第4話 母は生活を守りたい

 コンサートホールの中は、階段からロビーまで人があふれていた。

 緋色のカーペット、照明の光はクリスタルを虹色に反射させている。

 そのロビーを見下ろすオープンスペースのカフェで、開演時間を待ちながら、交野桃子は夫と息子を前に浮かれている。


「嬉しいわ。ついに家族そろって、こんな大勢の人が集まるところに、こうやって来る日が来るなんて。しかも、オーサカ交響楽団よ」


 国内では有名なオーケストラの定期演奏会だった。会員でもないのに、家族3枚分もチケットを手に入れることが出来たのは、幸運としか言いようがない。


「岡さんに感謝せねば」


 夫の次郎が深く頷いた。


「総務の岡さんが、新聞社の友人からもらった招待チケットを『我が家はクラシックに用はない』と回してくれたんだからな」

「岡さん御一家は、誰もクラシック聞かないの?」

「岡さんご夫婦は揃ってハードロック、息子さんは民謡らしい。しかし、俺もこんな形でちゃんとコンサートで音楽を聴くのは、初めてかもしれん」


 しみじみとコーヒーを飲む父に、息子の涼が不思議そうな目を剥けた。


「お父さん、家でクラシックはよく聞いているのに?」


 次郎は遠くを見る。


「コンサートそのものは、これまでに何度か来ている。だが目的は音楽ではなく、聴衆に紛れて標的に接近を図るなどの仕事がらみだ。演奏だって、シンバルが鳴る瞬間を待つとか、タイミングを計るのに集中するあまり、まともに聞いていない」

「……」

「そうそう、私もよ。仕事ではよく来ていたけど、純粋に音楽を楽しむのって初めて」


 うれしいわ、と桃子はハンカチでうれし涙を拭った。


「これも、涼が恐怖症を克服出来たからだわ。しかもあなた、学校で教室の掃除中に、雑巾とモップで野川くんたちと野球をしたんですって?」

「……」

「先生から電話で聞いたとき、お母さん、電話口で泣いちゃったわ」


 幼少時の凄惨な生活を送っていた影響で、感情と表情が無かった息子が、大勢の人前に出られない恐怖症を克服したばかりか、今では立派な中学生のバカ男子に染まりつつある。

 その成長を喜ぶ母の涙に、涼は複雑な顔でプログラムを開いた。


「ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番に、ショスタコーヴィッチ交響曲10番。シンバルはある」

「ふむ。何か起きやしないか、少々不安だ」

「大丈夫よ、昔の知り合いの顔も見ないし」


 そろそろ行きましょ、と桃子は紅茶を置いて立ち上がった。

 その時だった。


「モモ!」


 声よりも、呼び方が桃子の記憶を叩いた。

 その呼ばれ方は、中学を出てからは全く使われていない、過去の更に過去の呼び名。

 稼業に入る前のもの。

 声の主は、すぐに分かった。次郎の肩の向こう、ホールを移動する人混みに逆らうようにやってくる女性。


「美佳!」


 桃子は声をあげた。


 コンサート終了後、ホールの隅で桃子と美佳は、お互いに手を取り合って跳ねていた。


「すごい、まさかこんなとこで会えるなんて!」

「うっそ、何年ぶり? だって中学卒業してから、全然じゃない! モモは今まで何をしていたの?」


 「色々」桃子はにっこりと笑い、隣に立つ次郎と涼を紹介し、美佳の連れに目を戻す。

「ご主人? 素敵な方ね」


 美佳は、雑誌で紹介される「良家の人妻のお出かけファッション」そのものだったが、連れの男はそれとは真逆だった。

 緑と赤、原色同士を組み合わせたファッションは、既定路線を死守するサラリーマンとは異なった空気を発している。男にしては、甘い香りがした。


「ううん、トモダチ。スガノ・ヒデよ」

「どうぞよろしく」

「これはお美しい。さっきの演奏も素晴らしかったが、耳だけではなく、目の幸福まで飛び込んでくるとは」

「あら嬉しい。久しぶりに良い気分にさせて頂いたわ」


 スガノへ向けて、愛想良い顔を向けた桃子。

 美佳の目にわずかな苛立ちが混じった。


「モモ、ヒデを知らないの?」

「?」

 スガノは「まあまあ」と笑った。


「僕の場合、顔より作品のほうが有名ですから」


 その自信に満ちる空気。しかし、作家でもなさそうだ。

 スガノが何者なのか、桃子は少々困った。その時、援護射撃があった。


「現代アートの画家だ。公募で何度か作品が受賞されているし、個展も開かれているはずだが、母さんはアートに疎いからな。芸術雑誌や高鳥屋のデパートの画廊で、作品を拝見したことがあります」


 次郎の言葉に、美佳が機嫌を直す。


「モモのパートナーは、彼をよくご存じね。現代アートはお好きですか?」

「まあ、多少は」

「近いうち、画集をお贈りしますよ」


 スガノが桃子へ笑いかけた。


 桃子と美佳と改めて会ったのは、数日後の昼だった。

 待ち合わせのイタリアンレストランは、ランチの時間帯で満員だというのに、優雅な空間があった。テーブル同士の距離が程よく離れ、穏やかな空気がある。

 2人、シャンペンで乾杯をする。

 同じクラスで同じ授業を受け、休み時間に同じグループの中で嬌声を上げていた同級生は、商社マンの妻になり、小学生2人の女の子を持つ母親になっていた。

 中学の時代の十代特有の野暮ったさは消え失せて、垢ぬけた大人の女だった。


「美佳は学校の成績も良かったし、中学の頃から男子にも人気があったものね。やっぱりその後も、幸せの王道そのものだわ」


 若い女性から奥様向けまで、ファッション雑誌の読者モデルのようなコースを歩いてきた美佳に、桃子は軽い羨望を感じる。


「モモだって、頭が良かったのに。だって英語や数学は、モモのほうが点数良かったじゃないの」

「そうだっけ」

「そうよ。それなのにモモってば、せっかく受かった高校入学も辞めたって聞いて、何も言わずにいなくなって、みんなすごく心配していたのよ。なんだか、卒業してすぐにご家族に不幸があったとか噂で聞いたけど」

