悪役令嬢の結婚相手

「らしくないじゃないか、アビゲイル」


 後ろからかかる優しい声に、アビゲイルは無意識に身体の力を抜いていた。事情を知る人物が身近にいてくれるというのはとても心強い。


「お兄様」

「フランシス……まだ話は終わっていないんだが」


 我に返ったらしいラッセルが心なしかムッとしたようにアビゲイルとフランシスの会話を妨げた。この食えない次期公爵は妹を愛しすぎている上、有能が故にかんに障るところがあるのだ。

 話し掛けられたフランシスは気にした風もなく、王太子に対して恭しく礼を執った。


「話が変わったようでしたので戻って参りました。しかし、不適切な判断だったようです。殿下の意にそぐわない行動をお詫びいたします」


 兄がいなくなりそうな話の流れに、アビゲイルがまた身体を硬くする。それを認めて、ラッセルはひとつ溜め息を吐いた。

 フランシスの方は追い出されはしないことを分かっているように見える。そういうところがラッセルのかんに障るのだが、実際、アビゲイルが心細そうにしていることが分からないラッセルではない。


「謝罪には及ばない。……フランシスがいる利点もあるようだし、このまま話を続けよう」

「殿下のご配慮に感謝いたします。重ねて具申をお許しいただけませんか。このままでは、愚妹が不貞を働いたとあらぬ噂が立つ恐れが御座いますので」


 アビゲイルの肩がピクリと動いた。逡巡している、ようにラッセルには見える。何を思ったのかはなんとなく予想がついた。ラッセルの見てきた彼女は、小さな頃から責任感の塊だったのだから。

 その予想に違わず、アビゲイルは迷っていた。自力で解決したいと思いながら、優秀な兄より簡潔でいて隙のない説明は出来ないと考え、結局口を出すことを辞めてしまう。


 今や、会場中の視線が王太子とその婚約者に集まっていると言っても過言ではなかった。王太子にとっても公爵家にとっても、フランシスの口から事情を明かされる方が芳しい結果になるに違いないのだ。


「アビゲイルがそれでいいのなら僕は構わないが」


 ラッセルからの思いがけぬ援護に、アビゲイルは目を見開いた。そういえば、兄への劣等感もラッセルにはぶちまけていたのだと思い出す。こんなにも惚れ直させてどうするつもりなのだろう。

 アビゲイルの目頭がまた熱を持ち始めた。想い人に庇われて嬉しくない人間などいるだろうか。少なくとも、アビゲイルはそんな人間ではなかったらしい。


「兄の方が卒なくご説明できるかと存じますわ」


 兄の顔を見上げながら答えた。ラッセルの顔を見たら、本当に何か溢れ出しそうだったから。

 ――声は震えていなかったかしら。ラッセル様は不審に思わなかったかしら。お礼も言えませんわ。そんなことをしたらきっと溢れてしまうもの……。


「口挟んでごめんなさい。フランシス様、サクッと話してここから離れましょ?」


 アビゲイルがフランシスに視線を向けたことでラッセルとフランシスの間に不穏な空気が漂いかけていたのだが、光が横槍を入れたために一旦は立ち消えた。

 双方とも国の最上位にある身の上だけに、露骨な剣呑さは感じさせないところは流石である。しかし、ラッセルはなお物言いたげにフランシスを横目に凝視しているし、そのフランシスは自慢げに笑んでいるようにしか見えなかった。その雰囲気を的確に感じ取れた見物人は、フランシスの喧嘩を売っているとしか思えぬ態度にひやひやしている。

 王太子と兄の攻防を知らぬはアビゲイルばかりだった。


「ヒカリ様の仰せの通りに。ではまずアビゲイルの夫にご登場願いましょうか」


 夫という単語にラッセルが再び硬直した。アビゲイルも思い出したように顔を青くする。自分よりももっと立場が危うくなるかもしれない者がいるというのに、なにを浮かれていたのか。

 そんなふたりの心境などお構いなしに事態は進む。恐縮しながらも人波を縫うように、執事服の男性が進み出てきた。


「フランシス様のお呼びにお応えしまして、バンフィールド家使用人、ウォルターが参りました」

「この者がアビゲイルの夫です。ウォルター、婚姻証明書を」

「はい、フランシス様」


 ウォルターの懐から1枚の紙が取り出される。今朝大急ぎで教会に赴き、そこで発行してもらったものだった。

 そう、アビゲイルが握り締めていたあの証明書である。


「本来なら公然にすることではないのですが、貴族家の人間が下流階級の者と結ばれたいと願ったときのために、教会は婚姻の特別な手段を設けているのです」


 この世界の貴族の婚姻は両家の当主がそれぞれ認めて、婚姻を結ぶ当人たちとその家の当主の4名――もしくは婚姻する本人が当主だった場合は3名――で教会に赴き、手続きをするのが通例である。貴族同士の結婚など九割九分、政略結婚なのだ。ある種貴族としての務めであるし、それを否定してはこの世界が立ち行かない。


