第3話 ひとりぼっちのカンタータ ③


「──ってことがあってさ、朝から最悪だった」


「ふーん。ぶん殴っていい?」


「何でだよ! 無理やり嫌いなもの食わされたんだぞ⁉ これはもう人権侵害だろ!」


「うるせー! そういう自虐風自慢が一番むかつくんだよ! 天国にいた癖に地獄を語るように言うんじゃねーよこの女たらし!」


 昼休みの最中、人の不幸話に対して真正面から怒号を浴びせてきたのは、みずほ姉ちゃんと共通の幼馴染み・木下直(きのしたすなお)だった。茶髪、編み込み、アシンメトリーと凄まじく派手な見た目のせいで他の友達ができないのか、直はわざわざ隣のクラスから俺たちと昼飯を食べにきていた。


「でも衣彦くん、ちゃんとセロリ食べて偉かった」


「ね~! 嫌いなのに我慢してもぐもぐしてたもんね~」

 

「あんたらこいつのこと赤ちゃんか何かと勘違いしてない?」


 高校デビューの勢いで浮かれたチンパンジーみたいな連中がはびこるこの教室で、小早川とみずほ姉ちゃんだけはひたすらほのぼのとした空気だった。直はそんな二人を半眼で見つめながら、呆れたような表情でパンを頬張っている。


「くそ……それにしてもウルのやつ、今思い出しても腹立つぜ。この借りはいつか必ず返してやる」


「どうやって返すんだ?」


「……どうにかして」


「不良債権者のテンプレみたいな言い訳しやがって」


「無理しない方がいいよ~。潤花、何してもすごいんだから」


「で、でも、衣彦くんならできると思う……! 多分」


「やっぱ俺の秘めたる可能性をわかってくれるのは小早川だけだな……ほら小早川、飴やるよ」


「わ、すごい……かわいい」


「だろ? これすごいんだよ。昨日わざわざ商店街まで買いに行ったんだけど、色がやたらカラフルでさ、一粒一粒が宝石みたいでSNS映えするし、味も色によって果汁や炭酸みたいな食感が楽しめて……」


「そ、そうなんだ……すごいねっ」


「おい早口オタク、コバのやつ引いてるぞ」


「はい! それ、私も欲しい!」


「みずほ姉ちゃんはウルの弱点を教えてくれたらあげるよ」


「えー、なんだろ。前に絵が下手とか、オバケが怖いって自分で言ってたけど」


「ふーん……肝試し対決とかありだな」


 みずほ姉ちゃんに飴を手渡しながら、潤花に一矢報いる作戦を思案する。

相手の弱みに付け込んだ恥も外聞もない対決になりそうだが、俺はいわれのないセロハラを受けた被害者として諸悪の根源にきっちり復讐しなければならないのだ。ちなみに、セロハラとはセロリハラスメントの略である。


「やめてあげなよー。どうしてそんな意地悪するの?」


「嫌がってるのに無理やり嫌いなもん食わせるのは意地悪じゃないの⁉ 俺、被害者だからね⁉」


「あれはほら……あれだよ! 愛のムチ!」


「身体を拘束した上で合意のない押し付けなんて、そんなのは愛じゃない! 愛の無知だ!」


「すごい、名言……!」


「そうか?」


 つやつやの飴みたいに目を輝かせて小早川はぺちぺちと小さく拍手をする。一方で幼馴染み二人の視線は冷ややかなものだった。長い付き合いのくせにこいつらはまるで俺のウィットに富んだジョークへの理解がない。困ったやつらだ。


「でもよく考えてくれよ。これがもし逆の立場だったら、みんな絶対俺のこと『女の子に無理やり食べさせるなんてサイテー』とか言ってボロクソ批判するだろ? おかしくない? 何であいつはお咎めなしで、俺は泣き寝入りしないとならないんだよ」


