風が伝えた愛の歌【中編】

鬼無里 涼

第0話 喪失

 少年は若い男女二人の神官に手を引かれて走っていた。

 どうしてこんなことになっているのかがわからない。深い緑に囲まれた、精霊たちの森。この静かな森で村が、人が、燃やされている。神殿の門の向こうで、神官長が血だまりの中に倒れているのが見えた。

 熱い。血と煙と、生き物の焼けるにおいが辺りに充満している。


「ショーン、足を止めるな! 君をあの男に渡すわけにはいかない!」


 振り返ると、遠くに黒いローブ姿の男が見えた。頭上の大きな火の玉から、ほのおの雨を降らせながら、神殿に背を向けてゆっくりと歩いている。幸い、男はまだこちらには気づいていないようだ。

 石造りの神殿。それほど大きくもない本殿の中に駆け込むと、三人は祭壇さいだんの向こう側で隠れるように座り込んだ。


「君の腕にまった腕輪……それは女神さまが君を選んだ証なの。これからこの世界はおそらく荒れるわ」


 女性神官がショーンの両手を包むように握り、真剣な顔で告げる。少年の左手首には白金の精緻な細工、二頭の龍が絡み合ったような腕輪が光っていた。男性神官は祭壇の真ん中の板を外し、重そうな背嚢はいのうを取り出す。


「選ばれた? 世界が荒れる? 何がなんだかわかんないよ!」

「世界がひんしている脅威きょういについては、我々にもわからない。けれどその腕輪は、世界を救う力を秘めていると伝わっているんだ。世界が荒れるとき、女神さまがその力を使うに相応ふさわしい者を選んで、腕輪を授けると」


 パニックにおちいっている少年を落ち着かせようと、男性神官が静かな口調で告げる。その間に、女性神官は祭壇から顔を出し、見える範囲の神殿の様子を確認した。


「ショーン。そうなると、君は我々だけでなく、この世界の希望となる光なんだ。あの禍々まがまがしい闇の気配をまとった男には渡せない」


 黒いローブの男も炎も見えない。肌に無数の針を刺されるような禍々しい気配も感じない。男はまだ神殿に入ってきていないようだ。しかしここにいれば、いずれあの男は彼らを見つけるだろう。

 新たな焔の柱が遠くに立ったのが見えた。これなら急げば裏口から少年を逃がせるかもしれない。


「今ならいけそう」


 女性神官の声に、男性神官がうなずく。


「こっちだ。行くぞ、ショーン」


 男性神官は背嚢を手に、女性神官は少年の手を引き、神殿の奥へと走りだす。

 本殿を抜け、裏庭へ。高い塀に作られた隠し扉を開け、神殿の外へと飛び出した次の瞬間――。


「お待ちしていましたよ。どうやら腕輪の持ち主は、その少年のようですね」


 若く妖艶ようえんな、底冷えのするような声が響く。禍々しい気配を纏った細身の長身。黒いローブの男がすぐそこに立っていた。その手には、地面から胸までの長さがある金属製の杖が握られている。杖の持ち手の先端には、紅黒い宝玉が妖しく輝いていた。

 男の深い紫色の瞳と目が合った瞬間、少年は凍りついたように動けなくなった。男は微笑んでいるのに、全身に刃を向けられているような、冷たく鋭い印象の視線が刺さる。心が、すくむ。


「この子は絶対に渡さない!」


 男性神官が叫ぶと同時に、氷の壁が男を囲んだ。その隙に、二人の神官は動けない少年の手を引いて再び駆けだす。


「ほう、氷ですか。こんな薄い壁で私を閉じ込められるとでも?」


 男が楽しげに微笑むと、氷の壁は粉々に砕けた。男の腕が、彼らに向けて伸ばされる。

 そのとき、突風が男を吹き飛ばした。男は近くの大木に背中から叩きつけられる。


「ショーン! 逃げなさい!」


 その声に少年は我に返った。声のするほうを振り返ると、見慣れた背中と銀の長い髪。吹き飛ばされた男と少年たちの間に、いつの間にか母の姿があった。


「母さん?」

「早く、逃げて!」


 母の叫びが響いた次の瞬間、母の姿が青い焔に包まれる。その向こう、大木の根元では、男が口元の血を拭いながら微笑んでいた。


「いやはや、油断しました。精霊とは厄介な存在ですね。邪魔をするなら全て焼き捨てるまで」


 黒い炭となり燃える、つい先ほどまで母だったもの。手を振り払いそれに向かって走りだそうとする少年を、二人の神官が必死に止める。そんな彼らに向けて、男は新たな焔の玉を放った。

 女性神官が咄嗟とっさに身をひるがえし、焔を自らの身体で受けた。身を焼かれながら男性神官を振り返り、強い瞳で頷く。男性神官は頷き返し、ショーンを思いっきり突き飛ばして背嚢を少年の足下に投げた。


「君はこの世界の光」


 困惑する少年を安心させるように一瞬微笑み、男性神官は両手で印を結んだ。その手の間に、まばゆい光が生まれてふくらむ。


「君だけは、絶対に守る」

「逃がしませんよ!」


 男性神官の背後に焔の玉が迫る。神官は逃げようともせず、背中でそれを受けながら光の玉を少年に向けて解き放った。あまりのまぶしさに、少年はぎゅっと目をつぶる。少年を包んだ光を後押しするように、青い焔の中で神官は魂を絞り出すような声で叫んだ。



「生きろ!」



 ――耳に残る叫び声。彼を包んでいたまばゆい光がおさまると、少年は見知らぬ丘にひとり立っていた。


 だだっ広い冬枯れの草原。黄昏の光が、草原のところどころに突き出した白い岩を黄金色に染めている。通り雨でもあったのだろうか。草にはところどころに水滴がついて、光を乱反射させている。


 一迅の冷たい風が吹き抜けていく。湿った枯れ草の匂いがする。

 静かだ。先ほどまでの光景が嘘のように。

 けれども鼻の奥に残る匂いが、あれは真実だと告げている。血と、煙と、生き物の焼ける匂いが。


 少年は足下に転がったものを見た。少しすすのかかった背嚢ひとつ。彼が光に包まれる直前、神官が投げてくれたものだ。少年には、もう帰れる場所はない。


「あ……」


 少年は両のてのひらを軽く広げてそれを見た。左腕に嵌まった腕輪が黄昏に輝く。赤い瞳と緑の瞳。二頭の龍が絡み合う、白金の腕輪。故郷の女神像に嵌まっていたはずの、その腕輪。

 彼は何度か目をしばたたいてがっくりと膝を落とし、雲ひとつない真っ青な空を見上げた。

 うるんだ景色。しかし涙はあふれてこない。痛いほどの静寂の中、声にならない叫びが枯れた草原に響き渡る―――。


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