 だが稀に燃えるような恋に落ち、身分違いでも、生活が苦しくても、下流階級の人と添い遂げたいと願う貴族が出る。

 ここは乙女ゲームの世界である。恋する者には救済措置が与えられるのだ。

 というよりも、隠しキャラを解放するとヒロインがある貴族家の養子になり、平民キャラとの駆け落ちルートに入るというだけなのだが。隠しキャラが平民というのもニッチな乙女ゲームという感が強い。駆け落ちは甘美な響きであるからして……。


 ともかくも、本来は当主立ち会いの下で結ぶはず婚姻が、身分違いの恋を応援するために略式で以て結ばれることが出来るという話なのだ。フランシスの解説は続いている。


「その特別な手段というのが、こちらの証明書に記載してあります。5つの条件を呑み、両名が署名すればすぐに婚姻が成立する、というものです。では、条件を読み上げます。“ひとつ、両者とも家族との関係を絶つこと”」


 この項目のために、アビゲイルは天涯孤独のウォルターを相手として選んだのだった。好き合って婚姻するわけではないのに、家族との関わりを絶つよう頼めるわけもない。

 そして、この項目があるから結婚しようと考えたのだった。


「“ひとつ、どちらの旧姓も名乗ることを禁ず”“ひとつ、平民として姓なく生きること”」


 この世界では通常、貴族家以外に姓はない。上の条件の補足でしかないが、生活に困窮した元貴族が権威を振りかざそうとすることを予防するために明文化してあるのだろう。


「“ひとつ、婚姻を結んだ教会のある街、生家などのある街への立ち入りを禁ず”“ひとつ、如何なる理由があろうと離縁を認めず”」


 貴族家との無用なトラブルを避けるためだろう、行動を制限する条件と、自分勝手に駆け落ちするのだ、後戻りはさせないという条件。至極まっとうなことしか書いていない。

 不利益という不利益を感じなかったので、ウォルターには申し訳ないものの結婚という強硬手段をとったのだ。

 聴衆に対するフランシスの解説はなおも続く。


「最初に“家族との関係を絶つ”ことが条件となっていました。アビゲイルは何処からか、先程の冤罪騒ぎが起こることを聞きつけ、我がバンフィールド家の名声を守るべく婚姻を結んだに過ぎないのです」

「僭越ながら、発言をお許しください。アビゲイル様とわたくしの間に恋情はありません。お嬢様は身も心も清らかなお方です。ただ、ご家族と殿下、ヒカリ様のことを思われての行動だったのです」


 ウォルターの切実な声色に多くの者が胸を打たれたようだった。元々アビゲイルは“公明正大”と言われている。公平を意識しすぎて“冷血”と言われることもあるが、大抵は正しく評価されていた。

 そのため、フランシスとウォルターの話を聞いて、然もありなん、と頷く者が多数見受けられる。その様子に、何故か光が満足そうに微笑んでいた。


「事情は分かったが……ではアビゲイルはやはり、冤罪で裁かれるつもりだったのだな? なぜ」

「ラッセル様、そこから先は今度こそ場所を移しましょ! アビゲイル様だってひとに聞かれたくないだろうし」

「ヒカリの言うとおりだな。誰か、生徒会室の準備を」


 光に促されて王太子一行が移動を始める。ラッセルの付き人のひとりが慌てて生徒会室に向かっていった。

 見物人たちは嘆息を必死に飲み込んでいるようだ。続きも聞きたくて仕方ないが、最上位の人物たちに睨まれては一溜まりもないのだ、当然の判断だった。


「というわけで皆様、お騒がせしてゴメンナサイ。パーティーを楽しんでくださいね! あ、方法は内緒ですけどアビゲイル様とウォルターさんの結婚は無効に出来ますから安心してください。……今日聞いたこと全部、他言は無用ですよ?」


 夜の乙女は抜かりなく聴衆に釘を刺し、一足遅れて会場を後にする。


 数ヶ月後、この日のやり取りが登場人物の名前だけ変わって小説になり、実話だという噂があっという間に広がって、王太子と王太子妃の人気を盤石なものにしたのはまた別の話。

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