「そう言われると……衣彦の言う通りかもしれないけど」


「絶対にそうだよ。みずほ姉ちゃんもみんなも、ウルに対してフィルターがかかってるんだ。学年総代で顔も運動神経も良い帰国子女。そういう良いところばっかり見て、何もかもが正しい人間だと思い込んでる。俺はそんな目立つ人間を盲目的にもてはやす風潮も、それに付け上がるやつも、嫌いだね。だから、一度ギッタギタに叩きのめして社会の厳しさってやつを理解(わか)らせてやるのさ……そう! 肝試しでなぁっ‼」


「社会の厳しさって、肝試しでわかるのかな……」


「ダメだよ真由、何言ってるんだろと思ってもちゃんと聞いてあげなきゃ衣彦が拗ねちゃう。私たちも試されてるんだよ、肝じゃなくて忍耐力を」


「ねぇ! 丸聞こえのヒソヒソ話やめてくれる⁉」


「とか言ってるわりになんだかんだ楽しんでるだろ。今朝の騒ぎだってやろうと思えば力ずくで逃げられたくせに」


「はっ、まさか。ミラ中(ちゅう)の一匹狼(ロンリーウルフ)と呼ばれた俺がそう簡単に他人に心を許してたまるかよ。抵抗しなかったのだって、あとで油断した隙に倍返しの復讐をするための作戦だよ、作戦。今に見てろよ? そのうち俺の復讐系自伝ラノベがSNSの広告で鬱陶しいくらい流れるようになるから」 


「どうせ女に抱き着かれて鼻の下伸ばしてただけなんじゃねーの?」


「バカ野郎、俺はもう女なんかに興味は──」


「みずほのおっぱいでかかった?」


「パットなしで82前後のCかD。お椀型とみた」


 俺はキメ顔でそう言った。


「わーーーー‼ ちょっと‼ やめてよ‼」


「本性表しやがったなこのドスケベ! これでもくらえ!」


「しまった! 誘導尋問か!」


 綿密に計算された策略にまんまとハマってしまった。

 知能犯・木下直は怒りのままポケットから取り出した黒い塊を投げつけてきたので、俺は反射的に腕でガードする。

 勢い良く俺の腕に当たったそれは、ぽすっと音を立ててあっけなく足元に落ちる。

 そこには、長い触角と黒光りの怪しい光を放つ、例のあいつ──ゴキブリのシルエットがあった。


『きゃーーーーーー‼』


 ガタン! ガタッ!

 それを見たみずほ姉ちゃんと小早川が一斉に立ち上がり、俺の両腕に抱き着いてきた。

 甲高い悲鳴のせいでそこら中の視線はこちらに集まり、至近距離にいる俺は耳がキーンと痛んだ。

 見てる。みんなこの両手に花のサンドイッチ状態をまじまじと見てる。

 何事かと驚く女子たちやこめかみに青筋に浮かべてこちらを睨んでいる男子生徒たち。さらにわざわざ隣のクラスから覗き見に来た変なやつまで、ギャラリーたちのリアクションはさまざまだ。


「二人とも落ち着いて。これ、おもちゃだから」


「え? あれ……ほ、ほんとだ」


「おもちゃでも嫌だよ! なんなのこれ~⁉」


「昨日直と商店街ぶらついてたら商品券が当たる景品ガチャやっててさ。ノリで抽選券を買いまくったんだけど、これはそのハズレの景品。多分当たり以外は売れ残りの商品なんだろうな」