「まあ色々。今は中学生の男の子の母親で、スーパーのパートに出ている主婦よ」

「もう息子が中学生2年生って、モモは結婚が早かったの?」

「血はつながってないの」

「あらあ、でもあの子、ハンサムね。もてるでしょ」


 屈託のない美佳と向き合いながら、桃子は思い出す。

 学校は好きだった。

 美佳といい、同級生の少女はそれぞれ悩みや個性があっても、基本は能天気に明るい。

 幼いころに、桃子の両親は死んだ。

 その後、桃子は母方で独身の伯母に引き取られて、彼女とずっと一緒に住むことになった。

 そんな複雑な家庭環境を背負っていても、同級生たちの無責任で明るい輪の中にいることで、気持ちが安らいだ。


 その世界から離れたのは、中学の卒業式の日に、伯母が殺されたのがきっかけだった。殺したのは、伯母の恋人だった男。

 伯母が切り出した別れ話に逆上して、男は伯母を殺し、その場から逃走した。

 桃子は、世間から離脱した。

 男を探し出し、殺すために。


「――で、ヒデのことなんだけどね」


 美佳が、メインの若鶏のローストにナイフを入れている。

 ああ、と桃子は応じた。


「美佳のトモダチか。有名な画家なのよね」


 形のないものを形にする仕事、芸術家という人種は苦悩の人だと思っていたが、あのスガノ・ヒデは巌で出来た自信家だった。

 自分は世界の中心というより、世界の核だと思い込んでいそうな。


「あのオトモダチは、美佳にはなかなか手強くはない?」


 美佳のオトモダチだけど、漢字の「友達」ではないくらい、とうに見抜いている。

 しかも、何とこの美佳との再会の前日に、スガノ・ヒデは美佳の旧友である桃子に連絡を取ってきて、食事に誘ってきたのだ。

 愛人を作るのなら、もう少し人畜無害にしたほうが良いと思うと、そう言いかけたが。


「モモ、ヒデに誘われたんでしょ? 知っているわよ」

「ぶっ」


 白ワインが逆流しかけた。


「ヒデが話してくれたの。彼と一緒に食事したくらい、知っているわよ。良いのよ、私は彼の芸術の奴隷で、彼は私の魂の空洞を埋める精霊なの」

「……」


 スガノが言った言葉を、桃子は思い出す。

『普通の主婦だと口にするが、貴女の翳に物語が見え隠れしている。それを僕は写し取りたい、形にしたいのです』

『美佳に後ろめたくは思わないで。彼女は僕の芸術に身と魂を捧げてくれた奴隷だ。王たる僕の意向は、彼女の意向でもある。貴女の携帯番号を教えたのは美佳だ。これで分かるでしょう?』

 あのスガノの言葉は、美佳公認で自分に放たれていたのかと思うと、驚愕を禁じ得ない。


「……安心した。そして更に、美佳が心配になったわ」


 ロボットアニメの主人公パイロットに愛を捧げ、アニメのブルーレイボックスはもちろん、限定版DVD、フィギュアはおろか、サウンドトラックCD、原作小説から設定集、画集まで買い集め、そして等身大ポスター、私服バージョンとパイロットスーツバージョンをそれぞれネットオークションで五十万円で競り落とした、職場のマリエちゃん(19才)がまだ健全に思えてしまう。


「彼は、私の空洞を見抜いた人なの」


 はあ、空洞と桃子は呟いた。

 なぜかドーナツの穴が頭に浮かんだ。


「そう。知り合ったのは、彼の個展で、絵を観に行ったのがきっかけなのよ。あの日は初日で、彼は会場に来ていたの。お互いの運命の鎖が絡まり合った日だわ。沢山の人に囲まれていたヒデは、会場の隅にいた私のほうにやってきて、こう言ったの『見つけた』って」


 甘さより、きな臭いというより、ずれた信仰心が見えてしまうが、最悪、狂信によるトラブルが発生しなければそれで良い。

 イワシの頭でもキリスト教でも、平穏と救いを与えてくれる神なら、信者にとってそれでオーケーなのだと、桃子は鴨肉のローストを切りながら思うことにする。


「ヒデは、私の中にある『物語』を見出したというの」

「ものがたり?」

「彼の絵のテーマは『漂流』なの。心の渇きを抱えながら、魂の居場所を求めてさすらう、その孤独と光が、人が生きる本当のテーマで、ヒデはそれを色々な形で表現をしたいって。私は、彼のテーマそのものを表す女だと言われたわ」


 桃子の頭の中に、ヒデの作品「赤い絵の具をぶっかけた森のクマの絵」が頭をよぎった。

 あのテーマが漂流なのか。やはり現代アートは分からない。


「あの日、画廊にはたくさんの人がいた。その中で、私は闇の中で発光する花のようだったと、美佳という花の香りに導かれたと、彼はそう言ったわ」


 美佳は吐息をついた。

「そう言われて、心が震えたのよ。今まで、大勢の中の一人として生きてきた、ではなくて流れていた。特に挫折らしいものもなく、進学して、就職して、結婚して子供も出来た。でも私は主役じゃなくて、普通という一部、その他大勢の役目を演じさせられている気がしていたの……そうね、木箱の中のリンゴみたいな」


 ウェイターがやってきて、ボトルから白ワインをグラスに注ぐ。


「きれいに揃った形のリンゴで、どれをとっても同じ。私自身が生きている生活だって、似たような人が大勢いる。必ずしも私のオリジナルじゃないの。誰でも持てるものは、宝じゃない。私だけが手に入れた、そんなものが欲しいの」

「幸せにオリジナルも何も、幸せは幸せよ。それでいいじゃない」


 価値観の違いと言えばそれまでだが、本心から桃子は述べる。


「それにさ、その欠落って、一種の贅沢病でしょ」


 美佳はため息をついた。


「満たされているけど、どこかに欠落があるの。本人にしか見えない空洞なのよ」

「それが普通というものよ」

「その欠落を埋めるために、私はもう1つのテーマを生きているの。私にとって、ヒデはそのパートナーなのよ。だから、モモが思うような、俗的な不倫というものじゃないの。もっと崇高で、良識や規範では計れない次元の関係なのよ」


 信者に改宗を迫るのは難しい。

 大学生バイトのマリエちゃんに「いくら愛しても、相手は平面に描かれたアニメの男なんだよ」と忠告して、開店時刻前にわんわん泣かれてしまった、スーパーの主任を桃子は思い出す。


「不倫だって、責める気はないけどさ」


 今まで、不倫よりもっと凄いことをして生きてきたからと、桃子は無言で美佳に打ち明けるが、美佳の耳に届くはずもない。


「モモはパートナーを「お父さん」と呼んで、「お母さん」と呼ばれていたけど、それって自分の役目を呼ばれているだけで、個人としての存在を無視されている気にならない?」

「深くは考えないわね」

「そう、慣れちゃったらそんなものね」

「慣れちゃったではなくて、私はその役目が欲しかったのよ」


 桃子は、白ワインをぐっとあおった。


「パートに出ている、普通の子持ちの主婦って役目をね」


 無花果の甘煮が添えられた、自家製バニラアイスのデザートは美味しかった。

 店を出るとき、美佳が桃子の腕を取る。「ねえ、モモ」顔と顔が近づいた。


「近いうち、ヒデのアトリエでパーティがあるの。彼は貴女に会いたがっていたわ」


 風が吹く。甘さを含んだ美佳の体臭が、桃子の嗅覚に忍び込む。

 来てくれる? その美佳の微笑みに、桃子はひきつる笑いを作った。


 その日の夕食後、桃子はリビングのソファに寝転んで、先日の食事の際にスガノ・ヒデから贈られた画集を開いた。

 奇抜な絵に強烈な色彩、写実の中にシュールが入り、狂ったおもちゃ箱の中身のような絵が並んでいる。


「何が描かれているのか、訳が分からない」そう涼は感想を述べたが、テーマが「漂流」だと教えたら、さぞ読み解くのに悩むだろう。


「ねえ、お父さん」


 桃子は、背中を向けてテレビを見ている次郎へ声をかけた。


「スガノ・ヒデってそんなに有名?」

「商売上手ではある。デパートの画廊などでは食い込んでいるし、個展も多い。良いパトロンがいるんだろうな。そういえば、母さんは彼と先日会っていたようだが」

「食事に付き合っただけ」

「それでいい。主婦の不倫は今や普通らしいが、涼の教育に悪い」


 しかし、あれは不倫というより、劇薬だ。

 スガノ・ヒデの、自信満々な顔を思い出す。

 不倫という非日常を欲する気持ちは、分からないでもない。そういう自分は、一般から見れば非日常の世界に嫌気がさして、仕事を辞めた。

 どんな種類の日常だって、いつかは飽きて、倦怠感が生まれる。

 違うオアシスを求めるのは、まあ致し方ないが、そのオアシスの水に毒があったら、どうする?


