第7話 利口者は己が愚者であることを知り、愚者は己が利口者ではないことを知らない。

side.ワーグナー


俺の婚約者であるスフィアは家柄は良い。だがそれだけの女だ。

見た目も確かにいいが、髪はありふれた茶髪。それに華やかさがなく、読書が趣味というつまらない女だ。着ているドレスも地味なものばかり。

王子(俺)の婚約者であるという自覚がまるでない。

なんでこんな女が俺の婚約者なんだろ日々不満を募らせている時に俺は彼女に出会った。アリエス・ヘルディン。

身分は男爵と低いが見た目はかなり可愛く、それに両親を亡くした彼女をラーク公爵が引き取ったからもうじき公爵令嬢になる。そうすれば王子である俺に相応しくなる。

ならばあんな地味でつまらない女よりも可愛く華やかな女の方が良いに決まっている。

ちょうど、アリエスからスフィアに嫌がらせを受けていると聞いたしそれで婚約破棄も可能だろう。

「よぉ、ワーグナー。お前、随分と面白いことをしたじゃねぇか」

「‥‥‥兄上」

赤い髪にコバルトブルーの瞳をした男の耳には王太子の証であるピアスがついている。

ヴィトセルク・リエンブール。

王太子だけがリエンブールの性を名乗れる。それ以外の王子は皆、実母の性を使用するのだ。

この時間はまだ執務室に籠っているからこんな王宮の回廊で会うことなんてなかったのに。

「何のことでしょうか?」

俺はこの人が苦手だ。

粗暴で、高圧的な態度で常に俺を馬鹿にしてくる。少し俺よりも早く生まれただけで、俺の兄というだけで王太子になれただけのくせに。

俺が先に生まれていたら間違いなく俺が王太子になれたし、兄上だって俺にこんな態度を取ることはできなかったはずだ。

「とぼけるなよ、ワーグナー」

兄上は俺の肩に手を回して顔を近づける。

ニカッと笑っていて周囲から見たら兄弟がじゃれ合っているように見えるだろう。でも兄上の目は底冷えするほど冷たく、肩に回された手はがっつりと俺を掴んで、まるで逃走を防止しているようだった。

「女の髪を切るなんて凄いパフォーマンスじゃねぇか。平凡な俺には思いつかないパフォーマンスだ」

「あ、あれはスフィアがアリエスの髪飾りを」

「でもまぁ、主催者の許可は取るべきだったな。みんなを驚かせたくてサプライズにしていたのは分かるけど」

「兄上」

しっかりした理由があるのに。俺の話を最後まで聞いてくれたのなら絶対に兄上だって納得するし、兄上だって俺と同じ立場なら絶対に同じことをするのに兄上はさっきから俺の話を遮ってばかりで全く話を聞いてはくれない。

「おかげでミットレッド伯爵夫人の顔を潰す形になってしまった。過ぎたサービス精神は時に人に対して失礼に当たることもある。良い勉強になったな」

「たかが伯爵家など」

「たかが第三王子の分際で王太子(俺)の仕事を増やすとは。少しは身の程を弁えて大人しくしてろよ」

「っ」

口角は上がっているの纏う空気は今にも俺を殺しそうだ。

俺の目は自然と兄上が腰から下げている剣に向いた。兄上は王太子だが軍人でもある。きっと周囲が気遣って大袈裟に言っているだけだろうが近衛騎士共が言うには兄上は天才らしく今の総団長ですらも本気の兄上と戦っても敵わないとか。

「安心しろよ」

俺は兄上の剣を見ていることに気づいた兄上はくすりと笑って馬鹿にするように俺の耳元で囁く。

「大事な弟を切るわけないだろ。剣が錆びちまう」

兄上は俺から離れ、真正面に立つ。その時はいつもの兄上に戻っていた。ほっと知らずに止めていた息を吐き出す。

「お前の希望通り、スフィア・ラーク公爵令嬢との婚約を破棄し、アリエス・ヘルディン男爵令嬢と婚約できるように俺から陛下に進言してやる」

まるで自分が陛下の寵愛を受けているかのような言い方には腹が立つ。運が良かっただけで王太子になれただけなのに恥ずかしい勘違いをしやがって。お前の進言がなくても父上は俺の願いを叶えてくれる。

スフィアはアリエスを虐めていた悪女だ。そんな女が王子妃に相応しいわけがない。婚約破棄は当然だし、心優しく、見た目も完璧な俺好みであるアリエスが俺の婚約者になれるのも当然。兄上は王太子のくせにそんなことも分からないのか。これだから運だけで王太子になれただけの奴は困るんだ。

「兄上、アリエスはラーク公爵が養女にする為に引き取ったので男爵令嬢ではありません。立派な公爵令嬢です。間違えないでください」

俺の抗議を兄上は鼻で笑いやがった。自分の間違いぐらい素直に認めろよな。


◇◇◇


side.ヴィトセルク


ワーグナーは俺と同じ正妃の子だが、あれは母上の優しさや父上の聡明さも受け継がなかった。同じ環境で育ったはずなのにあれはどんどん手の付けられない愚か者になっていった。

自分が仕出かしたことの重大さを何も分かっていない愚かな弟に背を向け、苛立ちをぶつけるように回廊を歩いた。

「ラーク公爵令嬢に謝罪と慰謝料の手配を。それとアリエス・ヘルディンとかいう毒婦について調査しろ。ミットレッド伯爵夫妻には謝罪と愚弟の後始末をしてくれたことの礼をしなくてはな。そちらも手配をしておけ」