「景品にゴキブリのおもちゃって……悪趣味過ぎ」


「たくさんあるからみずほ姉ちゃんもいらない?」


「いらないよこんなの! 気持ち悪いから早くしまって!」


「気持ち悪いとか言うなよ。これ、作りすごい細かい作りなんだぞ? ほら、この腹の部分とか。優希先輩に見せたらテンション上がりそうじゃない?」


「見せなくていいから!」


「じゃあ小早川は──あぁ、わかった。わかったからそんな顔するな」


 俺の腕をぎゅっと掴み必死にふるふると首を振る小早川。唇をぐっとへの字に曲げていて本気で嫌がっていたのでそれ以上はやめておいた。


「どうせ当たらないんだから、そんな券買わなきゃ良かったのに」


「わかってねーなみずほ。俺たちはガチャを買ってるんじゃねーんだ。ロマンを買ってんだよ」


「みずほ姉ちゃん、人生はガチャの連続だよ? 与えられたものに胡坐(あぐら)をかいてたら本当に欲しいものは手に入らない。当たるまで回せばガチャもガチャじゃなくなるっていう真理を俺は身を持って証明したかったんだ」


「わかる気がする……」


「真由! このダメな二人に感化されちゃダメだよ!」


「でもあともう一回行けば絶対当たる気がするんだけどなー。もう軍資金どころか今月の小遣いもねーよ」


「いいこと思いついた。直、俺たちの外れた景品を合わせて全部転売しよう。そうすれば……」


「またガチャが引ける……! お前、天才か⁉」


「あぁ! 永久機関が完成しちまったな‼」


 いがみあっていた二人が堅い握手を交わした。

 金の切れ目は縁の切れ目。翻(ひるがえ)って、金の継(つ)ぎ目は縁の継ぎ目でもある。

 盛り上がっている俺たちをよそに、小早川は困ったように笑い、みずほ姉ちゃんは呆れたようにため息を吐いていた。


「もう……衣彦も直も高校生になったっていうのに、ほんっと子供の頃と変わってないんだから」


「──高校生になっても迷子の呼び出しされてたやつが、他人事みたいに言ってるな」


「違っ……! あれは将悟が勝手に──って龍⁉ 何でいるの⁉」


「遊びに来た」


 ざわ……と教室中の女子が一斉にざわめきだした。

 無理もない。

 身長は百八十センチ手前、すらっと手足の長いモデル体型。少女漫画に出てくる王子キャラが二次元からそのまま出て来たような端正なマスク。清潔感溢れるアップバンクのショートは直がカットしたもので、それが色気たっぷりの大きな瞳を強調して絶妙な造形美を引き立てている。 

見ればわかる。この教室にいる女子たちはみんな、この稀代の色男・太田龍之介(おおた りゅうのすけ)の虜になっていた。二人の例外を除いて。


「どうせ衣彦たちと一緒に私のことイジメに来たんでしょ? 変なことしたら泉に言いつけてやるんだからね」


「っ…………!」


 みずほ姉ちゃんはこの国宝級のイケメンを前にまったく動じた素振りも見せず、一方の小早川は幽霊でも目の当たりにしたかのように怯えた反応で、俺の制服の腕をぎゅっと掴んで離さなかった。


「人聞き悪いな。俺がいつみずほをイジメたんだよ」


「今まさに、私が迷子になったみたいに言ったでしょ。あれは将悟が勘違いしてただけで、私はちゃんと集合する場所と時間、伝えてたんだからね」


「それはあいつの記憶力を過信したみずほが悪い」


「そ……そうかもしれないけど! そこまでだとは思わないもん!」


「龍、聞いたか? みずほCかDなんだってよ。衣彦が言ってた」


「は? なんだそれ詳しく」


「体験談を語ってやれ衣彦」


「わー! ちょっと直! 衣彦も! 余計なこと言わなくていいから!」


「あれは小学五、六年くらいの頃だったかな……確か、ひまわり畑で白いワンピース着たみずほ姉ちゃんとかくれんぼしててさ──」


「さ、遡(さかのぼ)り過ぎじゃないかな……」


「コバの言う通りだぞ衣彦! 早く本題のおっぱいに入れ!」


「違っ……そういう意味で言ったんじゃなくて……!」


「頼むぞ衣彦。CかD、どっちか気になって夜しか眠れなくなる」


「もー! 最低! 男子ってほんっと最低!」


 みずほ姉ちゃんは俺たちの肩をポカポカ叩いてきた。全然痛くないどころかむしろ心地良さすら感じるその猫撫でパンチは、我々紳士一同(おれたち)の中ではご褒美以外の何ものでもなかった。