 しかし、中学、高校、短大と進学し、信用金庫に入ってお見合いして、商社に勤める男性と結婚。

 その人生が空洞と言われたら、自分はブラックホールではないか。


「かといっても、復讐のためにしかるべき先生のとこに弟子入りして修行して、ヤツを片付けて以来はそれを稼業にしていた私が、汝の日常を愛せよとか、ああいう男はやめとけとか、今はパートの主婦とはいえ、言える立場かどうか」


 しかし、参ったなと呟く桃子に、次郎が応じた。


「友達の悩みか」

「そんなとこ。普通の人生にも色々あるみたいね」


 次郎はプロ野球の中継を見ながら言った。


「そうか。俺も悩んでいる」

「は?」

「母さんも涼も『普通』になっていく。その中で、取り残されている俺に何が足りないのかと思っていたが、ついに分かった。俺には『学生時代』がないんだ」

「え?」

「は?」


 床の上に座りこみ、ターナーの画集を見ていた涼までが顔を上げた。


「義務教育はどうしたの?」

「いいや。親とはぐれて、物心ついたときにはすでに仕事をしていた。実を言えば、今名乗っている交野次郎も、本名じゃない。というか、自分の本名を知らない」

「……日本人、よね?」

「どうだろうか」


 次郎があごに手をやって考え込んだ。


「船に乗せられて、しばらく狭いところで過ごしていた記憶がある。もしかしたら密航かもしれん」


 ソファの上と床、思わず桃子と涼は顔を見合わせてしまう。

 次郎の述懐は続く。


「いつも誰かに適当な名前で呼ばれていた俺を、不憫だからといって、当時仕事の面倒を見てくれていた人が、俺に『交野次郎』の戸籍を買ってくれた」


 涼が呆然となる。


「でも、お父さんは物知りだろ?」

「それでも、学校には行っていない。マチルダはいないので、読み書きも計算も語学も全て、稼業のために独学した。野球や美術、アニメから釣りに盆栽などの趣味にしても、俺にとってはターゲットの懐に入る為の手段でしかなかった」


 次郎に、苦悩の色が滲む。


「先日、岡さんに『交野君は、野球の知識はあっても愛はない』と指摘された。その通り、こんなものを作っても、所詮は仕事の会話ネタだ。やはりあの人は凄い」


 過去の試合記録、各チームの登板選手たちの能力データなどを元にして作っている、自作のプロ野球チーム試合予測表を置き、次郎が深い溜息を吐いた。


「母さんは、スーパーでパートをして、学生時代の友の心配をしている。そして涼も、今では仲間のおバカ中学生に馴染んでいる……しかし、俺にはそれがない」

「野川たちはバカじゃない」

「涼、この場合はお父さんの最大の誉め言葉よ」

「あの『普通』な岡さんの教えを守り、思想を学んでも、俺に欠けているものは大きい」


 この貪欲なまでに、普通を追い求める次郎の欠落感、美佳が知ったらどう反応するか見てみたい。

 しかし気になる。

 桃子は美佳の体臭を思い出す。そういえば、パーティに来てほしいとか言っていた。


「さて、どうしよう」

 桃子は考え込んだ。



 夜のライトアップされたプール、ヤシの木。

 シャンペンを持ち、煌めく客たちの間を歩き回る黒服のボーイたち。

 水着で泳ぐ客もいるが、シャツと半パンで騒いでいる客もいる。

 パーティとはいえ、皆、カジュアルな服装だが、背中にはそれぞれステイタスと輝きを持つ人たちだった。


「どうぞ、マダム」


 ボーイから受け取ったシャンパンを、ヒデが美佳に捧げるように渡す。

 鷹揚に、優雅に美佳はグラスを受け取る。ジパンシィのドレスワンピースで。


「先日、招待状をモモに送ったわ」

「そうかい。返事は何だって?」

「モモ、パーティに来てくれるですって」

「それは嬉しい。どうだった? 僕らのことを何か言っていたかい?」

「それがね、電話の向こうから、何度も私に言うのよ。私が心配だって『空洞は一種の贅沢病だ』凡庸な人だから」

「凡庸か」


「私たちの関係を、不倫以上の関係だと、想像も理解も出来ないみたい。人間が作ったルールの中で判断し、幸福の基準を計ることしか出来ないのよ。ねえ、モモってば、夫婦でお互いに、お父さん、お母さんと呼び合っているのよ。今時信じられる?」

「古き良き時代を思わせるな。女性が母親と妻という役目に縛られて、退屈の沼に浸かっていられた時代だ」

「その役目が欲しかったんですって。無欲ね……そういえば、ご両親を亡くして、一緒に住んでいた伯母さんも確か殺されたのよ。それから行方不明になって……それで色々あったから、平凡と安定が幸福に映るのね」

