第五部 尼僧と女傭兵

5-1 教会にて

     ◆


 ゥラック侯爵領は、ほとんどを山林が占めている。

 その中でも特に山深いところにクリスタリー教会はある。十字教の中でも改革派を名乗る宗派の教会で、神の教えを基礎に、この乱世を生きる人々はどう心の安寧を得ることができるのかを、探求している。

 そのために、礼拝こそ一般的な、司教を筆頭とした聖職者の他に近隣の住民を集めて行われる平凡なものだが、それ以外に討論会が頻繁に行われていた。これは単純に「会議」と呼ばれている。

 私はといえば、父を戦争で、母を病で亡くした天涯孤独の身を、知り合いが奔走してくれたおかげで十歳で教会にやってきた、ただの尼僧である。もう十八歳になる。

 クリスタリー教会には全部で四十名ほどの僧侶と尼僧がおり、男性である僧侶は、しかし頻繁に入れ替わっていく。そこにもこの世の中、乱れた世の中の一側面があるのだけど、尼僧は至って平穏に、日々を祈りと聖務に費やすのだった。

 季節は秋になろうとしていて、夏の盛りの強すぎる日光も柔らかくなった。木々の枝葉も少しずつ色あせていき、しかし次には赤や黄色の、緑とはまた違う美しさを一面に展開するだろう。

 この世界は、何があっても続いていくとこの教会にいると頻繁に感じる。

 人が生きていようと死んでいようと、国があろうとなかろうと、自然、世界というものは、確実に時間とともに前に進むのだ。

 私はそんなことを考えながら、教会の花壇の手入れをしていたのだが、すぐ横にいる人物に注意を与えなくてはいけないのだった。

「セラさん。雑草は根から抜かなければ、また生えてきてしまいますよ」

 無表情の顔がこちらを向くと、やはり怖い。

 しかし怒っているどころか、困惑しているような瞳の色をしていた。

「取り方にコツがあるのです。見ていてくださいね」

 私は彼女がじっと見ているところで、雑草を抜いて見せた。土の下にあったやや白っぽい根が、小さな緑にくっついている。

 それからセラは何度か挑戦していたが、不器用なのか、慣れていないのか、うまくできることはなかった。

 次は夕食を作らないといけない。教会には料理人などおらず、全てが自分たちの仕事になる。これもまた、聖なる仕事ということだ。

 セラは掃除の当番なので、私に頭を下げて離れていった。

 調理室へ向かう途中で、同じ尼僧のルカと顔を合わせた。挨拶を交わして、二人で廊下を歩く。

 ルカは私より一歳年上だけど、教会に来たのは私の方が一年先だった。そんな関係もあってか、尼僧の中では最も親しいと言える。お互いに天涯孤独なのも似ている。

 ルカがセラのことを話題にしたのは、まったく自然だった。私がルカの立場でもそうしただろうから。

「新しい子はどんな具合ですか、ユキノさん」

「ルカさんがそうして話題にする程度に、まだ溶け込めていませんね」

「あの小柄な方、セラさんはなんというか、普通じゃないと思うわ」

 ルカが、普通じゃない、という言葉を使うのは珍しかった。

 諌めるわけでもないけど、私は反射的にセラをかばっていた。

「そのうち仕事にも、生活にも慣れると思います。言葉を口にしないのは、きっと何か、事情があるのでしょうし」

「酷い場面を見た、とかかしら」

「あまり詮索してはいけませんよ。話してくれるのを待ちましょう」

 そんなやり取りをしているうちに、調理室に着いた。既に一人の尼僧が作業を始めていた。私とルカは素早く身支度をして、仕事を始めた。料理を作り始めると、もう話をする余裕はない。四十人前の料理をたった三人で作るのだ。

 慌ただしい時間の後、配膳係の尼僧がやってくる時間になり、おおよそ山場は通り過ぎた。

 配膳係の尼僧が何か大声を発していると思って見てみると、なんと、セラを叱りつけていた。

 本当なら割って入って新人を弁護したいところだけど、そうできない光景だった。

 尼僧の剣幕が強すぎるとかではなく、セラが全く反応しないのだ。

 恐縮しているようではなく、反省しているようでもない。戸惑っているようでもない。

 全くの無。虚無と言ってもいい。

 なにせ、目を伏せさえせず、自分を叱りつけている尼僧をじっと見ているのだ。

 いや、じっと、というのは違うかもしれない。

 ぼんやりと視界に収めている、というところだ。

 見かねたルカが動き出したことで、私も動きを取り戻した。ルカと二人で尼僧に謝罪して、その尼僧は私たちより二十は年上なので、ひたすら謝り、セラには配膳について教えておきますから、と頭を下げた。

「ここに来てもう一週間ですよ」

 尼僧の口調は怒りそのものだったが、そこはさすがに聖職者らしく、抑制されてはいる。ここでは暴言も暴力もないが、空気というものが大きな意味を持つ。

 私もこの数年で、空気に混ざる悪意によって去っていったものを何人も知っている。

 人間は言葉も力も用いず、空気、環境、そういう無言の圧力で、他人を虐げることができるものなのだ。

 尼僧が「あなたたちが配膳をしなさい」と指示をしたので、私とルカは繰り返し謝罪し、配膳の仕事をした。セラも手伝ったが、なるほど、彼女はあまりにもなっていない。食器を置く位置などバラバラで、町の食堂でももう少しマシだろう。

 場合によっては器の中身をこぼしそうになり、それで器の縁が汚れても、そのままにしたりする。

 一週間云々以前に、育ってきた環境に何か、世間とは違うものがありそうだ。

 配膳が終わるともうクタクタだけど、もちろん、次は食事だ。

 食事もただ食べるだけで済むものではない。食べ始める前に長い長い、それは長い祈祷を行う必要がある。セラは当然、聖句を覚えているわけもないが、一応、手を組んで目を閉じる程度のことはしているようだ。私が目をうっすら開けて確認した限りでは。

 尼僧服に汚れがないのを確認し、シワがないのも確認する。

 ふとセラの服の裾に変な折り目があるのが目についた。尼僧服を畳む時、失敗したんだろう。

 さりげなく手を伸ばして、直してやろうとすると勢いよくセラが振り返った。

 この時、私の目を見た彼女のその視線は、なんと表現するべきか、すぐにはわからなかった。

 獣じみた野性の目、というべきだろうか。

「裾が折れているわよ。直してあげるから」

 私の言葉にセラが少し目を丸くした気がした。でもそれだけだ。「すみません」とか「ありがとう」とか、そういうことは言わずにいる。

 結局、私は無言で尼僧服の折り目をできるだけ正してあげた。

 食事の席になり、僧侶と尼僧が長いテーブルを囲む。誰も無駄口を聞かないので、ただの食事なのに厳粛な雰囲気である。

 最後には司教のユリアスが入ってきて、自分の席についた。

 小さな咳払いの後、ユリアスが低い声で祈祷を始めた。最初こそ司教一人の祈りだが、この宗派では僧侶も尼僧も途中から参加し、声を合わせて聖句を唱える。

 耳を澄ませたけど、やっぱりセラの声は聞こえなかった。

 聖句ってなんでこんなに難しいのだろうと、私は最初、思ったものだ。

 でも今のセラが当時の私と同じことを考えるとは、とても思えなかった。





(続く)

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