「そういえばごめん龍兄。こないだ頼まれてた本持ってくるの忘れてた」


 一通りみずほ姉ちゃんをいじり倒してから、ふと龍兄に用事があったことを思い出した。

 俺と龍兄は読書の趣味が合うので定期的に本の貸し借りをしているのだ。


「あぁ、いつでもいいから気にすんな。先にこれ返しとく。面白かったけど、動物が可哀想な目に遭うシーンは人間が殺されてるシーンよりきつかったな」


「それすっげーわかる。犯人にも辛い過去があったんですみたいな事情話してたけど、証拠隠滅のためだけに殺されたわんこのこと考えたら全然同情できないよね」


 龍兄から手に持っていた紙袋を受け取りながら感想を言い合う。視界の隅に映るクラスの女子たちからは羨望の眼差しが向けられていた。


「ねぇ衣彦。その本、私読んでも面白い?」


「うん、面白いよ。『亀甲縛り探偵・エレクトリック明智(あけち)~連続ヒモニート殺人事件~』。読む?」


「うん、タイトルで読みたくなくなった」


 即答だった。ネットのレビューでも評価が高いのに……とち狂ったタイトル以外は。

 

「なぁみずほ、美珠の妹っていうのは、この子か?」


「っ!」


 龍兄に話しかけられ、びくっと身構える小早川。


「違うよ。潤花なら隣の三組。その子は真由。うちの下宿一番の癒し系」


「ふーん……」


 チラリと興味深そうに小早川を観察する龍兄。

 小早川は軽く会釈しつつも、俺の腕を盾にするように一歩引いたまま、龍兄と目を合わせようとしなかった。

俺も少し緊張する。今でこそ前髪目隠れメガネ系女子の見た目をしている小早川だが、まともに観察されると目ざとい龍兄に変装──超人気アイドル・小早川実由の双子の姉である正体を見破られてしまいそうだ。