「へえ」


 ヒデの目が、わずかに細くなった。


「僕らの関係を理解出来ない。でもパーティには来てくれるのか」

「なんだかんだ言って、彼女も平凡な生活に退屈しているんじゃないかしら。華やかな場所を覗いてみたいのよ」

「本当にそうかな」

「何故そう思うの?」

「ちょっとキレイな只の奥さんじゃない、妙な雰囲気がある」

「まさか。平凡から抜け出すのが億劫な、只のパートに出ている主婦よ」


 ヒデは笑った。


「一度、僕の主催するパーティに入れたら分かるさ。彼女は見えないベールをかぶっている。それを脱がせて露にしたい。平凡に固執する正体を」


 ヒデの目の奥が鈍く光る。

 美佳の心が泡立つ。この感情は、男女間で起こる俗な嫉妬ではないと思う。

 粘膜と欲望、その恋愛というカテゴリの中でなら、モデルに経営者、人妻と、ヒデは複数の女を飼っている。

 自分は、ヒデにとって、その俗的なカテゴリよりも位置が高い場所にいる。魂と霊感、芸術と幻想の中に住む女。

 そして、彼のインスピレーションを刺激する女。


 その物語だけは美佳のものだ。

 この思いが、自尊心に香油を塗り、金粉をまぶしているのだ。


「おや、いけないよ。嫉妬なんて俗だ。しかも美佳の友達だろう」


 ヒデは、軽く笑い声をあげて美佳の腕を取る。

 そして邸の中に入り、二階に上がる。

 奥へ向かう。パーティの会場の喧騒が徐々に遠ざかり、一番奥の部屋に入る。

 何もない部屋の中で、ヒデはカードを出す。

 それを壁の模様の一部に押し付けると、小さな電子音が鳴り、隠し扉が開いた。

 坑道のような密閉された廊下を歩む。そして、また扉。

 扉の前に立っている、黒い仮面をつけた男が、ヒデと美佳に目の周りだけを覆う、黒い羽のマスクを渡す。


 二人はマスクを着けた。男は扉を開く。

 むっとするような人の湿気、煙の中へ、美佳はヒデと共に入る。

 たちこめる紫煙が、ソフトフォーカスの役目を果たして、部屋の中を幻想的に見せている。

 ほの暗い照明の下。毛足の長い絨毯、あちこちに散らばるシルク地のクッションに身を預け、蠢く男女たちがいる。

 全裸、下着、半分脱いだドレスにスーツ。

 絢爛な堕落の光景。


 羽飾りのついたアイマスクをつけた、全裸の女たちが、男に群がっていた。

 その逆も。

 顔を隠し、欲望と飢えを剥き出した高貴なる野獣たち。


「人は、心に天国と地獄を飼っている。それの垣根を取り払った光景こそが、魂が漂流する到着地の一つ」


 紫煙が美佳に染み込む。

 渡された錠剤を舐めた。

 音楽的な響きを伴う、ヒデの声が美佳の心を撫で上げた。


「心の門を開放し、世俗から逃避するこの瞬間を味わえてこそ、僕は神の右手となって芸術を送り出すことが出来る。美佳。君が、それを支えてくれるんだよ」


 ――今夜、夫は出張で不在。

「たまには羽を伸ばしたい」と実家の両親に頼み込んで、小学生の娘二人は一晩実家へ泊りがけで遊びに出かけている。

 明日の朝は、そのまま娘二人を、遊園地へ連れて行ってくれるそうだ。

「日常」の残滓が、ちくりと美佳を突く。

 しかし、それはうわべだった。


 最初の頃は、確かに本物の罪悪感だった。しかし、この快楽を味わううちに罪悪感は変質し、快楽をよりいっそう高めるスパイスに裏返った。

 やがて、美佳の目の前に沢山の星と、宝石をばらまいたような光が現れる。

 肌を覆う余計なものが取り除かれ、自由になる。


 ヒデという芸術の王にかしずき、王とその側近たちに奉仕しながら、美佳の魂は飛翔する。

 自分しか描けない物語。恵まれた家庭の主婦でありながら、背徳を背負う芸術の奴隷。

 安寧と禁忌、平和と逸脱の糸で織られたタペストリーが、今の美佳だった。


 スガノ・ヒデは学生時代に外国を放浪していた。

 その折にマリファナに幻覚剤など、色々と麻薬を覚えた。

「ガマガエルも吸ってみた。幻覚剤と同じ成分があるんだ」

 今、商品を手に入れるための人脈とルートも、その頃の財産だという。

 画廊や会社経営者だけではなく、モデルや芸能人にまで顔が広いのは、ドラックの売人、仲介をしているからか、それとも顔が広いからドラッグを扱うようになったのか、それは分からない。


 1つ確かなことは、スガノ・ヒデの金回りが良い事だった。

 普通、華やかな外観と厳しい内情を抱えることが多い芸術家にしては実に珍しい。邸宅と複数の愛人、高級外車に別荘まで所有している。

 アトリエを兼ねている、ヒデの別荘は人里離れた山の上にある。

 個人の別荘というより、プチホテルの外観を持つ建物は、ガラス張りの壁から、森の中を照らすように黄色い光を放っていた。


 建物の前には外車やスポーツカーが並ぶ。ヒデの絵画が飾られたロビーには、華やかな服装の男女が行きかう。

 その中に、ミニドレス姿の美佳は立っている。手にワイングラスを持ち、ヒデの隣で華やかな光を浴びていた。

 美佳は、ちらりと時計を見た。

 桃子の姿はない。しかし、今更ながら桃子を招待したことに多少の後悔を覚えていた。


 桃子を誘えと言ったのは、他ならないヒデだ。

 しかし、ここは日常から切り離されている。

 この空間に、桃子という普通の主婦が収まるかどうか、ドレスコードの問題も加えて、酷く場違いなことにならないかと、心配が起こる。

 すでにパーティは始まっているが、桃子はまだ来ない。


「気後れして、キャンセルかしら」


 美佳は呟いた。すこしほっとした。


「こんな場所に、普通の主婦なんて来ないだろうし」

「どうだろうね」


 ヒデが言った。


「ああ、ヤマダ社長がお見えだ。挨拶してくるよ」


 芸能会社の社長、そしてタレントもいる。ヒデが扱っている商品の仲介人もいれば、お得意様もいる。裏に表、どちらの世界でも顔を持つ人々だった。


「ねえ、アレは何時からスタート?」


 見えない舌なめずりをした、女が近づいてきた。


「まどろっこしい。目的は分かり切っているんだから、さっさとプレイタイムにすりゃいいのに」

「一応、異業種交流の場でもありますから」

「ああ、なるほどね。正気な内に相手の品定めか」


 くっくと笑う女。

 美佳も笑う。彼女は、高学歴のインテリ美女の看板で芸能界に住んでいる、有名タレントなのだ。

 ヒデが言うには、ドラッグとは人間の本性を剥き出しにし、人を平等にする薬だと。その通りだ。


「考えてもみよう。大麻もマリファナも幻覚剤も、それを悪として取り締まるのは、人間が作った法律だ。しかし、我々の魂は、芸術や理想という崇高な精神のもとに、世間の枠を超えて自由と開放を求めている。それを法律という、ちっぽけな世迷いごとで縛りつけるなどバカバカしいことだ」


 ヒデは、自分を塗り替えてくれる。

 美佳は、自分に微笑みかけてきた若い男に、余裕の笑みを返す。

 そして、ちらりとロレックスの時計を見た……桃子は、来ないかもしれない。

 その時だった。


「おおう」


 ヒデの感極まった声。美佳は顔を上げた。

 そして、息を呑んだ。

 女がいた。

 砂色のシルクのドレスはヴァレンティノ。そして身に着けたネックレスは、大粒のサファイア、コーンフラワーブルーの一級品。ヴァン・クリフだ。

 ハイヒールはマロノ・ブラニク。

 女が桃子だと、視覚情報が脳に到達するのに数秒かかった。


「お招き、ありがとう」


 招待状の入った黒い封筒を、桃子はつまんで振った。


「流石は芸術家、素敵なセンスの封筒だわ」


 その微笑みに、美佳は気圧された。

 中学の同級生だと、簡単に人へ紹介できない何かが桃子にはあった。


「ご盛況ね」


 周囲を見回し、感心する桃子。

 そして鼻をうごめかし「やっぱりね」と呟く。

 ヒデが大きく腕を広げた。


「ようこそ、モモコ。心からキミを歓迎す……」

 ああら、と声を発した桃子は、ヒデの脇をすり抜ける。その先にいるのは、ソファに座った中年男だった。

 ヒデが特に気を使っていた招待客だ。高級スーツで身を固め、周囲に若い女たちをはべらせている。

 桃子が男の前に立った。


「はーい、お久しぶり」


 男が桃子に気が付く。

 しばしの空白。

 怪鳥のような悲鳴が轟いた。周囲の女がのけぞる。

 その悲鳴は、男が桃子に向けたものと理解するのに、美佳は数秒かかった。


「でっでででででですさいっ」


 青・赤・紫色と目まぐるしく顔色を変え、ソファに背中を押しこむ男へ、桃子は唇に指をあてて微笑む。


「やあねえ、その無粋な名前は、捨てたのよ」

「も、もももしかしてっ、お、おれをっここころしに」

「心配しないで。そうなら、こうやって堂々と貴方の目の前にいないわ」


 わなわなと震える男の隣に、するりと滑り込む。


「それに、噂は聞いていないの? 私、もう稼業から足を洗ったって」

「そ、それはし、知ってる、その噂を聞いたから、あ、あなたが怖いんじゃないかああ……」


 ソファのクッションを盾にして怯える男へ、桃子は平然と言った。


「あーら、別に双方に齟齬も契約違反もないはずよ『興行の対戦試合にて、生き残った方を無条件で職務を解き、放免、もしくは脱退を認め、双方とも今後は一切関わりを持たない』だもん」

