第3話 藤原道長(ふじわらのみちなが)
――この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば――
わたしの藤原道長に関する知識は、この歌に尽きる。たぶん『平家物語』の「平氏にあらずんば人にあらず」という名言と、インパクトとしては双璧だろう。
「それはまた、随分と偏った知識だな」
呆れたように道長さまは言った。いま、わたしは安倍晴明さまと一緒に道長さまの屋敷に来ているのだ。
「まあよい。わしは後の世の評価など気にするような小さい男ではないからのう」
この道長さま、一見するとただの恰幅の良いおじさんなのだが、若紫ちゃんが「光る源氏の君」のモデルにしただけあって、よく見るとイケメンの面影が残っている。
おまけに政治の修羅場をくぐりぬけて来たからだろう、ちょっとした表情に、底知れぬ凄味がにじみ出ているのだ。
聞くところによると若いころ、道長さまの父親が一族の優秀な青年について「おまえたちでは、あの男の影も踏めないだろうなぁー」と嘆いたら、兄たちは揃って意気消沈したのに、道長さまだけは「ふん。影だけではなく、頭まで踏みつけてやりましょう」と言ったらしい。たしかに、そんな事を言い出しそうな人ではある。
「でも、本性はただのエロ親父だけどね」
額なんか脂でテカってるし、しかも文章指導と称し、いつも若紫ちゃんをその毒牙にかけているらしいのだ。
「うわー、最低」
「なんじゃ、何か言ったか」
おっと、声に出ていたようだ。隣に座る晴明さまにも目でたしなめられる。
道長さまは姓名判断の本を片手に考え込んで、わたしの言う事には上の空だ。
「やはり真剣ですね。かわいいお孫さんだから当然かもしれないですけど」
そこはさしもの藤原道長さまといっても、ただのお爺ちゃんなのだろう。
「それだけではありません。お子が世継ぎの皇子であれば、自分はその外戚として絶大な権力を揮えるのです。道長さまが真剣になるのも当然でしょう」
「そう言うと、身も蓋もないですね」
「
平然と言う晴明さま。でも彰子さまの事を考えると、釈然としないものはある。
そうか、いわゆるこれが折檻政治というやつだな。さすが民衆を痛めつける悪政の代名詞だけの事はある。わたしは一人で納得した。
「お待ち下さい。それは摂関政治です」
「おや」
そうか、折檻はいつもわたしが晴明さまから受けている事だった。
「人聞きの悪いことを言わないでください。そもそも摂関政治とは何かご存知なのですか」
え、実はご存知ないです。
「まず、摂政と関白。あわせて摂関です」
「ああ殺生関白って聞いたことあります」
晴明さまに睨まれた。どうやら違ったらしい。
摂政は政(まつりごと)を摂(とりおこなう)という意味で、いわば天皇の代理。関白は関(あずかり)白(もうす)で、天皇の補佐みたいな意味だそうだ。なので摂政のほうが権力を専権的に揮いやすいのは言うまでもない。
「だから道長さまは摂政の座を狙っているんですね」
「そういう事です」
「まるで悪代官さまですね」
「そうですね」
「ああん、何か言ったか、晴明」
「いえ。何も申しておりません。すべて、この末摘花が申した事にございます」
ええっ。
「そうか、相変わらず失礼な女だ。そうだ、晴明はもう良いぞ。世話になったな、この本は借りておく。今晩じっくりと考えねばなるまい」
晴明さまは一礼して出て行った。
「ところで、失礼な末摘花。おぬし暇であろう」
どっちが失礼なのだ。いや、たしかに暇だけども。
「ちょっと、わしに付き合え」
なんと。昼間から、堂々とえっちなお誘いを掛けてくるとは、この変態エロ親父め。絶対お断りだからね。わたしは服の合わせ目を押え、じりじりと後退りする。
「じつは庭の
「は?」
☆
遣り水というのは、近くの川などから庭園に向けて流れを引き込んで造った人工の小川だ。周囲に桜や紅葉など、四季の木々を植え山水を表現している。
これは、夏に涼をとるといった現実的な理由もあるが、曲水の宴という、盃を流してそれが自分の前を通り過ぎるまでに和歌を詠む、といった優雅なイベントにも用いられる。
いかにも平安時代のお屋敷らしい壮大な仕掛けである。
水門を堰き止めて、干上がった水路を掃除する。きれいに見えたけど、結構落ち葉とか溜まっているものだ。わたしも作務衣に着替え、道長さまの手伝いをする。
だけどこれ、本物の川くらいのサイズがあるぞ。舟遊びとか普通に出来そうだ。
「昔から、遣り水を掃除すると運気が上がるというからな」
汗を拭いながら道長さまが言う。
「へえ、そういうものですか」
たしかに、部屋の掃除をすると良いとか、よくテレビの占い番組で言ってたような気もする。
「そうだとも。水路の通じの良さは、開運に繋がるのだからな」
にやにや笑っている。
「お通じの良さは、快ウンに繋がるのだからな!」
下ネタか。二回も言うな。
「よし、水を流すぞ」
上流から大きな声がした。わたしたちは急いで岸へ上がる。
「すごっ!」
轟音をたて水が流れ下ってくる。ちょっといっぺんに流し過ぎじゃないだろうか。洪水だよ、これじゃ。
「きゃうーん」
おや。なんだか聞いたことがある悲鳴がした。
「ああっ?」
ちいさな子供が流されてくる。頭にはふわふわの三角形の耳。濡れて細くなったしっぽ。あれって。
「犬君ちゃん!」
「助かったんだわん。ありがとう、おねえちゃん」
流れに飛び込んだわたしもずぶ濡れになってしまったが、無事に犬君ちゃんを救出出来て良かった。
「川の底にね、わたしのよりも大きなスズメを咥えてる子がいたから、交換してって言おうとしたら……」
自分のスズメ(姿焼き)を落としてしまったので拾いに水路に入ったら、水に流されたらしい。
「川の中にいた子は大丈夫だったのかな」
ちょっと心配そうな犬君ちゃん。
「心配ないよ」
それはきっと、水溜りに映った犬君ちゃん自身だからね。
とにかくお掃除は終わった。
「よし。あとは男児の誕生を待つばかりだ」
道長さまは晴れた空に向かって高笑いした。
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