「みずほちゃん……私、全然癒し系じゃないよ」


「そうだよみずほ姉ちゃん。小早川、こう見えてアリの巣にメントスとコーラ入れてほくそ笑むタイプの人間だからね」


「マジか⁉ こんな大人しいのに⁉」


「そ、そんなことしないよ……!」


 よし、これでうまくごまかせた……と思いたい。小早川の恨めしそうな視線が痛いが、むしろその新鮮な反応を見て謎の達成感すら覚えた。


「何だよ龍、ナンパか?」 


「惜しいな。ナンパしたいのは俺じゃなくて──」


「黙って先に行くなんて優しくないわね、太田くん」


 決して大きくはなかったはずのその声は、不思議なほど透き通って聞こえた。

 龍兄をいたずらっぽくたしなめたのは、緩やかな縦巻きのロングヘアに、おっとりしたたれ目の美人だった。

 こちらに向かって優雅に歩いてくるその仕種にはどこか洗練された余裕があり、他の女子と比較しても明らかに異彩を放つ存在感だった。


「不可抗力だ。俺と星川(ほしかわ)が一緒に歩いてたらまた変な噂が立つだろ」


「あら、私は別に構わないけど、太田くんは困る理由があるのね。どうしてかしら?」


「からかうなよ。お前だって早乙女(さおとめ)にいらない誤解されたくはないだろ」


「それでヤキモチの一つでも妬いてくれたら可愛いんだけどね」


 ……なんだこの人たち。

 何の変哲のない教室に現れた謎の美少女と幼馴染みのイケメンとの会話。

 二人が織りなす空間はまるで異次元の雰囲気だった。

 実家の仕事柄、美男美女を見飽きている直を除いた俺たち下宿生は、その光景を眺めながらいきなりドラマの世界に引き込まれたかのように目を丸くしていた。

 戸惑っている俺たちの視線を感じたのか、龍兄ははたと気付いたように現れた女子生徒を俺たちの前に誘導した。


「みずほは知ってるよな? 演劇部の星川。美珠の妹に用事があるんだってよ」


「潤花のこと?」


「突然ごめんなさいね。単刀直入に言うと、潤花ちゃんを演劇部にスカウトしたくて、伊藤さんに潤花ちゃんと私たちの顔つなぎのお願いをしに来たの」


 俺と直は同時に目を合わせた。


「え? 私?」


「うん。実は、潤花ちゃんのことは三年生の間でも噂になってて、いろんな部が潤花ちゃんを勧誘しようとしてるんだけど、本人が全然乗り気じゃないらしくて……話をしようとしたら逃げ回って、まともに話ができない状態なの。だから、伊藤さんの方から潤花ちゃんに話だけでも聞いてくれないかってお願いしてもらえないかと思って」


「えー、すごいね潤花。もうそんなに有名人なんだ」


「そうなの。運動部の人たちも彼女のことをすごく評価してるんだけど、あの子の魅力は運動神経だけじゃないわ。大舞台のアクシデントでも物怖じしない度胸に、マイクなしでもあれだけよく通る声。絶対舞台に向いてると思う」


まるで推しのアイドルでも語るかのように活き活きとした表情の星川先輩に「部隊の間違いじゃないですかね?」と茶々を入れたくなったが、さすがに初対面なので黙っておく。

 それよりもよっぽど気になるのは──


「ってか、そんなもん本人が乗り気じゃないってわかってんだから話は終わってるだろ。人をパシリにしてもお互い時間の無駄じゃね?」


「直」


「言い方」


 俺とみずほ姉ちゃんが同時に直をたしなめると、直は不満そうに顔をしかめた。攻撃的な敵意を向けられた星川先輩は一瞬動揺した素振りを見せたが、それもすぐに元の柔らかい表情に戻った。さすがは演劇部というべきか、予想外の事態にも冷静だった。


「その、無理を承知で頼んでるの。私たち演劇部は今部員が足りなくて、私たち三年生が卒業したら、規定人数にならなくて廃部になる。そんなことになったら、今まで残してきた私たちの思い出の場所がなくなっちゃう。でも、もし潤花ちゃんみたいなすごい子がうちの部に入ってくれたら、きっとそれに刺激を受けた子たちが演劇に興味を持ってくれて、私たちの居場所を守ることができるかもしれない。そう思ったら、いてもたってもいられなくて……もちろん、この事情は潤花ちゃんにも伊藤さんにも関係のない話だって、わかってはいるんだけど」


「……演劇部さんの事情もわかるんですけど、みずほ姉ちゃんも事情があるんですよね。先輩、今みずほ姉ちゃんが実質一人で下宿の管理人の代行してるの、知ってますか?」


「それは……うん」


「ちょっと、衣彦」


「だってその話、みずほ姉ちゃんにはリスクしかないじゃん」


 星川先輩もみずほ姉ちゃんもばつが悪そうな顔を浮かべた。態度こそ褒められたものではないが、直の言いたいことは俺も全面的に同じなのだ。手前勝手な理由でみずほ姉ちゃんを利用されるのは、俺も癪(しゃく)だった。


「みずほ姉ちゃんにとって潤花は、ただの友達ってだけじゃなくて、家賃をもらって、責任持って生活を預かってる『お客様』でもあるわけなんですよ。もしそのお願いがきっかけで二人の利害関係に支障をきたしたら、当然困るのはみずほ姉ちゃんですよね? 演劇部さんも大変かもしれないですけど、生活がかかってるみずほ姉ちゃんの家の事情も汲んで欲しいなっていう気持ちはあります。生意気いってすいませんけど、俺も下宿生として他人事ではないんで」