「い、いやさ、そうらしいけど……」

「どっちかが、必ず死ぬとは限らないでしょ。それにさ、観客の方だって、事前に申し渡されているはずよ。興行中、何が起きても興行主は一切責任を取りませんってね」

「み、観に行かなくて良かった……」


 大の男が震えながら、恐怖で涙ぐむのを美佳は初めて見た。


「そうね、良かったわ。私も若頭を殺らずにすんで」


 唇を三日月に吊り上げ、微笑む桃子。

 暗く、不吉な微笑み。

 それなのに、美しくさえあった。

 美佳の背中に氷の虫がざわりと這う。


「凄い……」ヒデの声が聞こえた。

「闇だ……まぎれもない漆黒、なんと美しい闇」


 ヒデが、魅入られたように桃子へ向かう。

 美佳の前で、ヒデは陶然と口を動かした。


「モモコ、君はやはり、只の女じゃない。神秘的で残酷な、禁忌を織り交ぜた物語を持つ女、誰も持ちえない黒い輝きをキミに感じる。僕はそれを知りたい。キミの持つ、その美しい黒色を見せてくれ……」

「黒ではなく、どす黒の血染めよ」


 桃子は立ち上がり、つまらなそうに言い放った。そして美佳を見た。

 ヒデを押しのけて、つかつかと美佳に近づく。


「さ、帰りましょ。美佳、こんなところに長居はしちゃだめ」


 腕を掴まれ、美佳は桃子に外に連れ出される。

 風が吹いた。山の上は、下の街よりも気温が低い。

 剥き出しの腕から体温が奪われ、美佳は身震いする。

 桃子の車らしい、深紅のランドクルーザーの前で美佳は立ち止った。


「何してんの、来なさいよ」

「嫌よ」


 言葉が美佳の口からついて出た。

 桃子の動きが止まる。


「嫌って、美佳、あんたね」


 非難と当惑の混じる視線を、美佳は言葉で切り捨てた。


「嫌よ、私はここにいるの」


 こみあげきたのは、不公平感と口惜しさだった。

 中学の卒業式から、桃子はどんな生活で、何をしていたのかは分からない。

 しかし、大の男を、しかも大物を震え上がらせた、あの不穏な微笑みは、普通の生活を送ってきた女には出来ない。

 明らかに美佳よりドラマティックで刺激的な生活だったのは確かだ。

 ヒデを奪われたくなかった。美佳を支配する一方で、インスピレーションの泉と称え、崇拝してくれる男。

 この歓びの泉は、自分のものだ。例え友達の桃子であっても、濁らせはしない。


「ドラッグパーティだって、あんた分かってやっているの?」


 ぴしゃりと桃子は言った。


「何で、そんな……」

「あんたの体臭よ。ああいうのって、やっているうちに体から匂いが出るのよ。服に匂いもつくし」


 まるで、汚いものをなすりつけているかのような物言いに、美佳の頬は火照った。


「そんな、世俗的な……」

「あんたは、その世俗で生きてんの!」


 剣のような声。


「言っとくけどね、私は美佳があの男と寝ようがドラッグ吸おうが、空洞埋めようが穴を掘ろうが、それ自体はどうだっていいのよ。ただ、あんたに覚悟があるのかって話よ」

「覚悟って……」

「やるからには、今の生活を失って良いって覚悟はあの? バレても胸張っていられる? 後悔しないのかって聞いてるの」


 桃子の舌鋒と表情に圧迫されながら、美佳は声を押し出した。


「……モモは、刺激的なことしていたから、そう思えるのよ」


 桃子の眉がかすかに動く。


「モモなんかに、分からないでしょ。ベルトコンベアに乗って、ずっと同じ風景見ながら墓場まで連れて行かれるような感覚とか、幸せの条件をいくら集めても、いつの間にか退屈になる空虚さとか」

「……」

「可愛かったはずの子供すら、退屈な日常の一部になっちゃうのよ。生きている限り、ずっとこうなの? どうすれば、飢えを満たせるの? 確かな手ごたえが欲しいのよ。自分が自分だって、そう思える実感とか」


