#4 点滅信号

 絵本は座卓の上に置かれている。女は部屋を出ていかない。ここで食事の給仕をするつもりなのだろうか。それは嫌だな。ひとりにしてほしい。


「読みました」

「この辺りにはあのお話に出てくる男が堀った井戸や温泉があるんです」

「まさか。絵本のお話でしょう?」

「ほんとです。ほら――」


 女は窓の外、黄色い光りを明滅させている信号機を指さした。


「あの信号を渡って、谷川の方へ下っていけば温泉があります。あずま屋自慢の露天風呂です。あ、いけない――」


 女は立ち上がると、お風呂の支度をしてきますねと言い残して部屋を出ていった。温泉か。


 またひとりになったわたしは、夕食の膳に箸をつけた。美味い。ほっこりした川魚の天ぷらなど絶品だ。こんな美味いものをわたしだけ食べて。はいまごろどうしているだろう。


 先月、会社をクビになった。わたしは掘削ボーリングの会社で掘削機を操作する仕事をしていた。掘っていたのは温泉だ。昨年来の感染症拡大で受注が激減した会社から人員整理に遭ったのだ。


 あいつには、「会社をクビになった」とは打ち明けられなかった。毎日、出勤するフリをして街の公園に通い、金網越しに道路工事の現場で働く作業員たちを見ていた。ボーリングではないが、コンクリートやアスファルトを様子を見ていると不安でなくなるからだ。


「少ないんだけれど」


 申し訳なさそうに人事担当課長が手渡してくれた退職金という名の一時金はすずめの涙。ひと月もたたないうちに亡くなってしまった。折からの不景気と、もう若くはない年齢が災いして、再就職もうまくいかなかった。


 しかし、そうしていられたのもひと月だけのことだった。本来なら今日が給料日だった。毎月持って帰ってきていた給与明細がなければ、妻も不審に思うだろう。会社をクビになったことを、ずっとひとり抱え込み悩んできたわたしは追い詰められていた。


 今朝、いつものように家を出ると、衝動的に長距離列車に飛び乗り、遠くへ遠くへと逃げてきた。その終点がこの温泉宿だったというわけだ。窓際に置いたリュックを見た。なかには、いつも現場で使ってきた大型ナイフが入っている。


 ――妻に迷惑の掛からないところまで行って、死のう。


 夕食の箸をおいた。女の言うとおりならば、窓から見える点滅信号を渡っていけば、谷川へ出られるらしい。もういいだろう。そこまでいけばだれにも迷惑はかからない。わたしは手にたったひとつの荷物であるリュックを持つと立ち上がった。

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