「……ううん、あなたの言ってることもよくわかる」


「衣彦、大げさに考え過ぎ。潤花だってそれくらいのことで機嫌悪くする子じゃないよ」


「下宿生としての発言が許されるなら、俺は管理人側が下宿生にそんな話を持ちかけるっていう事実があると、せっかくのご飯が美味しくなくなりそうだから嫌だな」


「そういう言い回し、ずるい」


「ってかそんなの、みずほじゃなくて美珠の姉ちゃんに頼めばいいんじゃねーの?」


「先に姉に頼んで断られたんだってよ。『がんばって本人に聞け』って」


「そりゃそうだ。それが普通だよ」


「でも、お前らだって伊藤下宿がなくなるって話聞いたとき、嫌だ嫌だって騒いでただろ? 思い出の場所がなくなるって、他の誰かにとってもそういうことなんじゃないか?」


 俺と直はぎょっとした。

 まさか龍兄が演劇部側をかばうような物言いをするとは思わなかったので、裏切られたような気持ちだった。


「いや龍兄、それとこれとは違わない?」


「龍はどっちの味方なんだよ」


「お前らに決まってるだろ。っつーか、今はそんな話はしてない」

 

 まさか即答で返ってくると思わなかったのか、直は何か言い返そうとしたが、再び口をつぐんだ。

 

「俺が言いたいのは、衣彦や直があーでもないこーでもないとか言う前に、みずほもそれくらい自分の意思で決められるだろってことだよ。みずほだってもう子供じゃないんだぞ? 心配するのが悪いとは言わない。でもな、もっとみずほの意思を尊重してやれよ」


「…………」


「龍……」


「猫に赤ちゃん言葉で話しかけるのはどうかと思うけどな」


「それは今関係ないでしょ⁉」


 ぶっ! と小早川が噴き出した。


「ふっ……! ふふ……! み、みずほちゃ……可愛い……」


「わ、笑わないでよ真由! ちょっと龍⁉ 余計なこと言わないでよ‼」


「こないだのみずほなんてすごいぞ? 風で飛んできたビニール袋を猫と勘違いしていきなり『どぉしたのぉ~?♡』とか言って話しかけてたんだぜ? ビニール袋にだぞ? ビビったな。お前がその場で一番の『どうしたんだよ』って」


「やめてってば! 私そんな口調してないし‼」


「『どぉしたのぉ~?♡』」


「もぉーー! ほんっとうるさい‼ 龍‼ 黙って‼」


「太田くん、やめっ……あはははっ! お腹痛い……!」


 不覚にも……本当に悔しいが、俺も女子達につられて笑ってしまった。

 直も懸命に笑いを堪えているが、耐え切れずに肩を震わせていた。

緊張感が一気に崩れた。完全に毒気を抜かれた俺たちの負けだった。

ぐうの音も出ない論破。そして殺伐とした空気になりかけたところを一瞬で和ませるユーモアと気遣い。

龍兄がモテるのは見た目が良いからというだけじゃない。

その場にいる誰かを決して不幸にしないのだ。


「で、どうする? みずほ」


 ひとしきり笑って、龍兄がみずほ姉ちゃんに尋ねた。

 あとの判断は任せる、といった調子でみずほ姉ちゃんに結論を催促しているようだ。


「ん~」


 その場にいる全員に注目されながらみずほ姉ちゃんは少し考えた。


「星川さん、もしかしたらだけど、それって玲(あきら)から頼まれてきた話?」


「それは……そうだけど」


 星川先輩は驚いて目を見開いた。図星をつかれるとは思っていなかったらしい。その上品な顔つきから初めてはっきりと焦りの表情が見えた。


「だったら、迷う理由はないかな。良いよ。潤花に伝えておいてあげる」


「えぇ……いいの? あいつ、絶対良い顔しないと思うよ」


「そうだって。みずほに何一ついいことないぞ」


「損得じゃないよ直。玲は私が困ってるときに助けてくれたから、私もこれくらいのことは協力してあげなきゃって思っただけ」


「……ならいいけど」


 というのは嘘で本心は全然よくなかった。

 玲ってどこの馬の骨だ。初めて聞く名前だ。子供の頃からみずほ姉ちゃんの交遊関係は大体把握しているが、いきなり知らない男の名前が出てくるとなんか無性に腹立つな。みずほ姉ちゃんと仲良くして良い男は俺たち幼馴染みよりもイケメンで強くて高給取りで良い奴じゃないと認めないぞ。