「じゃ、人を殺す?」

「え?」

「すぐそばに、死があればいいのよ。相対的に生きている実感湧くでしょ」

「ふざけないでよ!」

「ふざけてない」


 風が吹き、二人の髪の毛を空に舞い上げる。


「……昔の生活は、美佳に話すほどのものじゃない。だから話さなかった。後悔はしていないけど、振り返りたくもない。だから捨てた。覚悟を決めてね」


 髪の毛を押さえながら、桃子は言う。


「余程の幸運の持ち主ならとにかく、裏と表は、住み分けるのが難しい。でも美佳には、その幸運なんか無いよ。それに、住み分ける器量もない」

「バカにしないでよ」


 美佳の中に、炎が燃え上がる。自分に共感してもらえない悲しさか、それとも自分の知らない世界を知っている、桃子への嫉妬か。

 桃子が、美佳を見つめる。

 あの暗い美しさはない。

 目の前にいるのは、紛れもない「モモ」だった。

 中学の教室を思い出した。


「じゃあ、決めなさい」


 桃子の言葉が、美佳を突き放す。


「私は帰る。美佳は私と一緒に車に乗るか。それとも、ここに残るか」


 美佳は唇を噛む。


 この選択が、この場限りの行動ではないとは理解していた。

 心が揺れた。

 桃子は好きだった。

 だが、せっかく手に入れた人生の豊かさ、宝物と引き換えに出来るかどうか。


「おおい、美佳」


 ヒデの声。美佳は顔を上げた。

 桃子の肩越しにヒデが見えた。こちらにやってくる。


「やあやあ、美女2人で、何のご相談だい? 僕の奪い合いじゃないだろうね」


 ヒデの熱い手が、夜風で冷えた肩に回された時、美佳は瓦解した。


「争わなくても良い、僕は2人のものだ。3人で楽しもうじゃないか」

「……残念だけど、ヒデ」


 美佳はヒデを見上げた。


「モモは、お帰りだって」

「おやおや、これからだよ。モモコ、ここは桃源郷になるんだ。同じ漢字を使っていることだし、楽しんでいきたまえ」

「引き留めたら、かえって悪いわ」


 桃子を見た。

 自分を見つめる桃子の目が、中学生の頃と重なった。

 思い出で胸が軋んだが、一瞬だけのことだった。


「じゃあ、モモ。さよなら」

「……さよなら」


 桃子がランドクルーザーに乗り込む。

 運転席のウィンドウが上がった。


「ヒデ、これは忠告よ」

「?」

「多分、ばれているわよ」

「何のことだい?」

「くすねてるでしょ」


 ヒデの顔色が変わった。


「バイ」

 車が発進した。やがて車のライトが遠ざかり、森の闇に消えていく。

 美佳は、それを見送った。



 桃子を独り帰らせたこと、その選択に迷いがなかった訳じゃない。

 美佳だって、今の生活に破滅の可能性を薄く感じてはいる。だが、それを大きく上回る多幸感があった。文字通りの麻薬だった。

 そしてヒデと付き合っていることで、心にゆとりが出来て家族にも優しくできる。

 事実、八つ当たりのような叱責や愚痴が全く無くなった。

 小学生の娘2人は、母親があまり怒らなくなったことを喜んでいるし、夫も明るくなった妻に満足している。美佳さえ綱渡りを間違えなければ、家族の幸せだって続くのだ。


 ヒデとの関係を辞める理由はなかった。

 桃子は、美佳の現状を、心を全て理解している訳ではない。第一、桃子とは10年以上音沙汰がなく、しかもあの口ぶりから、自分とは違う世界に住んでいたようだ。

 古い血を交換するように、あのひとときが無くては、自分は生きていけない、そう思っていたが。


「――木下美佳さんですね」


 娘たちの通う、私立の小学校のPTAの帰りだった。

 校門前で、しかも他の保護者たちの目がある中で引き留められて、美佳は背広を着た、その男をまじまじと見つめた。

 若い男。どこか見覚えがある。


「どこかで、お目にかかっていますか?」

「C画廊の者です。スガノ氏の作品のことで、ご相談がありまして」


 いや、違う。この男はC画廊じゃないと、美佳の記憶で違和感があった。しかし、ここで押し問答しても始まらないし、他の人間の目もある。


「少々お時間を頂けないでしょうか? すぐそこの喫茶店で」


 男の口元には笑みがあるが、目が笑っていない。

 喫茶店に入った。コーヒーを2つ頼む。

 男が煙草を取り出した瞬間、美佳は小さく悲鳴を上げかけた。画廊ではない、ヒデのパーティの客だ。

 異世界の者が侵入してきた。自分の裏を知る人間が、昼間に目の前にいる。そのグロデスクさが、美佳を捕らえた。

 男は、どこまでも柔和だった。


「私共は、スガノ氏と作品の取引をさせて頂いております。先日も数枚ばかり作品を彼から受け取り、画料をお渡ししたのですが、その作品が、一部足りないのです」

「……意味が、分からないです」

「いえ、簡単な話です」

「そうではなく、なぜ私にその話をされるのか……ヒデ、いいえスガノさんと、あなたが直接お話をされたら良いじゃないですか」


 男は、まるで笑う能面だった。

 温度が無い笑いだ。そして視線は怜悧なメスのようで、そのメスで解剖されながら、美佳は自分が震えているのに気が付く。

 破滅の予感がする。事情は分からないが、ヒデが裏で何らかのトラブルを起こし、そのとばっちりが美佳に襲い掛かろうとしているのだ。


「いやね、それが、スガノ氏が言うには、私共に渡すはずだった作品を、うっかりあなたに預けてしまったとか」

「知りません、そんなの……」

「困ったなあ、私も手ぶらじゃ帰れないんです」


 美佳の目に、男は人間に化けた毒蛇に見えた。もうスガノは、この男の仲間の手に落ちている、と確信する。

 毛穴の1つ1つに、氷の針が突き刺さった。

 目の前に、大きな闇が口を開けている。その口からおぞましい腕が伸びて、美佳を明るいこの場所から、真っ暗な地獄に引きずり込もうとしている。


「しりま、せん……」


 口を動かし、音声を何とか作った。


「ヒデ、何か勘違いを、しているんだわ」


 何とかして逃げようとするが、男の粘つく猜疑心は、美佳にどこまでも絡まる。


「憶えてないかなあ、そうかあ」

「知りません、関係ないです!」


 人目を気にする余裕もなくなり、声を上げる美佳。男は携帯を取り出した。

 男の相手は、すぐ出たようだった。


「ああ、今会ってる。知らないってさ、え?」


 そして美佳を見て、頷く。

 携帯が美佳に差し出された。


「ほら、聞いてみて」


 美佳は、携帯を受け取った。取り落としそうになりながら、何とか耳に当てた時だった。

 泣き声が耳を打った。


『みぃかあ、きいへるか、きこえるかあ』

 紛れもなく、ヒデの声。

 何をされているのか、どうなっているのか、聞くことも出来ずにいる美佳へ、哀願の声が聞こえる。

『ひゃのむ、みかにあずけた、あれを……茶色の、ふくろを、もってきてくれえ……』


 雷に打たれたように、美佳は思い出した。

 半年以上前に、ヒデから預かっている文庫本サイズの紙袋だった。厳重に封をされて、中身は見ていないが軽かった。


「思い出しましたか?」


 男が笑う。そして美佳の手から、携帯を取り戻す。

 そして、裏にメモ書きした名刺を差し出した。


「それを今夜22時までに、この住所に持って来てください。でないと、スガノ氏が契約不履行で罰を受けますよ」

「ヒデが、ですか」

「もちろん、そんなものを貴方がずっと持っていたって、良い事なんか何一つない。もしもおいで頂けないなら、ウチの画廊の人間が直接、お宅に……」

「やめて!」

「それでは、失礼」


 コーヒーの伝票を持ち、男は立ち上がって一礼した。


 世界が狂った。美佳は走った。

 信号どころか、エレベータの待ち時間さえ永久の時だった。

 住処は、結婚と同時に購入した、新築のマンションだった。

 廊下を走り、部屋に飛び込む。自分専用のクローゼットを開けた。

 クローゼットの棚の隅に、その茶色の紙袋はあった。


 間違いない。これだ。

 部屋のあちこちに、ヒデから購入した絵画が飾られている。その絵が、美佳の呼吸を圧迫した。

 失いたくないと、痛烈に思った。

 この生活を失いたくない。

 ヒデは自分にとって、嗜好品だったのだと美佳は気が付いた。

 夫と娘二人、この平穏、確実な世界があってこそ、美佳はヒデを楽しんでいられたのだ。


 目が開いた。美佳の絢爛豪華な秘密の花々が、途端に腐臭を放つ。

 捨てなければ、と美佳は決意した。

 この紙袋を始末する。いや、あいつらがこの紙袋を探しているのだ。持って行かなくては、やつらはこの家にやってくる。美佳の幸せが破壊され、ずたずたにされる。

 どうする、どうすればいい?

 美佳は頭を掻きむしった。絨毯を引っ掻いた。

 警察に通報する気は全くない。しかし、このままではヒデと共に転落する。

 突然、頭に光が、天啓が舞い降りた。


 美佳は、携帯電話を手に取った。

 相手の番号のディスプレイを操作しながら、全身全霊で神に祈った。

 出て欲しいと。



 桃子は、家の台所で揚げ物をしていた。

 今夜は春巻きで、明日の夕食は南蛮漬け。

 小鯵は今から揚げている。一晩漬けたほうが美味しい。

 携帯の呼び出しが鳴ったが、小鯵を揚げている最中だったので、鍋から目を離さずに、ディスプレイに表示された相手を確かめず、携帯をひっつかむ。


「はあい、もしもーし」

『もしもし、モモ?』

「……」


 思わず、桃子は天ぷら鍋の火を止めた。


「どうしたの」

『おねがいが、あって……』


 美佳の弱々しい声。


『お使いを、頼まれて欲しいの……お願い、どうしても……』

「……良いけどさ。で、誰に何持っていくの」

『ヒデが、画材を持って来て欲しいって。どうしても今すぐって……でも、私、体調がものすごく悪いの……お願い、モモにしか頼めない……』

「取りに来いって言えば良いのよ、そんなもん」

『ダメ……手が離せないって、すぐ来いって……』


 すすり泣きが聞こえた。

 ふーん、と呟く桃子に、美佳の哀願は続く。


『お願い……モモにしか、頼めない』 


 心情がこもった声だった。

 ふう、と桃子は息を吐いた。その心の中を読み取ったように、美佳が言った。


『……マンションの、一階クロークの管理人に、行先のメモと一緒に預けておくわ……茶色の紙袋よ』


――テーブルに夕食を並べ、目の前の2人へ向かい、桃子は言った。


「二人は食べといて。お母さんは、ちょっと外出する」

「お母さんはご飯、もう先に食べたの?」

「ちょこっとつまんだ。帰ってからちゃんと食べるから、春巻きを最低5個は残しといて」


 自室に入り、クローゼットから紺色のパンツスーツを出した。

 白い手袋をはめ、その上にカットされた、飴玉のような大きさのルビーの指輪をはめる。


「行ってきまあす」


 玄関で、次郎が桃子を呼び止めた。


「待て、母さん」

「なあに?」

「その格好は何だ、仕事を辞めた時、道具は全て処分したんじゃなかったか?」

「その通りだけど、これ?」


 スーツの襟をつまみ、桃子はニヤリと笑う。


「スーツのデザインじゃなくて、素材で用途を見抜くようじゃ、普通の男には程遠いわよ。良いでしょ、伸縮性、透湿性抜群ゴアテックス加工の特注品。どんなに返り血を浴びても、すぐ洗い流せる速乾性。防臭でしわにもなりにくいし、普段にも使えるデザインだから、処分はせずにとっといた」