俺がそう命じると音も気配もなく暗闇から現れた灰色の髪に薄水色の瞳をした男。男のくせに白磁の肌をし、女よりも美しいと言われる彼はどんな時でも穏やかな表情を崩さない。そのくせ腹の中では何を考えているかも不明だ。

エーベルハルト・ウィシュナー伯爵。

十二歳の時に両親を亡くし、叔父夫婦に伯爵家を乗っ取られ食い物にされた挙句、没落させられた。十六歳の時に伯爵家を取り戻し、僅か四年で伯爵家を建て直した男だ。ただ穏やかなだけの男ではない。

既に伯爵家を継ぎながらなぜか俺の専属護衛を継いでいる変わり者。

「毒婦ではありませんよ、殿下。アリエス・ヘルディン男爵令嬢。両親を亡くし、孤児同然とは言えれっきとした貴族令嬢です」

そう丁寧に訂正を入れたエーベルハルトの顔はいつもの通りに笑っている。相変わらず心を読ませない男だ。だがそこが気に入ってもいる。

「口八丁手八丁で男を誑し込む女は毒婦以外の何ものでもないさ。それとあの馬鹿はあの毒婦が公爵令嬢だと馬鹿な思い込みをしていたが、スフィア・ラークは毒婦を義妹として受け入れたのか?」

「いいえ。ラーク公爵がアリエス・ヘルディンを養女にする為の書類を用意したのは事実ですが、ラーク公爵令嬢はその書類にサインをすることを拒みました」

「賢明な判断だな。わざわざ毒婦を引き入れるなど自殺行為だ」

が、俺の知るスフィア・ラークなら父親に言われたままサインをしていただろう。

大人しく、従順。男を立て、常に一歩後ろで引いたところにいる。何をされても、何を言われても抗う術を持たない令嬢だった。

控えめな彼女に惹かれていた貴族男性は多かった。彼女は特に騎士に人気だった。騎士はああいう控えめな令嬢を好む傾向にある。

何が彼女を変えたのか。気になるところではあるが、深入りは止めておこう。藪を突いて蛇を出すなど御免こうむる。

「やぁ、久しぶりだね。随分と面白いことになっているみたいだね」

文字通り、蛇が出やがった。

深緑の髪に琥珀の瞳をした男が月明かりを背に佇んでいた。彼は蛇の獣人が住まうヴィペール国の第五王女である側妃が生んだ第二王子。ヴァイス・ヴィスナー。

ヴィペール国は小国であり、災害が続いたせいで困窮していたところをリエンブールが支援した。その為、王女ではあるが大国である我が国の側妃として迎え入れられた。だからといって王宮内で軽んじられているわけでも正妃である俺の母上と仲が悪いわけでもない。

ただヴァイスは長らく国外にいた。その理由は俺と母上、父上と側妃殿だけが知っている。

「外国にいたお前が何を知っている?」

「そうだねぇ」とヴァイスはわざとらしく顎に指を当て、考えるふりをする。だが実際問題、なぜ国外にいた奴がこんなに早く情報を得ることができたんだ?

「俺の愛しの姫君の麗しい髪が無残に切り取られたところとか?」

獰猛な毒蛇のような目を面白そうに歪めてはいるが奴が相当怒っているのは誰の目から見ても明らかだ。

「その愛しの姫君に監視役でもつけてたのか?」

ヴァイスは長くスフィアに片思いをしていた。しかし、彼女は既にワーグナーと婚約をしていた為、ヴァイスは身を引いて、けれど愛した女が自分以外の男と一緒になるところは見たくないとかで国外を放浪していたのだ。

「できれば、そうしたかったけどね。戻った時には間に合わなかった。俺が知っている状況とだいぶ違ってるし。何でだろう?」

「意味が分らん。分かるように言え」

「ああ。ごめん、ごめん。独り言だから気にしないで。君たちに連絡しないでこっちに戻って来ていたんだ。ついたのはついさっき。だけどそこで面白い情報を仕入れてね。情報を手に入れられたのはたまたまだよ」

「もう二度と戻っては来ないと思っていた。俺も、母上や父上も、側妃殿もそれを覚悟の上でお前の国外放浪を許可していた」

「そのつもりだったんだけどね。でもそのせいで守れなかったから」

「何を?」

ヴァイスは悲し気に笑うだけで何も答えてはくれない。奴のこんな顔は初めて見た。

「今度は何も奪わせない」

今度は?

さっきからヴァイスは何を言っているんだ。まるで分からない。

「ヴィトセルク、俺が彼女を婚約者に迎えても何も問題はないよね。もしダメだと言うのなら」

「好きにしろ。積年の想いが成就するんだ。母上や父上も反対はしないだろ。それに今回の婚約破棄は王家の瑕疵であり彼女に一切の瑕疵はない。反対する理由はない」

「ああ、良かった。もしダメだと言うのなら俺はそれを言った人間全員の口を閉ざさなくてはと思っていたんだ」

「‥‥‥」

反対する人間全員を殺すということか。

その中には当然だが身内も含まれている。それを何でもないことのように笑顔で言えるのはこいつだけだろうな。初恋をこじらせた男というのは厄介だな。

「ワーグナーにはまだ手を出すなよ。あれでも王家直系だ。父上の沙汰を待て」

「面倒だね。屑籠に入れるのにいちいち許可がいるなんて」

「その屑に金だけはかかっているからな。屑を作るのもタダじゃないんだよ」

あれに玉座は座らせられないが俺やヴァイスに何かあった場合、王家直系が途絶えてしまう。それだけは避けなくてはならないからな。

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