「ちなみに玲っていうのは演劇部の副部長で、始業式で挨拶してた生徒会長のことな」


「それと、元うちの下宿生」


 龍兄とみずほ姉ちゃんの二人が俺たちに気を遣って玲という人物を紹介してくれる。

 やけに親しげだと思ったら元下宿生か。

 生徒会長が登壇したときは眠気がピークに達していたので顔はあまり覚えていないが、受験勉強の合間に出入りしていた伊藤下宿では見かけた記憶のない人だった気がする。


「それにしても、よくわかったな」


「だって、星川さんって本当はこんなに積極的に勧誘するような子じゃないもん。潤花は綺麗で性格も個性的だし、玲が絶対仲良くなりたいタイプだと思ってたから、きっとそうだと思った。玲が誘ってもダメだったの?」


「それが……勧誘に行こうとしたらファンの子たちに引き止められて身動き取れなくなっちゃったの。それで、私が代わりに行って来て欲しいって……」


「そっか~。玲、相変わらずモテるんだね」


「おかげで星川は振り回されっぱなしだけどな」


「あら、好きな人のわがままに振り回されるのも幸せよ? 見返りさえ求めなければ、いつまでも隣にいられるもの。太田くんだってそう思わない?」


「ノーコメントだ。話が逸れる」


「ふふっ、そうね。太田くんをからかうのはまた今度にする」


龍兄と何やら含みのある会話を繰り広げていた星川先輩は意味深な笑みを浮かべ、すぐに真剣な表情に戻った。

 

「伊藤さん、本当にありがとう。最初に言い出したのは玲だけど、潤花ちゃんと一緒に最高の舞台を創りたいっていう気持ちは、演劇部みんなが思っていることなの。ダメなら潔(いさぎよ)く諦(あきら)める。そのつもりで伝えていいから、よろしくお願いね」


「衣彦、『亀甲縛り探偵』、二巻出たら頼むな」


 二人は用件が終わりしばらく他愛のない話をした後、去り際にそう言い残して去っていった。

 残された俺は龍兄が立ち去る姿を眺めながら独り言ちる。


「…………」

 

龍兄(イケメン)の口から恥ずかしげもなく出る『亀甲縛り探偵』というパワーワードは、何故あんなに爽やかに聞こえるんだろう。少しぎこちなく歩きつつも堂々としたその後ろ姿からは後光が射して見えた。

