『サクラ』——涙雨

「戦が始まって、私の幼馴染は兵士として戦場に送られたんです」


 サクラ。舞い散る花と同じ名を持つ少女は、イスに腰掛けるとわずかに眉根を下げた。


 彼女の幼馴染の青年は、国を守る兵士として徴兵された。そして戦場に送られ、兵士として戦っているらしい。サクラはそんな幼馴染の無事を祈りながら、帰りを待ち続けていた。


「でも、『もうすぐ帰る』という手紙をもらって随分経つのに……帰ってこないんです」


 サクラの笑顔に陰が差した。帰らない意味、それを思えば笑い続けることなどできない。戦場とは常に無情で、奪うことも奪い去ることも隣り合わせに存在している。


 生き残ってしまった俺が言えることではない。だが、戦場での命とは、日常のそれよりも遥かに軽いものなのだ。


「君はその彼を待ち続けているのか」

「ええ……きっと、帰って来るって信じているんです。信じて……いいえ、たぶん信じていないと、耐えられそうもないから。もう本当はきっと」


 先に続く言葉はなかった。理解していることを語るだけでも、心は擦り切れ痛みを持つ。


「何故、戦なんてあるんでしょうね。誰も……結局は何かを失うのに」

「戦には、意味がないと君は思うのか」

「誰かを殺すことが戦なのなら、そんなものない方がいいに決まっています。どうして人が人を……傷つけ命を奪うことを、許せるんですか? 誰かが悲しむことがわかっているのに、どうして戦に意味を見出すことができるんですか……?」


 サクラの言葉に力がこもった。ずっと誰かに突きつけたかった世の理不尽というもの。穏やかだった少女の目が、苦しげに訴えていた。どうして、何故なのか、と。


 戦うことしか脳のなかった俺に、その問いはひどく痛い。答えることは容易だったが、その答えがサクラを救わないことだけは明白だったから。


 ……戦に意味なんてない。どんな大義を掲げたところで、戦場で繰り広げられるのは無意味な殺し合いなのだ。


 戦が戦を呼び、終わりない悲しみと憎しみが更なる戦を呼ぶ。サクラのように純粋に死を悲しむ人がいつか、奪われた怒りによって武器を取る。だから戦は終わらない。


 終わることはない。敵を全て殺したところで、次の敵が現れるだけなのだ。


「戦いに意味がないのなら、そこで散った命にも意味はないのか?」

「わかりません……戦で誰かが死ぬことが無意味だなんて思ってしまったら……私たちはなんのために戦っているんですか? 死ぬことが無意味なら、彼や……他のみんなは、なんのために戦って死んでいったというんですか」


 膝の上で握り締められて手が白い。眉根を寄せながら目を伏せた少女は、もう微笑まない。場に満ちた悲しみの空気に、リンドウはそっと俺の方に視線を送った。


 言えることがあるとしたら、俺の方だと言うことか。石食いの視線に内心嘆息を漏らしたが、戦から生き残った俺に言えるのだとしたら。


「俺の言うことではないかもしれないが……結局、その死に意味を与えるのは、生きている人間なんだと思う」


 手にした茶の中に花びらが落ちた。わずかばかりの波紋に目を落として、俺は言葉を紡ぐ。

 絶望など何もなかった。暖かな春の日差しの下で生きている。そのことがどれほど奇跡的なことなのか、俺は知っている。


「戦は悲しい。そこで散る命もまた。だが彼らは決して、目に見えないもののために戦い死んでいったわけではないんだ」

「目に見えないもの……兵士は国のために戦うのだとみんな言っています」

「一面ではそうだろう。だが、考えてみるといい。もし君が幼馴染の立場だったら、顔も見えない王のために戦い続けることができるかな。いつ終わるともしれない戦いの中で、思い浮かべるのはあったこともない王の顔だろうか?」


 問えば、心の中にかつての戦場の光景が広がった。


 俺にとって主君は、近しい存在だった。だから主君のため、命をかけることにためらいはなかった。しかし他の兵たちがそうだったとは思えない。


 彼らは、死の間際に親しい人間の名を呼んでいた。戻りたい場所に戻ることのできなかった無念。せめて心だけは届かせようと叫んだ言葉を、俺はいくつも見送ってきた。


「きっと、彼らは自分たちにとって大切な人のために戦い続けている」

「私たちの、ため」

「君や他の誰かが生きていく未来を守れると信じたから、彼らは戦えた。死ぬことが怖くないはずはなかっただろう。しかしな、俺は思うんだ」


 見上げると、桜が優しい風に吹かれて揺れていた。花の合間に輝く光に目を細めて、俺はそっと長い息を吐き出す。


 戦はいつも悲しみを生み出す。けれど、それが終わりだとは信じたくなかった。


「君たちが生き続けているなら、それだけで俺たちの死に意味はあったのだと」

「……そんなの」


 こんな陳腐な言葉では痛みをかき消せない。戦うだけの人間では、誰かの心一つ拾い上げてやることもできない。


 サクラは俯いて、握り締めたままの手を見つめた。髪飾りが揺れて、かすかな音を立てて光を弾く。


「そんなの……わからない。戦は悲しい。だって、戦がなければ誰も悲しまないもの」


 涙も流さず言われてしまえば、もう俺に語れることはなかった。桜が風に揺れるのを見つめ続けても、そこに答えなどありはしないのに。


「けれど、それでもあなたは待ち続けると決めたんだろう?」


 リンドウの声が、悲しみの隙間に染み込んでいった。サクラと俺は視線を石喰いに向ける。花びらの舞う中で、いつものようにリンドウは微笑んでいた。それが当然で、唯一のことのように。


