第43話

 頭に浮かんだのは恐らく同一人物だろう。毅然とした足取りで恵理香はスタスタと玄関に向かい、どちらさまですかと尋ねた。


「恵理香。私──」

「おねぇちゃん?」


 女性の声は私だけでなく恵理香も安心させたようだ。それでも恵理香は入れるべきなのか私に視線を送った。私はやや躊躇いはしたものの、拒む理由もないと恵理香に入れるよう合図を送ろうとして、慌ててビールの空き缶を指さした。


「ちょっと待ってて」


 一言扉に向かって声を掛け、すぐさま空き缶を流しの下に隠した。カチャッ!という音と共に水月の顔が現れ、視線を下に移す。


「あら?御客さん?」


 男物の靴をチラッと見た後、奥に居る私を見た。知らない人ならば遠慮の一つもするのだろうが、水月は至って普通の足取りで近付いて来た。そして、小さな四角いテーブルの反対側に腰を下ろす。



「あ‥どうも。島田です。初めまして──」


「──初めまして」と言い終えるなり水月はプッと吹き出した。


「そんな空々しい挨拶はやめません?島田さんに会ってることはもう恵理香には話してあるのよ」


 意表を突かれたと恵理香に目をやると、冷たい麦茶をトレーに載せ、コクリと頷いてから私の左手の北側に腰を落とした。


「お楽しみのところお邪魔しちゃってごめんなさいね」

「別にそんなことは・・・・」


 私の返事を聞く前に、横に置いたショルダーバッグからポケットティッシュを取り出して、スッと私の方に差し出した。ティッシュには○○生命と記されていた。


「勧誘じゃないから安心して。それよりこれでお拭きになったら?」


 と水月は私の口元に視線を送る。横からアッと言う声が聞こえそうだった。


「そういうのをお楽しみって言うんじゃないかしら?」


 ものの五分も経たないのに不利な形勢に陥ってる。現在に戻った時にトラウマにならなければ良いと、薄紅色のティッシュを見つめた。


「仕事帰りなの?」


 せめて話題を変えようと、白のブラウスに紺のスカートの水月に尋ねようとしたら恵理香が先に口を開いた。


「そう。ちょっとトラブルがあってね──」

「そうですか・・・水月さんも大変ですね」と労いの言葉を掛けると、


「もう恵理香ったらご丁寧に名前まで話して」水月の視線に恵理香はキョトンとしてから、話したかもという顔に変わる。ただし曖昧だ。


「ちなみに島田さんのおうちの方はどう?トラブルはありません?」


 逸らした話題もすぐに振り出しに戻されたようだ。


「もう、おねぇちゃん来た早々でそんなこと言わなくても──」


「今日はお二人揃ってるところでお話が聞けたらって。ちょうど島田さんの車もあったことだし」恵理香の言葉など物ともせずに水月は二人の顔に視線を送った。


「それはそうと、恵理香。お母さんの薬──」


 水月の切り出したワードに私はつい反応した。どう見ても今の恵理香は薬に頼るほどの精神状態ではないと思ったからだ。


「ちょっと私、仕事で忙しいから代わりに取りに行ってもらえる?」


 思惑違いだったかと、悟られぬよう私は胸を撫で下ろした。だが、それもつかの間、これから本題に入るとばかりに水月は目の前の麦茶をゴクリと飲む。喉でも潤したのだろう。


「それで島田さん。お伺いしたいのは例の方向性についてなんですけど」


「方向性か・・・・。たぶん離婚になるだろうな。ハンコ用意しとけって言われたよ。フッ‥。保険の契約とはちょっと違うみたいだけど」


 つまらぬ冗談だと覚悟したが、水月は何も言わなかった。次の言葉には少し間があった。


「奥さんに気付かれたのね。それとも島田さんが話しを?」

「いや、話ってことも・・・・。ちょっとしたことでね」


「女って勘が鋭いですもんね」


 ここで水月は正座していた足を崩し、恵理香の顔に一度目を移した。


「それで・・・・押すの?」

「おねぇちゃん。何も今そんなこと訊かなくても──」


「でも心では決まってるんでしょ?ごめんなさいね。妹と違って口も性格も悪いから」


 否定するように首を少し振ってはみたが、実のところこれをまた現在の水月に話そうか迷っていたのだった。きっと顔をゆがめるに違いないだろうが・・・・・。


「恵理香はどうなの?」

「どう・・・・って?」


「押して欲しいんでしょ?」

「それは・・・・」


「もう、ハッキリしないわね!押してもらえばあなただって嬉しいわけでしょ?」

「嬉しいなんて・・・・。私のせいで島さんのところがそんなことになっちゃうのかと思うと・・・・」


「いや・・・悪いのは俺なんだから──」


「あの、そういうのは私が帰ってからゆっくりやっていただけません?」


 まるで終止符を打つかの言葉に私も恵理香も黙り込んだ。


「でも、だいたいの内容はわかったから──」と水月は腰を上げた。


「明日も朝が早いの。じゃ恵理香、薬の件は頼んだわよ」歩きながら一言声を掛けて水月は扉の向こうに消えた。残ったのは部屋に漂う沈黙だけだった。

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