赤き女王の日常「このひと時だけは……」

『夕食が出来たら声をかけてよ。それまでは執務室で書き物でもしてるからさ』



 実戦と訓練をこよなく愛するルージュから、そんな言葉が飛び出したのは、かれこれ数時間前のことだ。


 普段はこちらが依頼しても、ひとまずの拒否反応から入るのが彼女の常。


 それが今日に限って、どう言う風の吹き回しだろうか。


 彼女の近衛騎士である蒼髪の人狼アルフレートは、〝珍しい事もあるものだな〟と思わず飛び出そうになった言葉を何とか飲み、ルージュが執務室へと消えていくのを見送った。



――そして、現在。



 いつ音を上げたルージュが執務室から飛び出してくるだろうかと、オオカミ特有の聴覚を研ぎ澄ませるアルフレートは執務室の方角へ意識を向けていた。


 しかし、今回は夕食のディナーの完成の方が早かったようで、一度成らず二度までも、珍しい事が続くこととなった。



――コンコンッ



 約束通りにディナーの完成を告げにアルフレートが軽快な音を立ててルージュへ執務室への入室許可を求めた。



「陛下、約束のお時間です」



 しかし内側からの反応はない。


 再度ノックを試みるも変化はない。


 アルフレートは過去の出来事からある可能性を見出した。


 それが〝ルージュのお散歩〟。


 以前、ノックに応じないルージュの部屋に、無礼承知で入室した際。


 〝お散歩〟と称した彼女が、窓から外へ逃げ出していた事があった。


 しかも今回は自ら苦手な執務業務にあたったのだ。


 限りなく、クロに近いと言えよう。



 このお散歩事件が再発したとなれば、面倒な事になる。


 アルフレートは俄に痛み始めた眉間を強く押し込みながら、ガチャリと執務室の扉を開いた。



「……入ります」



 足元を確認するように伏せられた蒼い瞳をゆっくりと持ち上げて室内を確認する。


 きちんと閉められた窓。


 最奥に設られた大きな執務用の机。


 その片側には整えられた処理済みの書類の山、そしてそ反対側には未処理と思われる、乱雑に重なった書類たち。


 そして、その両山の間では、机に突っ伏してスヤスヤと眠るルージュの姿があった。



「ルー、こんなところで寝て……」



 まるで独り言のような声色でアルフレートがそう問いかけた。


 普段のルージュであれば、いくらうたた寝をしていても、このくらいの音で目を醒ます。


 そして〝何?〟とそれは不機嫌そうな声で答えるはずである。


 しかし、珍しい事は、二度あれば三度あるもので。


 目の前のルージュはピクリとも反応を示さなかった。



「風邪をひ、く……」



 ルージュの側へ歩み寄ったアルフレートの言葉は一瞬詰まり、彼女の肩を揺らそうと伸ばされた手が、ピタリと止まる。


 目の前で眠るルージュの閉じられた瞼に震える睫毛。


 ペンを握ったままの手。


 弛緩した表情。


 その全てが、おおよそ一国を治め、同盟をその身で防衛する者と言うには……あまりにも幼い寝顔だったからだ。


 どんな時でも凛とした表情と声を絶やさないルージュは、まさに女王としての風格を常に保っていた。


 稀に悪戯心を疼かせて、挑発的な笑顔を見せることはある。


 しかし、こんなにも無防備で幼い顔となれば。


 常に共にあるはずのアルフレートですら、滅多にお目にかかるものではない。




――ああ、自分の主君はこんなにも幼いのだ。




 そう、痛感した。


 本来はこんなにも幼くて、街を駆ける子供たちと大差ない年齢のはずであるのに。


 その子供らしさを犠牲にして。


 運命という縛りに導かれ、大人でも戸惑うような判断すら、その小さな肩に全責任を背負い、決断を下す。


 なんと世界は残酷なのだろうか。



「これは相当疲れてるな」



 ポツリ呟いたアルフレートが、止めていた手を再びルージュへと差し伸べた。


 気高くあろうとするルージュがこんな事をされたと知れば。


 文句の一つや二つは言われるかもしれない。


 されど、眠っている今くらいは、許してほしい。



「……ルーは、よく頑張ってるよ」



 まるで親が子にそうするように。


 アルフレートはルージュの緩く巻かれた黒い髪を、優しく愛おしそうに撫でた。


 そしてそのまま軽々とルージュを抱き上げる。


 横抱きにすれば負担も軽いが、あえて縦抱きにしたのは片手が自由になるからだ。


 それと、ルージュの温もりが一番自分の身体に伝わる抱き方だからだ。


 避けられない浮遊感を感じたルージュが、小さく唸り声を上げる。


 覚醒しかけた彼女の頭をアルフレートが自身の広い肩へぽすんと乗せて。


 まだ寝てて良いと伝えるように、ポンポンと頭を撫でれば、むずがっていたルージュの吐息が、安心したようにまた規則正しいものへと変わった。


 その時、アルフレートの服を握りしめたルージュの無意識の行為が、彼女からの信頼を示しているようで。


 アルフレートの心が僅かに躍った。



「行こう。ルー……」



 ルージュの執務室の扉を後ろ手に閉めてから、ゆっくりと長い長い廊下をルージュの個室へ向かって歩く。


 なおもルージュが深い眠りに落ちている事を確認していると。


 アルフレートの前に、同じく近衛騎士を務める緋髪の人狼ルドルフの使役する白狼〝リチェルカーレ〟。


それと、アルフレートが使役する黒狼〝アマデウス〟が姿を現した。


 世にも珍しい我が国の女王陛下が眠る姿に興味を持ったのか、好奇心旺盛なリチェルカーレが、アルフレートからぶら下がるルージュの足に、そっと鼻先を近づけた。



「こら、待て」



 そう制する言葉をかけてから、ルージュを落とさぬように抱え直したアルフレートは、空いた手の人差し指をそっと自身の口元へと立てて〝シーッ〟っと吐息を鳴らした。



「リチェルカーレ、勘弁してやってくれ」



 女王陛下にも。防衛国代表にも。


 どちらのルージュにも、戻してしまうには早すぎる。


 今だけは――



「この〝ルージュ〟は……俺とお前たちの秘密にしてくれ」



 運命の少女に戻るのは、もう少し先でいい。


 

 それが例え、この運命を授けた神であっても。


 今はただ、眠る貴女を全てのものから護るから。


 

 今だけは、どうか。


 この幼い我が主君に安らぎを。

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