「カナンも言ったけれどね。人ってものは、待っていてくれる人がいるだけで、強く生きようと願えるみたいだよ。もしあなたが諦めていないのなら……もう少しだけ、待ち続けてみるといい。諦めるのは答えが出てからでも遅くはないじゃないか」


 まるで、花びらが地面に落ちるまでの猶予を待つかのように。リンドウはささやかな希望を語る。それは本当に、花びらが地面に落ちてしまえば消えてしまう希望の話だった。


「……諦めなければ、叶うって言うんですか」

「願えば叶うなんて無責任なことは言えないよ。だけど、願わなければ叶わないことは確かにある」


 俺は、願いと結果は無関係だと思っている。しかし誰かの願ったことが、少しでも何かを変えたのだとしたら。その変化が多くの何かを動かしたのだとしたら。


 もしかしたら、奇跡の一つくらいは起こせるのかもしれない。たった一つの奇跡が誰かを救えるのならば、願いは決して無力ではないのだろう。


 リンドウの微笑みはいつも変わらない。何も奪わず、何も傷つけず。そんな石喰いにとっての救いが何なのかなんて、俺には理解できるはずもないのだけど。


「あなたは待ち続けるといい。待ち続けることで、救われるのは彼だけではないのだから。だけどもし、待ち続けることで心折れてしまいそうだと言うのなら」


 リンドウはそっと手のひらを差し伸べた。開かれた手に一枚の花びらが落ちる。柔らかな風が頰をかすめて、ひと時だけ穏やかな時間が流れた。


「その痛みは、私が貰っていこう。ひと時だけであろうと痛みが薄れたなら、顔を上げて前を見つめることだって、出来るはずだろう——?」


 開かれた手のひらの中で、花びらが舞い上がる。花びらは緩やかに踊り、手の中で光の軌跡を描き出す。さらさらと、少しずつ光を散らした花びらは、密やかな輝きの中で一つの桜色の石に変わっていく。


 わずかに目を見開いたサクラは、髪飾りに手を触れながら首を振った。


「……あなたは、一体『何』ですか……?」

「私は石喰い。痛みを石に変え、食べる一族」


 答えて、石喰いは桜色の石に口をつける。そっと砂糖菓子を食むように。石をかじった石喰いは、味わうようにかけらを口の中で転がして小さく笑った。


「このかなしみはとても甘い。……とても」


 サクラは髪飾りに触れながら、静かに目を閉ざした。彼女が何を感じたのか、俺には想像するしかない。けれど少しだけ安らいだ表情が、全てを物語っているようだった。


「……ありがとう」


 静けさの中に響いた声は、穏やかな空気をまとっていた。悲しみが消え去ったわけではない。しかし再び開かれたサクラの瞳は、春の日差しのように優しげに変わっていた。


「ありがとう。どうしてかはわからないけれど……もう少し待てそうな気がします」


 微笑みは柔らかな風の中に溶けるほどにささやかで。

 けれど確かな強さで前を向き、桜並木の先へと想いを投げかけ続ける。



 ※


 茶屋を後にした俺たちは、しばし無言で降り注ぐ花びらの下を歩んでいた。


 手にした菓子の包みが少しだけ重い。嘆息して横を歩く道連れを見やれば、石喰いは特に表情も変えず石を食んでいる。かりっ、と音を立てて砕けた石に、リンドウは寂しげな瞳を向けた。


「……ひと時だけの痛みなら、何でもないことだったのにね」


 口から漏れた声は平淡だった。石喰いは、寂しげに微笑んで石を食む。


 少しだけ、本当に少しだけしか消せない痛み。それを石喰いがどう思うのかなど、俺に理解できるはずもない。だが、それでも思う。痛みが消えるなら、それは決して。


「少しだけでも痛みが消えるなら、それは悪いことではない。長く絶え間ない痛みほど……心を削り、苦しめるものはないからな」


 感情も込めずに言えば、リンドウは少しだけ苦い笑い方をした。


「……君は、いつも優しいけれど甘いことばかり言うね」


 リンドウは眩しげに桜の枝先を見上げた。枝先から離れた一枚の花びら。淡い色をまとったそれが、地面に落ちる何秒か。わずかだけでも、俺たちは同じものを見ていた。


「……お前はいつも、甘いくせに救いのないことばかり言う」


 花びらは地面に落ちて、音もなく風に流された。


 緩やかに穏やかに流れる春の季節。その中で残せるものなど何もなくて、結局交わした言葉すら無下にしてしまえる。


 そんな無情なこの世界なのだから、少しばかりの救いはとても甘く痛いのかもしれない。


「……そんなの、お互い様だよ」


 リンドウは一度だけ笑って歩き出す。細い背中が遠ざかってしまう前に、俺もまた同じ道を歩き出す。どこまで続くか、終わりがあるのかすらわからない。だがそれでも。


「——そうだな」


 歩き出した道で、すれ違う人は少ない。

 けれど一度だけ振り返った道の向こうで、少女と青年の笑顔が見えた気がした。



『いつか帰る春に』——了


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