 二人が去ってから教室に喧噪が戻り、やがてヒソヒソと話し声が聞こえる。『やばい』だの『誰』だの、会話の内容は大方察しがついた。


「みずほ。お前、人良過ぎ」


 直は、呆れたようにため息を吐いた。


「そうだよ。みずほ姉ちゃんが都合よく使われてない? なんか悪い男に引っ掛かりそうで嫌なんだけど」


 龍兄と距離感ゼロで接することのできる数少ない女子のみずほ姉ちゃんは、嫉妬に駆られた龍兄のファン達から何度かイジメの標的となったことがある。

せっかく普通の高校生活を送れるようになったっていうのに、みずほ姉ちゃんが再びそんなクソみたいな嫌がらせに巻き込まれないよう、直も俺も神経質になっていた。


「えぇ? そんなことないよ。私、人を見る目はあるんだから」


「…………へぇ?」


「何その目⁉ 直! 余計なこと言ったら怒るからね!」


「え、何。みずほ姉ちゃんの周りに悪い男でもいるの?」


「お前は黙ってろよこのスカポンタン! ギャルゲーばっかやってねーで現実の女見ろよ!」


「そうだよ! 衣彦が悪いんだからね‼」


「二人して何だよ⁉ 放っといてくれよ! お話の中くらいハッピーエンド見たいんだからさぁ‼」


 たびたび見かける二人の『衣彦には内緒のヒソヒソ話』みたいなノリが嫌で、つい声を荒げてしまう。俺だけ仲間外れとか、めちゃくちゃ寂しいだろ。もしかして、さっきから名前の出ていた玲というやつと関係があるのだろうか。何もないとは思いたいが、みずほ姉ちゃんと直の意味深な会話をするせいで気になってきた。


「潤花ちゃん……入りたい部活、なかったのかな」


 心配そうに呟く小早川に、俺たち三人ははっとして会話を止めた。


「そういやどの部活に入るとかって話は聞かないな。体験入部でいろんな部活の道場破りみたいなことしてたって噂は聞いたけど」


「それ、私も聞いた。女バレの誰も潤花のスパイク止められなかったって。それに女子ソフトボール部でランニングホームランと盗塁もしたんでしょ? それに女子サッカー部で三点入れるの、なんて言ったっけ。手品みたいな名前の」


「多分鳩のトリックと混ざってるんだろうけど、ハットトリックね」


「そうそう、それ。あとまだあったよね」


「空手部もだな。それは俺も直接見た。女子じゃ相手にならないからって男子とやってたんだけど、マジですごかったぞ。相手が踏み込んできた瞬間、軽く足払ってあっという間に一本だよ。そのあとも同じ技で三人抜きだぜ? まるで子供扱いだったな。それ見てた監督、カンカンに怒ってたな」


 クソゲーに出てくるチートキャラの話でもしているのだろうか。

 あまりにも常人離れした身体能力に尊敬よりも先に忌避感を覚える。


「……引くわ」


「バカ。かっけーだろ」


「あーあ、私も潤花みたいになれたら体育の授業もきっと楽しいんだろなぁ」


「潤花ちゃんもすごいけど……毎日みんなに美味しいご飯作ってくれるみずほちゃんも、すごいと思う」


「真由ーーー! ありがとぉーー! ねぇ聞いた二人とも⁉ 今真由がいいこと言ったよーー⁉」


 目にハートマークを浮かべながらハイテンションでハグするみずほ姉ちゃんと、されるがままに抱きしめられてはにかむように微笑む小早川。可愛い女の子同士がイチャイチャする光景はどうしてこんなにも尊いんだ。万病に効きそうな勢いで癒される。


「はいはい仲のよろしいこって」


 直が教室の時計の方を見て立ち上がった。そろそろ昼休みが終わる時間だった。

直は食べていた昼食のゴミをまとめると、持っていた紙袋から取り出したサメのぬいぐるみを小早川の机の上にポンと置いた。


「えっ、えっ……これ、くれるの?」


「どうせハズレの景品だ。ぬいぐるみならみずほは部屋に有り余ってるだろうし、コバにやるよ」


「直くん、ありがとう……」


「直、やっさし~」


「ウルにはやらないのか?」


「うっせー! いっつも女子で固まってるから話しかけられねーんだよ!」


「あはははっ、直、顔真っ赤だよ」


「……っておい待て直。このゴキブリ、持って帰れよ」


「まだたくさんあるから、あとでやるよ」


「マジでいらねぇ」


「そうだみずほ、これやるよ」


 そういってみずほ姉ちゃんに渡したのは、空になったビニール袋だった。


「何で私だけゴミなの⁉」


「何でってお前……」


 俺と直は猫なで声で同時に言った。


「『どぉしたのぉ~?♡』」


 キーンコーンカーンコーン……

 校内に響く呑気なチャイムに紛れて、みずほ姉ちゃんの怒声は隣の教室まで聞こえていたそうだった。



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