二、

「黙って」

 影法師が――せむしが黙る。あたしの申し入れが素直に受けれられたとは思えない、多分あたしの言葉を聞き逃しただけだろう。

「うるさいの。黙って」

 あたしはもう一度云う。途端、せむしは急に落ち着きをくし、そわそわ仕始め、きょときょとと辺りを見廻したりしている。何を考えてるんだ、こいつ、あたしはあんたに云っているんだ。一通り取り乱したせむしが頭を掻きむしりながら云う、

「イヤ、お嬢ちゃん、そうおっかながる事はない――」

「あたしはあんたの話なんか聞きたくない。それにしても確かにそれは目障りね、しまっておいてくれない」

 せむしは暫くきょとんとし、それから右手の銃に眼を遣ると、まるで火にくべた栗がぜたような、滑稽なほどの慌て振りを見せ、右手の銃を肘まで上着の奥へ突ッ込み抱え込む。その間にあたしはするりとせむしから離れ、焚き火を挟んだ向かいに坐る。せむしが顔を上げ、炎の向こうにあたしを見る、向かってあたしは初めてその醜い顔を真ッ向から見る。何ていやらしい眼をしてるんだ、こいつ、

「おう、お嬢ちゃんが遠くなってしまったな」

 まだ云うか、畜生ふぜいが、おまえ、あたしが誰だか知らないから。あたしはお母様の娘、蛇の愛し。世界で最後の神の、最後の寵愛をけた者なんだ。お母様がここにいれば、おまえなんかとっくに元のがらくたに還されているところだ。構わない、どうせそのうち朝が来る。早く太陽の光に散って了え。 あたしは鬱向き、心を閉ざす。レインコートのフードの、あごひもを指にくるくるとき附けて遊ぶ。

 くるくる、くるくる、湿ったひもが焚き火に火照ったはだに心地い。ひもを指に捲いたまま、引ッ張る、ひもがきりりと締まって血を淀ませる。あたしはぐるぐる捲いたひものかたちに、ふとお母様の姿を重ねる。いつもとぐろを巻いてあたしを包んでくれた、あたしを護ってくれたお母様。すべての存在が緩慢に滅びゆくだけの世界の中、お母様はただ、あたしの為だけにその存在を保っていてくれた。その大きく、長い躰も、鋭い牙も、硬い鱗も、輝く眼も、お母様のすべては、あたしを護るために、それだけの為に。でも、それならあたしのいない今、お母様はどんな姿をしているのだろう。あたしはすこし、悲しくなる。あたしのいない今、お母様は何を思っているのだろう。お母様、あたしが帰るの、待ってるんだろうか――

「まただンまりかね、お嬢ちゃん、もう、お喋りはおしまいかね」

 きり、とあたしは奥歯を噛み締める。いつもこうだ、こいつらはいつも、直ぐに襲い掛かって来たりはしない。こいつらはとにかくあたしに喋らせようとする、あたしの声を聞きたがり、あたしの言葉を受け止めたがる。あたしは時々、こいつらは言葉も喰うのではないか、人の心までも喰うのではないか、そう疑うことがある。でもそれにしたって同じ事、こいつらの腹はその儘あのひとつの穴へと通じている、何をどれだけ喰おうと、こいつらは永遠に飢え続けるんだ。 こいつらはそう云う生き物、だから何ンだって喰う、あたしはいちど、飢えに狂った夜のけものが地面に歯を立て、砂をがぶがぶと喰っているのを見た事がある。

 ――そうだ。おまえもそうすればいい。そんなに腹が空いているなら、やせっぽちのあたしなんかにこだわることないじゃないか。ここは果て知れぬ砂漠、砂礫だったら尽きることはない。そうだ、それがいい、

 あたしはそれだけ云ってやろうかとそっと顔を上げる。燃え立つ炎の輝きを受けて、一瞬眼がくらんでしまい、二、三度、眼ばたきをする。改めて視線を起こし、焚き火の向こうを見遣り――いきなりせむしと眼があう、

 まさか、こいつ――ずっとあたしを見てたのか。 せむしの双眸、黄色く濁った眼球が、真ッ直ぐあたしに向けられ、にたにたと厭らしく光ってあたしの輪郭からぞろぞろとめている、あたしの背中がぞくり、と冷える、

「イヤ、お嬢ちゃん――」

 せむしが喋り出す、まるで、つかまえた、とでも云うように。

「どうしたものか、イヤお嬢ちゃん、あんたのはだはおそろしい程に真ッ白くて、それが何ンだかじっとりと濡れているから、まるで眼球のようだよ、今にも、こう、ぱちんと破れそうな――おう、見ているだけで痛そうだ」

