのなかった瞬間があったのだと。


 流れ落ちる涙は止まりそうもない。砕けた石の花は、音もなく胸元から落ちて光に変わって行った。


『痛みを知るために夏の夜は』——了


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