第2話 縁切りばさみ

 鈴木昭義には不満があった。

 大卒で『ケニヤ出版』入社から二年経った編集者である昭義は、ホラー漫画誌『コミック・ニンフォ』に連載を始めた、あかがねだいちという漫画家の担当編集として就く事になった。

 あかがねだいちは昭和の時代に活躍していたという大物ホラー漫画家で、今回の連載は平成を飛び越した久久の作品発表だという。

 大御所。

 それはいい。

 だが、気をつかう以前の問題で、昭義は担当編集とは名ばかりの実態はあかがねだいちの完成原稿の受け取り係だった。

 指定された日にあかがねだいちの家に行き、玄関に出てきたアシスタントらしき男から封筒に入った完成原稿を受け取る。それだけだ。打ち合わせや資料の提供、ファンレターの受け渡しなどという仕事は全くない。

 後は編集部で紙とインクの原稿をデジタルスキャンして、写植などの諸作業をPC画面で行う。体裁を整えたらデータで入稿だ。

 電話でもメールでもSNSを使った形式でも打ち合わせをしたりする事は全くない。

 それどころか、あかがねだいちと面会をした事もなかった。あかがねだいちの顔を見た事がない。写真でも、だ。

 編集長にあかがねだいちの昭和時代の作品を見せてくれ、と頼んだ事もあったが、諸諸の事情で保管されていない、紛失した、と言われた。

 ネットで私的に調べてもあかがねだいちの情報がヒットする事はなかった。

 ただ、一例を覗いては。

 それは局所的な都市伝説だった。

 当時、売れっ子だっただいちの担当をしていたある出版社の編集者は、その家で原稿の出来上がりを待っている時、つい興味で立ち入り禁止にしている地下室を覗いてしまった。

 その部屋には空想の産物であるはずのクリーチャーの剝製など標本や、古今東西の最近使われた痕跡がある様様な拷問器具が所せましと置かれていた。

 編集者は原稿を取らずにすぐに会社に逃げ帰った。原稿は後輩の編集者に代わりに取りに行かせた。

 すると、その後輩の編集者はそれっきり行方不明になってしまった。

 担当編集者はその事を編集長に伝えたが、出版会社の社長と警察らしき場所に電話すると「君はこれ以上、何もしなくていいから」とだけ言って、担当編集者を家に帰らせてしまった。

 次の日、漫画界そのものからあかがねだいちの名は消えてしまった。全国の本屋からあかがねだいちの漫画は全て回収された。

 それからはどんなニュースを集めてもあかがねだいちの行方は解らなくなり、彼の家にのりこんだ警察は何も発見出来ずに引き上げるしかなかったという。

 ネットで拾ったその都市伝説の情報を昭義はすぐガセだと断定した。

 一応、辻褄は合っているが、だったら現在、あの原稿を描き上げているのは誰なのだ。

 そう思うと、ふと一つ、疑問が湧いた。

 あかがねだいちの家で自分に完成原稿を渡しているアシスタントらしき男は誰だ。

 その男はいつも背広だった。アシスタントだったらジャージなどの作業着、そうでなくてももっとラフな格好でもいいはずだ。

 昭義は考えながら出版社を出た。

 煙草を吸いたい。

 出版社内のコンビニでも煙草は売っていたが、今日は天気がよくて、離れたコンビニで煙草を買い、その近所の公園でベンチに座って空に向かって紫煙を吹き上げたい気分だった。

 街を歩く。

 この先にベンチで喫煙OKな公園があるのだ。

 と、同じ歩道を向こうから白杖を持った若い女性が歩いてくるのが見えた。

 白杖の先はさまよう様に前方の地面を小刻みに叩いている。

 眼が見えないのか、と昭義は素直な感想を抱いた。

 その時、風に吹かれて、コーラの空き缶が転がってきた。

 それは白杖と彼女の間の路面に転がり入ってきて、そのまま進めば、パンプスで缶を踏みつける事になる。

「危ない!」

 転倒の様を想像した昭義は思わず叫んでいた。

 だが、その声よりも早く、女性の足は缶をよけていた。

 どういう事だ。昭義は驚いた。眼が見えないのではないのか。

 彼女の顔が声を出した昭義を向いた。眼は伏せがちだったが完全には閉じられていない。「ありがとうございます」彼女は優しい声で礼を述べた。「私がそれを踏みつけると思ったのね。私は白杖を持っているが全盲ではありません。極度の弱視なのですが、足元に何かが転がってくればよけるくらいは出来ます」

 彼女は転がってきたのは缶だとは見分けていないみたいだ。

「あ……ああ」

 思いがけずに礼を言われて、昭義は戸惑った。彼女は自分の顔をはっきりと見えてはいないのだろう。

 昭義の方は彼女を美人だと認識した。不思議なアロマが香った。

「あら。貴方は最近、肉親を亡くした様ね」その時、彼女は思いがけない言葉を発した。間違いない。彼女は俺の背後を『みて』いる。「お婆様ね。大丈夫、お婆様は貴方を守っていられるのよ。……でも貴方の現在をとても心配している。お婆様の力では振りほどけない禍禍しい因縁が貴方を縛りつけているわ」

 昭義の背筋にゾッと悪寒が走った。二週間前、確かに祖母が死んでいた。いわゆる背後霊というものになっていると彼女にはみえているのか。

 彼女は『みえるひと』なのか。

 ホラー漫画誌の編集などをやっているとこういうネタによく出会う。

 しかし自分が当事者になるのは初めてだった。

「貴方には黒い因縁の糸が絡みついています。その糸は遠く因縁の元から長く長く、まっすぐのびているわ。これは悪縁ね。お婆様も自分の力が及ばない貴方の現状をとても憂いていますわ」

 歩道の真ん中に立ち止まった二人の男女がこんな会話を交わしているのは、周囲の人間にはどれくらい奇異に見えているだろうか。

 歩行者はこの二人を特に気にせず、通りすぎていく。

「ほら。チョッキン」

 彼女はまるでふざけているかの様に、はさみにした手の人差し指と中指で昭義の眼には見えない何かを断ち切った。

「これで悪縁の糸は切れたわ。これで貴方の運勢がよくなるといいのだけれども」彼女は笑った。美女の微笑だった。「それでは私はこれで。声をかけていただいてありがとうございました」

 視覚が不自由な美女が白杖で路面を叩きながら、歩き去っていった。

 何処へ行くのだろう。気になったが追いかける理由がない。

 彼女が遠く去っていくのを見守った後、公園へ行く気はなくして、出版社に戻る事にした。

 ホラー漫画誌の編集者としては貴重な体験をした気がする。

 死んだ祖母が背後にいると言われて、何か胸を張って生きていかなくてはいけない気になっていた。

 俺は眼が見えるが、祖母の姿は見えない。

 あの美女は眼がほとんど見えないが、俺には見えないものがみえている。

 一回きりの邂逅が惜しい気がする。

 彼女が因縁を切ったというその効果はどうやら四日後に現れたらしい。

 その日はあかがねだいちの最新原稿を受け取りに行く日だったのだけれども、目的の家がある丘の傍でタクシーを降りた昭義は信じられないものを見た。

 それまで何回も訪れていたというのに、見慣れた丘の上の洋館と整然な階段という風景は何処にもなく、危なげな不良の若者がうろうろするゴミとペンキによる落書きだらけの廃墟がそこにはあった。

「原稿……どうするんだよ……」

 危ない若者に絡まれそうになるので丘から離れながら、昭義は途方に暮れた。

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