第5話 想い

 薄れていく意識の中で、ショーンは風を感じていた。


 暗転した視界に広がる幻影。ショーンは色を失い、モノクロのだだっ広い草原の上にただひとり、ぽつりと立って宙に浮かんでいた。

 うっすらと開いたその眼に力はない。


 頭がぼうっとする。肌寒い。あれほど責めさいなまれていた痛みも恐怖もまるで感じない。何も考えられない。何も思い出せない。何かをする気力も湧かない。

 幾重いくえにも連なる丘。その丘をどこまでも続く草原の上に低く揺蕩たゆたいながら、何を思うこともなく彼はただただ茫然ぼうぜんと色のない景色を眺めている。

 その草原を蕭々しょうしょうと渡る風が、湿った枯れ草の匂いとともに何かを運んできた。


(……う……た?)


 それは、子供の歌声――。


 その子の姿は見えない。けれど、その歌声は妙にはっきりと彼の耳に届いた。

 どこか哀愁あいしゅうを帯びた、懐かしく優しい旋律。かすかだが、どこまでも遠く広がっていくようなその歌声。


 乾いた土に水が染み込んでいくように、その歌声が彼の身体に染み込んでくる。うつろだった彼の瞳に次第に光が宿っていく。


 歌が色を運んでいるのか、モノクロの草原がじわじわと鮮やかな色に染まっていく。朝焼けとも夕焼けともつかない黄金色の光の波が、同心円状に広がって正面から押し寄せてくる。枯れた草原が陽光に照らされ、ところどころに突き出した白い岩が黄金色に染まる。葉の表面の水滴が風に揺れ光を乱反射させて、起伏のある草原全体がキラキラと輝きはじめる。


(この……歌……どこかで……)


 彼はその歌に身を任せ、導かれるままに声のするほうへ……色の中心へと向かって飛んでいく。いや、吸い寄せられていくと言ったほうが適切か。

 風に逆らい、彼の意志とは関係なく身体は空中をゆったりと進んでいく。微睡まどろみにも似た朧気おぼろげな意識のまま、周りの景色だけが流れていく。

 やがて彼の目に、こちらに背を向けて歌っている子供の姿が映った。蘇る淡い記憶。


(この光景……あれは、あの日の……俺? いや、違う。あれは……)


 流れる景色が急加速する。遠く小さかった子供の姿がぐんぐんと近づいてくる。その子の姿がはっきり見える距離まで近づくと、不意に歌声が止んだ。その子が祈るように胸の前で手を組み、今にも泣き出しそうな不安気な顔で振り返る。やはり、あの少女だ。

 少女の姿が、少年時代の自分と重なる。彼はハッと息を呑んだ。とたんにすべての動きが一気に減速する。


 少女がこちらを見上げて何かを言っているのが見える。彼は耳をました。

 風は吹き続けているのに、少女の声も草ずれも、風の音すらまるで聞こえない。一切の音が消えた世界で、少女の両手が彼に向かって伸ばされる。少女の口が何かを叫ぶ。


お・に・い・ちゃ・ん!


 少女が背伸びをしながら必死になって両手を伸ばしている。少女に近づくにつれ、霧が晴れるように、次第に彼の意識がはっきりしてくる。彼は目を大きく見開いた。


(あれは……――俺はここで何をしている? 今、俺に何ができる? これから何をすればいい?)


 彼も自らの意志で少女に向かって手を伸ばす。彼の指先が少女の差し出す手に触れたとたん、その指先に色が灯った。少しずつ彼の全身に色が戻っていく。色とともに流れ込んでくる、心地よいぬくもり。

 さまざまな記憶が駆け巡る。穏やかだった日々、大切だった人々、襲撃、焼かれていく村、彼をかばたおれていく人々、痛み、荒野、旅のさなかに見てきた街、助けてくれた人の手のぬくもり、戦場、見かけた葬列、出会いや別れ、笑顔や嘆き、うずくまる人と差し伸べられた手、悲喜こもごもの人々の営み……そして、彼を守り逃がしてくれた神官が最期に叫んだ「生きろ!」の声。

 青年の目からせきを切ったようにこぼれ落ちる涙。熱い想いが心の奥底から湧き上がり、涙とともにあふれ出す。


(世界を救うすべなど俺にはわからない。けれど、今俺が望んでいることならわかる。この子をこんなところでひとりにはさせられない。この子に……いや、この子だけじゃない。もう誰にも――誰ひとり俺と同じ思いはさせたくない。せめてこの子を安全な場所に送り届けるまで、俺は斃れる訳にはいかない。俺は生きて、自分の意志でこの子を……メラニーを守りたい。そのために、俺が今なすべきことは――)


 彼の全身にすべての色が戻った。彼は草原に降り立ちひざまずいて、うるんだ瞳で彼を見上げて微笑む少女を抱き寄せる。


「ありがとう。俺は戻る。君は必ず、俺が守る」


 少女を強く抱きしめた瞬間、幻影が消えて現実の景色に戻った。とたんに戻る、全身の激しい痛み。だが、もう不安も恐怖もそこには残っていない。

 ショーンは歯を食いしばり、激痛の中で目をカッと見開いた。


「く……そ――、負けるかぁっ!」


 腕輪が急に強い光を放った。

 嘘のように全身から痛みが引いていく。


 光がおさまると、ショーンは地面に両肘をついて上体を起こし、項垂うなだれたまま肩で息をしていた。呼吸が少しずつ落ち着いていく。


「ほう……この術を破るとは、なんと強い精神力―――これでちなかったのはあなたが初めてですよ。ますますあなたが欲しくなりました」


 にこりと微笑むキースに、ショーンはゆっくりと立ち上がりながらぽつりと言った。


「俺の意志は変わらない」


 ショーンの言葉に、キースは苦笑いを浮かべた。


「でしょうね。では今度は力ずくといきましょうか」


 不意に足下の地面が揺らぐ。

 ショーンが飛び退すさると、地面の岩が盛り上がり、人の形になった。


「殺さない程度に遊んでおやりなさい、ゴーレム君」

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