「しかも、その黒い靴だ。ストラップで低ヒールは良いとして、ソールがヴィブラムのゴム製とは何事だ。ツートンカラーのつま先には鉄が仕込んであるし」

「どんな場所でも滑らず、歩けるパンプスが欲しくて、昔、仕事用にオーダーメイドしたの。山道も歩ける優れモノで、適度に重さもあるから蹴りに破壊力が出るし。でもそれ以上にデザインが気に入っているから、捨てられなくてね」


 涼が出てきた。


「お母さん」

「なによお、2人とも、その苦虫とムカデを噛んじゃったような顔は。大丈夫だって、あんたたちに顔向け出来ないことは、お母さんに一切ない!」

「早く帰って来てよ。でないと、春巻きを全部食べるからな。最近、お腹すくし」


 クラスメイト達と休み時間にはサッカーをしている。学校の運動部からあちこち声がかかっているので、放課後にあちこち仮入部して走ったり蹴ったりと、最近涼は忙しい。運動量も倍以上になっている。


「分かったから、春巻きは置いておくのよ!」


 好物だが、作るには結構手間なのだ。

 しかし、全部で20個揚げたのに、涼は父と二人で春巻きを15個も食べるつもりかと感心しつつ、桃子は家を出た。



 ――マンションの入り口チャイムが鳴った。

 美佳は、踊る心と罪悪感、そして何かに祈りながらカメラを覗く。

 そして大きく安堵した。


「ごめんなさい、モモ。クロークに預けているから、それを受け取って、持って行って頂戴……ごめんなさい」

『言っとくけどね、美佳』 

「何?」

『私はね、今の生活が気に入っているの。そこのとこ覚えておいて。じゃあ、お大事に』


 ぶつりとインタホンが切れた。大きく美佳は息を吐いた。

 ……これで、大丈夫。

 救われた気分だった。これでもう大丈夫、あの紙袋さえあいつらに渡してしまえば、もうヒデとは無関係を装える。

 何も知らない桃子を、彼らの元へ使いに出す罪悪感はあったが、それ以上に自己防衛と、失いたくないものが大きすぎた。

 桃子に正直に打ち明け、助けて欲しいと言う事も出来たかもしれない。だが、協力を突っぱねられて、警察に通報される恐れがあった。


 余計なことまで明るみにされるのは、断じてごめんだ。

 あの夜、桃子が見せた顔を何度も思い返し、大丈夫だと美佳は己に言い聞かせる。

 只者ではないと感じた。色々な危険な橋や、困難な状況を渡り歩いてきた女だ。

 自分の力では、どうにも対処できない事態でも、桃子なら簡単に対処出来るに違いない。


「大丈夫よ。大丈夫……」


 美佳はソファに顔を埋めた。


 桃子は、メモに書かれた住所の最寄りバス停に降りた。

 民家の光がほとんどなく、あっても遠い。

 錆びた外観の工場や鉄工所が集まっていた。工場の通常運転はとうに終了している時間帯で、夜の中に無機質なシルエットが浮かんでいる。

 帰りのバスの時刻を確かめ、桃子はしかめっ面を作った。


「車にしとけば良かった」


 最近運動不足なので、出来るだけ交通機関を使っているのが裏目に出た。

 夜の中を歩く。

 メモの住所の方向に、ぼんやりと灯りがともっている家屋がある。

 バラック小屋だった。表札も看板もない。


「こんばん……」


 閉まったドアの前で、最後まで言い終わらない間にドアが開いた。

 むんずと手首が捕まれ、桃子は小屋の中に引きずり込まれた。

 広さは学校の教室ほどあるが、何も置いていない倉庫だった。

 男たちしかいない。しかも10人。プラス、縛られて転がっている男、ヒデ。

 桃子は大きなため息を吐いた。


「おい、奥さんよぉ、持ってきたか?」

「ほら」


 何の感慨もなく、桃子は預かった茶色の紙袋を放り投げ、くるりと背中を向けた。


「んじゃあね」

「じゃあね、じゃねえよ!」


 男が吠えた。


「おい、あんた分かってんのか、あんたのイロはなっ」

「分かってるわよ、どーせ袋の中身は、こいつがくすねたドラッグでしょ」


 空気がざわめいた。


「こいつの役目は、ヤクのブローカーか売人か、ドラッグパーティの場所提供に販売促進運動か。どっちにしても、自分の前に流れてきた他人様のドラッグくすねて、転売でもしていたんでしょ。よくある話どころか鉄板じゃないの。もうあんたたち、スズメと稲作農家の関係を参考に、ちょいとはスズメに作物くすねられること前提に商売しなさいよ」