 あたしは引き剥がすように眼を逸らす。せむしを拒むように、レインコートの前を強く掻き寄せ、すねを隠す、掌も袖の奥に引ッ込める。フードを引き下げ、あたしはレインコートの赤の中に閉じ籠もる、

「寒いかね、お嬢ちゃん、こっちへ来るかね」

 黙れ、うるさい、あたしを見るな。厭らしい言葉に血まで冷えつく、冷えて、凍りつきそうな胸の中、重くなった血に心臓が軋み、痛い、黙れ、黙れ、

 せむしがまた何か云おうとしている、また何かを云おうと、

「黙れッ――」

 思わず漏らした言葉、不可いけない、狼狽を気取られたような気がしてあたしは鬱向く。怯える心から悪寒が全身に広がる、鳥肌がはしって過敏になったはだが鬱陶しい、あたしは全身を抱え込むように両手を廻し、膝頭に額を押し附ける、

 眇眼すがめでせむしの顔を覗き見る、ひきつれた傷口のようなにやにや笑いがそこにある。その口はもぐもぐと卑猥にうごめく、まるであたしの言葉をほんとうに飴代わりに舐めているように。左手は服の上から右手の銃をごりごりといじくって止むこと無く、その眼はますます大きく丸く見開かれ、まるで人の心に喰い附くもうひとつの口のような、その口であたしの姿態までも舐め取ってしゃぶろうとしているような、

 やめろ、やめろ、おまえなんか、あたし、あたし―――

 ああ、お母様、お母様――頭に昇った血が往き場を無くし、熱い涙となってぼろぼろと溢れ出す。厭だ、厭だ、やっとお母様なしであたしは居られるようになったのに、お母様なんていなくたってあたしは誰にも負けない、そう思っていたのに、

 お母様がとぐろを巻いて、あたしをぐるりと包み込む、こうしていれば夜は来ない、安心してお眠りなさい、お母様はそう云うけれど、目覚めていても、夢の中でも、あたしの眼が見るものはゆっくりと蠕動ぜんどうするお母様のおなかだけ、

 もう眠りなさい、暗いから眠りなさい、お母様はそう云うけれど、お母様の中、ずっと暗いのに、あたしいつ起きればいいの、夜はあぶない、眠りなさい、お母様の口はそれだけを云い、あたしの耳はそれだけを聞く。でもお母様、それならあたし何ンのために産まれて来たの、これじゃ死んでいるのと変わらない、それともあたし、死ぬまで眠っていなければ不可いけないの、ねえお母様――

 そんな言葉を喉に詰めたまま、あたしは黙って眠りにく。目を覚ますとさとされる、起きていると叱られる、お母様の云い附けどおり、あたしはずっと眠ってた、

 お母様は高く高くとぐろを巻き、あたしの上に城のようにそびえ立つ――決してけることのない夜、固く閉ざされた世界、いつまでもあたしをはらみ続ける蛇——それがあたしのお母様、あの頃のあたしのすべてだった。だからあたしは逃げ出した、赤いレインコートに躰を隠して、お母様に背を向けて。夜の中、まとい附く風を振り払い、立ち籠める闇を掻き分けて、あたしは走った、息が切れ、力尽き倒れるまで走って、逃げた、

 初めて見た外の世界、それは瓦解した後の世界だった。じ切れ、引き裂けた大地の上、死に絶えた土の骸が積もって出来た、けつく砂漠がどこまでも広がり、更にそれを地面に縫い附けるように、恐ろしいほどに溢れるがらくたが山を為す、

 それが今のあたしの世界、お母様を捨てて、あたしが自分で手に入れた世界。あたしはここで生きてゆかなきゃならない。夜になんか負けない、空がどんなに暗く重くあたしの上にのし掛かって来ても、あたしは決して眠ったりしない、

 だって、あたしはもう二度と、お母様のもとには帰らないのだから。

「なあ、お嬢ちゃん――」

 せむしの腰が上がり掛ける、それをあたしが思い切りきつく睨み附け、せむしは突き飛ばされたようにまた坐る。せむしが茫然とあたしを見る、

 あたしは炎を透かしてせむしを見返す、間抜けた顔をしているせむしと眼が合う、あたしは顔をそむけて眼を逸らし、

「人間はほんとうは、蛇なのよ、蛇が人間をはらみ、産んだの――知らないでしょう」

 何の心算つもりか自分でも判らない、あたしはせむしに語り掛ける。

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