第12話 美貌の母


 辰巳さんは立ち止まると、廊下の隅に置かれた台の上のランプを手にして、さらに奥へと進んだ。ランプなんか使うくらいならいっそのこと照明をみんな点けて欲しい。そんなことを心中で呟いた。

 家の中にしてはだいぶ歩いたという気がする。振り向くと来た道は真っ暗で、気味が悪い。何かが起こったらば、一人でこの屋敷を抜け出せるだろうかと不意にそんなことを考えて、急に心細くなった。


「こちらです」


 辰巳さんの顔を雷光が照らし出した。その表情はどことなく苦渋という風で、さきほどの微笑みが嘘のように、神妙な面持ちを隠そうとしていない。


「ここですか?」


 案内された部屋は、とても広々としていた。電気があったらその空間がもっと正確に分かったかだろうが、暗すぎて判然としない。大きな窓ガラスが部屋中を取り囲むようにあって、カーテンがすべて開いていたから、そこはもう外の豪雨の中にいると錯覚してしまうような場所だった。

 二十畳くらいあるだろうか。とても広いという印象だった。

 そして、唐突に後ろの辰巳さんが声を出したから、心臓が絞り上がるほど驚いた。


「奥様。この方です。祐介お坊ちゃまのご親友の、井上さまです。この悪路の中をわざわざお越しくださいました」


 辰巳さんはランプを前方にかざした。

 そして、僕はさらに驚いた。 

 そのランプの明かりに照らされて、僕のすぐそばに女性の顔が現れたのだ。

 声を上げてしまうすんでのところで、雷光がすべてを照らし上げた。そして、雷光に遅れて雷鳴が轟いた。

 僕の向かいに長いソファがあって、そこに女性が腰掛けているのだ。

 そして、それは十年以上前と何の変わりもない段柳の母だった。

 白い肌につり上がっているが大きい眼。黒い髪はまとめ上げて、結っている。唇は赤く、化粧もしているものと見える。やはり僕を待っていたのだろうかと思われた。

 段柳の母は下を向いたまま、軽く腰を折って礼をしたようだった。何しろ暗い中で、辰巳さんのランプのわずかな明かりしかないから、よく見えない。


「奥様。どうかお話しください」


「……」


 しかし段柳の母は意識を抜かれたようにぽけっと黙ったままだ。


「あっ、あの、僕は井上です。高校の時に段柳君と友達でたまに遊びに来ていた井上です。あ、あの時は、その、ありがとうございました」


「……いいえ。うちの息子と遊んでくれて、本当に感謝しています。それで、今回はどうか、こんな急に、こんな雨と風の中を……」

 

「いえいえ、いんですよ。僕も久しぶりに段柳くんに会いたくなったので、ちょうどよかったんです」


「……」


 口は半開きになったまま、どこかあらぬ方向を見つめている。


「それで、段柳君はどこにいらっしゃるんでしょう? 上の部屋ですかね?」


 ぼんやりと照らし出された段柳の母は頭を上げたように見えた。そして、こちらをまっすぐに見つめている。そのように見えるのだが、果たしてどうなのか。


「井上さんでしたわね? どうぞこちらにお座りになって」


 か細い声は外の雨音にも負けそうで、やっと聞こえる程だった。

 僕は勧めに従って、彼女と向かい合う形で座った。そうするとその間の低いテーブルの上に辰巳さんがランプを置いて、それでようやく段柳の母の表情がよく分かった。


「あの、祐介は、祐介はどこへ……いったいどこへ行ってしまったのでしょう?」


 途切れ途切れの声で、よく見ると髪は少し乱れて顔には疲労の色を浮かべている。


「祐介君は、どこかへ出かけたのですか? 何も言わずに出て行ったのですか?」


 家出でもしたのだろうかと思ったが、それにしてはこの空気はちょっと異常すぎる。

 彼女はしばらく黙ったままだったが、何だか次の句を急き立てる気にはなれず、そのまま待っていたら、辰巳さんがジンジャエールを持ってきて、ランプのそばに置いた。

 そして辰巳さんが段柳の母の次の句を急きたてた。


「奥様。井上様がお聞きですよ」


 はっと我に返ったように頭を上げて、再び僕をまっすぐに見つめた。その目つきや、鼻立ち、小ぶりな輪郭。すべてが段柳と瓜二つだった。

 そうだ、あいつはこんな顔だったなと思い出すことになった。


「……祐介は、祐介は二階に居るはずですわ。間違いなく……二階に……」


 息が速く荒くなり、過呼吸を起こしそうなほど、興奮し始めた。

 いったいどうしたのか。訳が分からなかった。


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