 男たちが黙る。


 凶暴さを内包した沈黙。部外者の口封じという固い連帯感が伝わってきたが、桃子は一応聞いてみた。


「口封じする?」

「ああ、その通り」

「死ぬまで、少し時間を引き延ばしたいと思わないか? 奥さん。場合によっちゃ、俺たちに慈悲の心が蘇るかもしれねえ」


 粘った視線が身体中に絡みつく。桃子は嘆息した。


「助けを呼んでも、人は来そうにないわね」

「分かっているなら、大人しく抵抗せず、だぜ」

「まあ、嫌がる女を殴って大人しく飼い馴らす、というのも楽しいけどよ」


 円陣を組んで取り囲まれた。

 ふつふつと、こみあげる高揚感。

 久しぶりの感覚だった。唇が三日月形に吊り上がる。

 その三日月形の笑いは過去、死神の鎌の形に例えられた笑みだった。桃子はスラックスのベルトを外す。

 男たちの間で、野卑な口笛が吹かれた。


「助けを呼んでも、人は来ない……好都合ね」

「そうだよ、おもいっきりエロい声上げな、奥さん」

「10人くらい、一度に相手してあげる。ちょっと物足りないけど」

「はぁ? ものたりねーって、何言ってんのこの女?」

「もしかして欲求不満か? だいじょーぶだよ、1人5回くらいはぶちこんで……」


 ベルトが唸った。

 鉄製のバックルに、顔の肉をえぐられた男がのけぞった。

 桃子を挟み撃ちに殴りかかってきた双方が、獲物を捕まえ損ねて互いに衝突した。その上に、桃子に投げられた男が落下した。

 ベルトは鞭となって空を切り裂き、血煙を作った。

 拳のルビーが相手の頬の肉をえぐる。

 腹に回し蹴りを叩き込まれた男が、吹っ飛んで壁に激突した。桃子の靴のつま先に仕込まれた鉄により、内臓が破裂した男もいた。


「てめええっ」


 逆上した男が銃を発砲する。桃子が盾代わりに押し出した仲間に命中した。

 うろたえた男の銃を、ベルトのバックルが叩き落とす。

 そして再度方向を転じて、男の顔を叩き潰す。

 ――独りで立つのは、桃子一人。


「10人を1分7秒。まあ、涼には勝てたわ」


 倒れ伏している男たちを避けようともせず、むしろ蹴り飛ばしながら桃子は進む。

 そして、小屋の外に向かって声をかけた。


「お父さん、そこで何やってんの」


 次郎が平然と入ってきた。


「11人目が出てきたら、助太刀しようかと思ってな」

「車で来たの? 丁度良かった。さて、帰って晩御飯だ。春巻き春巻きっと」

「後始末はどうするんだ。このままか?」


 ぴた、と桃子は足を止めた。

 思い切り嫌な顔を作って、次郎へ振り向いて見せたが。


「涼が読んだ本をリビングに放りっぱなしにしたとき、ちゃんとお片付けしなさいと、母さんはあの子を叱ったはずだ。母親として、教育には一貫性が必要だ」

「……そーだったかな」

「それに、アレをどうするんだ。放っておくわけにはいかんだろ」


 次郎が指さした先には、腫れあがった顔で何度もうなずく、大きなミノムシがいた。



 青空が広がる、天気の良い日だった。

 娘2人は友達の家へ遊びに行き、夫は休日出勤。

 家事の合間のひと時、ベランダに出て、ガーデン用の椅子とテーブルでお茶を飲むのが美佳の楽しみだった。

 目の前には街並みが広がる。夫がイギリス出張の折に買って帰った、紅茶に口をつけた時だった。

 チャイムが鳴る。


 美佳はインターホンのスイッチを入れた。『ハーイ、美佳』カメラに映し出された来訪者に、言葉を一瞬失った。


「……やあだ、モモ。来るなら連絡してよ」


 美佳は努めて声のトーンを上げた。想像しなかった訳ではないが、桃子とは縁が切れたつもりでいたのだ。

 騙し討ちのように、桃子をヒデの所へ行かせたことに、罪悪感はあった。だが、仕方が無い。美佳は生活を守らなくてはいけなかった。

 その美佳の立場を思えば、仕方がない事と桃子なら分かってくれると思っていた。

 それでも桃子は自分を許さないだろう。もう連絡しては来ないと思っていた。


「ちょっと待っていてね、開けるから」


 気は進まないが、入れない訳にはいかない。

 桃子への言い訳を考えているうちに、玄関のチャイムが鳴った。

 美佳は開けた。そして立ち尽くした。


「なん、ですか? あなたがた……」


 足が震えた。一目で警察と分かる人々が、玄関前で立ち並んでいる。その中に、手錠をかけられたヒデの姿が目に飛び込んだ。


「6月13日土曜日、時間は午前9時14分、木下美佳、麻薬取締法違反、大麻所持の疑いで、これから家の中を捜索します」


 捜査令状を見せられた。

 悪夢だ。


「……だましたのね」


 美佳は桃子を見た。


「だました、だましたのねこのおんなぁっ」


 紺色の制服の腕が、美佳へ四方から伸びて羽交い絞めにされる。顔中を全て憎悪で歪ませて、桃子をにらんだ。視線で殺せるものなら、殺したかった。


「法律破ったんだから、仕方がないでしょう」

「うるさい、あんたなんか、あんたなんかぁっ」


 全てが壊される恐怖、全てを失う現実に、美佳は身体が壊れそうだった。

 死ねと泣いた。殺してやると叫んだ。桃子はそれを払いのけた。


「私は美佳に言ったわよ。私は今の生活を気に入っている。覚悟を決めているって」

「それがなんだっていうの!」

「私は、今の生活を守る覚悟をしているの。それを壊そうとした、あんたを許さない覚悟もしている」


 ゆるぎない言葉が美佳を殴った。美佳は、声を無くした。

 桃子が身をひるがえし、外へと出ていく。

 自分大事な城の中を、大勢の警官たちが踏み荒らしていた。夫のクロゼットも、娘二人の机の中までひっくり返されている。

「発見しました! 額縁の裏です」と声が聞こえた。美佳はそれを、現実感のない中で聞いていた。



 美佳のマンションのエントランスから出て来た桃子を、次郎は車の中で出迎えた。


「これで、満足か」

「満足しないけど、気は済んだ」

「そうか」


 次郎は車を発進させた。

 車は街中を離れ、市外に出た。自宅から逆方向へと車は走る。


「……お父さん、いつまで車走らせているのよ」


 ようやく桃子が口を開いたのは、車に乗り込んで1時間後。

 自宅から離れに離れた山中の道だった。


「家に帰るんじゃないの?」


 舗装もされていない道の上、緑で埋まる風景を眺めながら、いぶかし気に桃子が聞いた。

「その顔でか」


 桃子が車内ミラーに目を移す。

 しばらく、自分の顔と、その底にあるものをじっと見入っていたが。


「……なんでも、飽きるのかな」

「……」

「あの時自分が望んでいた、平和な穏やかな日々でも、手に入れて手に馴染んだ瞬間から、有難みも無くなって、だんだん日常にすり切れていくものなのかな」


 砂を噛むような声。


「普通という幸せでも、家族すらも、いつかは退屈の一部になるのかしらね」


 ――私はねえ、何だかちょっと嫌気がさしてさ。仕事に飽きたのかなあ。

 普通の仕事がしたい、と言った、あの日の桃子の言葉を次郎は思い出す。


「あの日、何人殺した?」


 ミラーの中の桃子が横を向いた。次郎の頬に視線が刺さる。


「……ええとね……ざっと47人くらい? 30超えた辺りから、まともにカウントしてないのよね」

「俺が55人、母さんは50ジャスト。銃の流れ弾やら圧死だので、勝手に死んだのが28人だ。この意味分かるか?」


 次郎は言葉を続ける。


「俺たちは、『普通』を手に入れるために、それだけ人を殺した」

「確かにね」


 桃子が薄く笑った。


「そんなに殺しておいて『普通に飽きた』なんて、殺した相手も浮かばれないわよね」

「分かればいい。その通りだ」


 帰るぞ、と次郎は言った。


 ――月曜日、出社した次郎が、それでも総務の岡に聞いてみる気になったのも、やはり桃子の姿に何がしか感じたせいかもしれない。


「友達は必要かやて?」

「はい。妻と息子は持っている友達というものに、少々考えるものがありまして」

「女子供のトモダチと、大人の男のトモダチは質が違う。女子供の友情は仲良しと信頼、しかし男の友情はな『強敵』と書いて友と呼ぶんや」

「……強敵」

「そや。男は戦いの中で生きているんや。友とはいわばライバル、己に立ちはだかる障壁、手強くても勝たなあかん相手やね。交野君は、そんな相手おるか?」

「……」


 次郎は悩んだ。

 戦いといえば、前職の職種がそれに近いだろう。手強く、簡単には勝てない相手。しかし、その相手は……


「私にとっては、妻ですが」


 次郎は過去を思い出す。数多い同業者の中でも、桃子は有名だった。

 あの対戦前から、桃子が簡単に勝てる相手ではない事は知っていた。

 あの日、桃子とまともに対峙していれば、手練れである次郎でも無傷では済まなかっただろう。

 バラック小屋でのバトルロイヤルも、舌を巻くものがあった。

 岡は、次郎の答えにしばらく考えた。

 そして、言った。


「交野君、あんたの家庭、ちょっと荒れているんと違う?」

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