3-6

 長谷川はだいたい夜十時前後から水浴びをする。

 僕は少し早めの九時半に、仙川へ向かった。

 まだ長谷川は来ておらず、人通りもなくて辺りは閑散として寒々しかった。

 十五分ほど土手に座って待っていると、道路のほうから声がした。女性の声だった。

「ちょっと、やめよ? 病院行こう? ね?」

 見ると、人影が二つ、こちらへ歩いてくる。片方は長谷川で、もう一方は若い女性だった。女性は必死に、長谷川の腕を引っ張っている。

「長谷川くん」

 僕がスマホのライトをつけて声をかけると、長谷川は「あ、神市くん」と返事をした。

 女性は訝しそうに僕を見ていた。

「こんばんは」

 僕が言うと、女性も「こんばんは」と返し、長谷川に「知り合い?」と訊ねた。

「友達」

「あ、そうなの。お世話になっています」

 女性は僕にお辞儀した。

「こちらこそ。神市辰明といいます。えっと……」

「あの、私、良平と付き合ってる……」

「あ、彼女さん?」

「そうです。橋田はしだミクといいます」

 僕とミクが挨拶をしていると、長谷川が服を脱ぎ始めた。

 ミクが慌てて制止する。

「だから、なんでなの? やめてよ、病気になっちゃう!」

「水浴びしなきゃ病気になるんだよ!」

 ミクが助けを求めるように僕を見る。

「なんだか、すみません。川で水浴びをするって聞かなくて。突然」

 ミクは必死に腕を掴んでいるが、長谷川はものともせずシャツを脱いでしまった。

「神市さん、理由知ってますか?」

「ええ、まぁ」

「あの、一緒にやめさせてくれませんか? 私だけじゃどうにも……」

 僕はミクと一緒に長谷川の手を掴んだ。長谷川の力はびっくりするほど強かった。

「長谷川くん、長谷川くん! ちょっと、待ってくれよ! 仙川で水浴びじゃダメなんだよ」

「神市くんだって霊堂の話聞いただろ! 水浴びをしなくちゃいけないんだ!」

「うん。水浴びはそうかもしれないけど、仙川じゃダメなんだよ!」

 長谷川は動きを止めて、僕の顔を見た。

「仙川じゃダメ?」

「ちょっと、うちに来てよ」

「神市くんの家?」

「そう、すぐそこだからさ。もしかしたら、体調不良を治せるかもしれないんだよ」

 ミクはおろおろしている。説明したかったが、そんな時間はないと言うように長谷川が急かした。

「仙川で水浴びするより効果あるの?」

「確信はないけど、もしかしたらってことがあるからさ。長谷川くんの前世は、ただの河童じゃないかもしれないんだ」

「河童ってなんですか?」

 ミクは相変わらず不安そうにしている。

「とにかく、僕の家へ来て」

 僕は二人をマンションへ連れて行った。その道中、ことのあらましをミクに説明してやった。ミクはなにがなにやらよくわかっていないようだった。

 ミクは、ここのところ夜になると出かけ、体を濡らした状態で帰ってくる長谷川のことを不審に思っていたらしい。初めのうちはジムのプールに入っているという長谷川の言葉を信じていたが、そのわりに洗濯物に水着はないし、ここ数日は明らかに顔色が悪いのに出かけようとする。

 これはおかしいと思って今夜どこへ行くのか問いただしたところ、「仙川で水を浴びる」と言い出したから、バカなことはするなと慌てて着いてきたとのことだった。

「長谷川くんはここ一、二ヶ月、謎の体調不良に襲われてたらしいんですよ。職場に対する不満によるストレスからそうなってるのかと僕も思ったんですけどね。そこで例の占い師にみてもらったら、前世の河童が取り憑いてるって言うんですよ」

