7-2 記憶と現実と夢と

      ◆


 妓館の名称は「白蔦館」という名前で、サニラットン公爵領の中心地サニラタに限らず、周囲でも名の通る高級店である。

 私はこの街で生まれたが、父親は不明で、母親は場末の酒場の下働きだった。この酒場というのが、形の上では酒場だが、なんでもありの店である。サニラットン公爵領の法律で禁止されているのに、女たちは身を売るし、男が身を売ることもあった。

 密造酒などは当たり前で、狭苦しい小部屋では賭け事が連夜、繰り広げられる。そして賭けで負けたものには高利で金を貸すのだ。金を借りた方は、場合によっては暴力によって身ぐるみを剥がれることもある。最後に残るのは全裸の死体だけだ。

 そんな環境で育った私だけど、幸運にも、その環境で生きることは回避できた。

 私は九歳の時、母によって妓館に売られた。最初は下女の扱いだが、白蔦館はいずれは妓女とするものを自分たちで育てる。言葉遣い、行儀作法、閨でのあれこれと、ありとあらゆるところに客のことを考えた要素が含まれている。

 九歳までの私は食うや食わずだったけど、母は例えば私を他の子どもたちと遊ばせたりはしなかった。家に半ば閉じ込めていた。

 それは今になってみれば、私を守るためだったのだろう。

 商品としての私を。

 妓女になるものは、古今、美しい体のものが求められる。傷などあってはいけないのだ。

 私が生活していた長屋には、母のような立場の女たちが大勢おり、父親がわからない子どもも多かった。いずれは奴隷になるか、兵士になるか、売られていくか、そんな子どもたちだ。

 環境が劣悪なため、協調性は重視されない地獄のような場所だったと、ふと過去を思い出すと気づくものだ。

 母が懸念したことは、どこかの子どもが私の顔や体に傷をつけることだっただろう。

 母は私の髪に櫛を入れるのを怠ったことがないのも、私の記憶に残っている。

 九歳から白蔦館で仕事を始め、十四歳で初めて客をとる。

 母が亡くなったと聞かされたのは、十八歳の時だった。

 店で客と口論になり、酒の入った瓶で頭を殴打され、それで終わり。

 母を殴りつけた男は逮捕され、どこかの牢に入ったというが、その後の消息は不明。

 私は帰る場所を永久に失い、白蔦館での仕事に、より一層、打ち込んだ。

 そのうちに多くの客を持つようになり、少しずつ私を抱く男は選ばれたものだけになり、私の生活の質も向上した。

 自分だけの個室を持つことが許された時、私は少しの満足感と、少しの後ろめたさを感じた。

 頭を砕かれて一瞬で死んだ母が、この私を見ることはない。

 私は誰のために働いているのか、誰のために生きているのか、それを考えたのはこの頃からだ。

 それからずっと、私は様々な客の相手をしながら考え続けている。

 妓女を買いに来る男には様々な人がいる。美しい女と一夜の夢を見たいもの、ただの欲望を発散させたいものなどいろんなものがいて、中には、来てみたはいいけれどどうしたらいいのだろう、と困惑しているものもいるくらいだ。

 私はどの客にも誠意を向けて、できる限りの事をした。

 まるで代わる代わるやってくる男たちの記憶に、私という存在を刻み付けるように、私は日々を過ごしている。

 今はもういない、母に何かを見せつけるように。

 空虚なような気もするし、その最後の一線、細い糸のようなものを手放してしまえば、私はどこか、深いところへ落ち込んでいってしまうような想像もできた。

 でもここで気を張ったところで、いつかは途絶えてしまう気がする。

 太陽が昇れば、次には太陽は必ず沈む。太陽が沈むとは夜が来ることであり、夜が来れば男たちが私の元へ来る。男と女の世界が、この世のありとあらゆるところで展開されるように、私の目の前でも展開される。

 苦しいとも、辛いとも思わず、自負と好奇心がただ心を占めていた。

 サニラットン公爵は十日に一度、白蔦館へやってくるようだ。それは私の元へ来る日のことで、もしかしたら別の妓女が公爵の相手をしている可能性もあった。

 きっかけがあれば私から、他の女が相手をしている夜があるのですか、と聞くこともできた。でもそんな場面はなく、また興醒めだろうと思うことも多く、口にすることはしていない。

 季節は冬が深まり、サニラタの街にも雪が降った。

 妓館へやってくる男たちは厚着をするようになり、妓館の部屋には火鉢がいくつも置かれるようになっていた。それでも空気はどこか張り詰め、この冷えた空気の硬質な感触には、どんな香も打ち勝てないようだった。

 サニラットン公爵は普段通りに通ってくる。彼の服も厚地のものになったが、公爵という身分を隠しているため、まるで平民のそれのように見える。安っぽく、使い込まれていて、もしかしたら古着なのだろうか、と思うことも再三だ。

 そのことも、やっぱり私は問うことはしなかった。

 妓館に来ることは、やっぱり夢を、願望を叶えるためなのだ。

 それも現実では、日常では決して叶わないことを叶えるために、客はやってくる。

 下手なことを言って客を現実に引き戻し、見たくないもの、考えたくないものを意識させるのは、妓女がやるべきことではない。

 少なくとも私はしない。

 評価云々ではなく、私自身が現実を見たくないと思っている側面があるのが、事実だ。

 自分が体を売っていることを私はまだ、どこかで認めていない。

 私は夢を売りながら、自分自身を夢の中に閉じ込めている。

 それは冬の中の冬、極寒の日だった。私は自分の部屋で書籍を読んでいた。

 客をとると、夜が明けるまでの時間は意外に長い。まぐわうだけではなく、横になりながら何かを話すように求める客も多い。そういう時のために、話のネタを用意するための読書だった。

 国が乱れたことで、国中で次々と書籍が作られているので、読むものには困らない。

 書籍を作る理由は、自分たちの正当性を訴えることにあり、国の歴史や古の歴史的事件どころか、世界を作るところから始まる伝説さえも、正当性を作るための材料にされている。

 なので、私が知っている範囲では、三つの侯爵と一つの伯爵が、自分たちこそが最初の国を作った一族であると主張し、二つの伯爵が、自分たちは世界を作った神が遣わした、元は天に住む存在だった、と荒唐無稽なことを主張していた。

 書籍にある物語も、やはり夢だと私は考えたりした。夢は様々なところにあり、現実を生きる人々は、それだけ現実というものに倦んでいるんだろう。

 書籍に没頭していて、店のものが声をかけてくるのに気づくのが遅れた。

「ネイネ様、お客様がお待ちです」

 顔を上げ、壁にある時計を見たが、時計を見ずともまだ日は落ちていない。窓の向こうは明るいので、灯りさえ入れていないのだ。

 客が来るような時間ではない。

 しかし客が来れば迎え入れる、そういうものだし、そもそも拒絶できる客なら私が呼ばれるところまで至れない。門前払にされるだけだ。

「支度をします」

 私はそう言って、書籍を棚に戻し、身支度を始めるために壁にある紐の一つを引いた。これで控えている少女たちがやってきて、化粧をしたり、着物を着付けたり、髪を結い上げたりするのを手伝ってくれる。

 しかし、いったい、どこのお客だろう?




(続く)

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