「でもでも、前世が河童で、それが取り憑いているって、わけわかんなくないですか?」

「本人はそう信じちゃってますから。本人が納得するようにしなくちゃいけない」

「でも、体調悪そうなのに、水浴びなんて」

「少なくとも、これから僕の家でやることは仙川で水を浴びるより安全です」

「それに、職場のストレスって……仕事もうまくいってて満足してそうだったのに」

 どうやら長谷川は、ストレスをすべて自分の中にため込んでしまうタイプのようだ。

 そうこうしているうちに僕の部屋に辿り着いた。

 客人には牛乳を出すのが流儀だが、今回は省略である。

 一直線に二人を浴室まで連れ込んだ。

 湯船にはぬるま湯が張られている。

「神市くん、風呂で水浴びをしても効果がないのは、もう実証済みだよ」

 長谷川が目つきを険しくして声を上げる。明るい場所で見ると、長谷川の肌は、藍染めのように濃い青に染まっていた。

「これはただの水じゃないんだよ。とにかく、入ってみてくれ」

 長谷川は眉をひそめ、訝しそうに服を脱ぎ始めた。ミクは脱衣所の入り口から心配そうにその様子を眺めていた。

 パンツ一丁になった長谷川を、僕は湯船に入るよう促した。長谷川はじっと湯船を眺め、やがてゆっくり湯の中に入った。

「お?」

「肩まで浸かってみてよ」

 長谷川は湯船の中に座り込んだ。ミクは脱衣所から、ぬるま湯に浸かる長谷川の姿を見ていた。

「おお、おおお、おお」

 長谷川が唸りだした。両手で湯を汲み、顔にかける。

「あ! 肌が!」

 ミクが叫ぶと、長谷川の肌の色がみるみる赤みを帯び始めた。

「すごく気持ちがいい!」

 長谷川が目を輝かせて僕を見る。

「頭の中が澄み渡っていくよ。排水口の詰まりが取れたみたいだ! すごく気分がいい!」

 長谷川はもう一度、顔に湯をかけた。口元についた水滴を舌で舐める。

「このお湯、なんだ?」

 僕は脱衣所の隅に置いておいた小箱を手に取り、長谷川に見せた。

 それは、先ほどホームセンターで買ってきた「人工海水の素」だった。

「そのお湯には、これが入っているんだよ。これ、人工的に海水を作るための薬剤なんだ。海水魚を飼育する人が買うもの。さっき、そこのホームセンターで買ってきたんだよ」

「人工海水? じゃあ、これ、海水なの?」

 長谷川は湯船のお湯をぺろっと舐めた。ミクも興味津々に湯船に指を入れ、指先を舐める。

「しょっぱい」

 二人が異口同音に言った。

「霊堂真作が河童かもしれない、と曖昧なことを言っていたのが気になってね、あれからいろいろ調べたんだよ。河童のように見えるだけで、実は河童じゃなかったんじゃないかって。河童じゃなければ、河童が好きそうなことをして憑きものが取れるはずもないしね。じゃあ、いったいなんなんだ、ってことになったんだけど、そこへ、友人から電話がかかってきたんだ。ほら、長谷川くんには言ったろ、元同僚で仕事を紹介してくれる友人がいるって」

「ああ、なんだか、おかしな子だって言ってたな」

「そうその子がね、ちょっとわけあって伊勢エビの飼育をしていたんだけど、その伊勢エビが死んでしまったと言うんだ。聞けば彼女は、伊勢エビを真水に入れてたって言うんだ」

「確かに、伊勢エビは海のエビだから、真水じゃ死んじまう……」

「霊堂が言ってたろ、長谷川くんの前世の河童は、河童仲間から白い目で見られてるって。それにいつまでも川に入ろうとしなかったって。霊堂は、ほかの河童のいじめが原因で川に入れないと推測していたけど、僕は逆なんじゃないかと思ったんだ。つまり、川に入らないことで、仲間から白い目で見られていたんじゃないかって」

「なんで、川に入らないんだろう?」

「うん。だから、妖怪辞典で調べてみたんだ。それでわかった。長谷川くんの前世は、河童のようだが河童じゃない、『海小僧』だったんだ」

「海小僧?」

「そう、河童には、海に生息しているタイプのものがあるらしいんだ。見た目は普通の河童と似たような感じなんだよ。要は、海の河童ってことだね」

「海の河童……」

「うん。海にいるのに、河童ってのはおかしいから、海小僧なんて呼ばれてるっぽいんだけど、僕としては、海の童と書いてウッパと呼んだほうがいいように思えるね」

「海童……」

 長谷川が吹き出した。

「僕の前世は、とんでもなく珍妙なものだったんだな」

「きっと、自分が海小僧だと知らずに、河童と一緒に生活していたんだろうね。きっと苦労してたと思うよ」

 長谷川は声を出して笑い、湯船の中に潜った。十秒ほどぶくぶくし、勢いよく顔を出す。

「最高だね。そうだ、ミク」

 ミクは湯船の湯をばしゃばしゃ長谷川にかけていた。

「なに?」

「明日から、うちの風呂は海水にしよう。神市くん、それって、ホームセンターに売ってるんだろ?」

「ああ、それほど高いものじゃない」

「ちょっと待ってよ!」

 ミクが慌ててツッコむ。

「私、海水風呂なんてやだよ!」

「ミクの後に入るから大丈夫だよ。それに、これ、かなり気持ちいいよ」

「気持ちがいいのは、長谷川くんの前世が海小僧だからだよ。……」


 二人を見送ってから、僕は嬉しくて、芽衣子に『ありがとう、助かったよ』とメッセージを送った。芽衣子はわけを聞くことなく『どういたしまして!』と返事を寄越した。

 矢継ぎ早にもう一通届く。

『お礼は高級フレンチでいいわよ!』

『図々しいよ、君は』

 そう返事しながら、僕は芽衣子に高級フレンチを奢るための算段を立てていた。

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