第2話
正雪は相手の名乗りに茫然となった。
「松平、信綱…?」
それも仕方がない。松平信綱といえば、筆頭老中。現在、将軍
(これほど上の者に目をつけられていたのか)
その事実は不思議と正雪を満足させた。仮にこの場で切腹を命じられたとしても、筆頭老中が相手とあっては冥土の土産として申し分ない。
もっとも、信綱の表情にはそういう害意はなかった。
「実はのう、そなたに来てもらったのは、少しばかり頼みたいことがあるのだ」
「頼み?」
更に意外な話に、正雪は首を捻る。
松平信綱はただの肩書だけの筆頭老中ではない。徳川家光の最側近として、その幕政運営の全てを掌握している存在である。家光の利益に反するようなことでない限りは、誰に頼むことなく自分の望むようにできるはずである。
「一体、どのようなことでございましょうか?」
「そなたは色々なことを教えていると聞くが、
「唐土のこと? 明が滅んだという話は聞いておりますが」
今の江戸で外国の情報を得るのは至難である。外国人と接することができるのは長崎の平戸だけであり、その他の場所で接点をもつことはほとんどできない。長崎奉行近辺に伝わった情報が、色々伝播してくるのを待つだけである。正雪もこうした情報を得るのは苦労しているが、それでもできうる限りは把握していたいと手は尽くしている。
「そうだ。5年前に滅んだ。ただ、明の皇族の生き残りが各地に散らばって、抵抗しているという話だ」
「ほう…」
興味深い話ではあるが、この話が自分とどう関係があるのか。正雪にはまるで見えてこない。
「抵抗している勢力の中には、日ノ本で生まれた者もおってだな。何度か救援の要請も受けている」
「そうなのですか。しかし、日ノ本は鎖国をしておりますから、援軍は出せないのではないですか?」
「その通りだ。かつて豊臣政権も明と戦争をして、大いに損耗した。その二の舞を演じるわけにはいかぬ…のではあるが」
雑談のような様子であった信綱の表情が真剣さを帯びてきた。
「ではあるが、何でしょう?」
「実は将軍様をはじめとして、兵を出すべきだという意見も多かった」
「それは意外ですな」
「…そこでわしも考えて、そなたに来てもらったということだ」
「…申し訳ございません。それがし、鈍いもので話がまだ見えませぬ」
信綱もそれは承知しているらしい。頷いて、次の話に移った。
「時に、そなたは浪人達を多く抱えているというが、結構不穏当な意見を持っている者も多いと聞く」
「…武士も人間でございます。全ての不満を押さえつけることは、それがしにはできませぬ」
やはりこちらが核心であったか。正雪は心の中で褌を締めてかかる。
「分かっておる」
しかし、意外なことに信綱はあっさりと肯定した。正雪は出鼻をくじかれる。
「多くの浪人が生活の術もなく苦しんでおり、また、失策をしでかした大名が憤懣やるかたない思いを抱いていることも知っておる」
「…左様でございましたか。それならば、何とかしていただければ…」
という正雪の申し出に、信綱が即答した。
「由井よ。浪人を率いて、明に協力する気はあるか?」
「…は? 浪人を率いて、明に?」
「そうだ。残念ながらこの江戸では、不満を溜めている浪人達をどうすることもできぬ。一方で、浪人の戦力を待ち望んでいる場所が、日ノ本を出たところにはある」
信綱はそう言って、一旦話を切った。正雪の出方を待つ構えである。
どうしたものか。正雪は逡巡した。
「一旦整理させていただきます。まず、それがしが浪人を率いて、明の支援をするということで間違いないですね?」
「間違いない」
「幕府は鎖国を止めるつもりはないものの、明のことに興味はある。そこで、浪人を派遣して明を助けさせる。それでうまく行かなければ、浪人のしでかしたことと切り捨てるおつもりでございますな? 何かしでかすかもしれない浪人を大量に国外に出すことで、幕府は安泰。浪人達も日ノ本にいるよりは、国外に出た方が再起の機会が望める。一石二鳥どころか、三鳥の策であると」
「その通りだ」
「しかし、それをそれがしに持ちかけたのはどういう理由でございましょう? それがしが率いるとのことですが、それがしにそのような力があるかどうか…」
「どういう理由? どういう理由と申したか?」
信綱はニヤリと笑った。
「そなた、自分は
「これはしたり」
正雪は自分の頭をぴしゃりと叩いた。
事実、正雪は自らを武田信玄の生まれ変わりという看板を掲げていた。これは全くのでたらめというわけではなく、母親が正雪を産む直前にそうした夢を見たということを何度も言っていたのであり、駿河の故郷では家族だけでなく多くの者が知っているところである。武田信玄といえば、神君徳川家康をも苦しめた武将である。浪人達の受けがいい、という事実も大きいのであったが。
「ご老中にそこまで言われたとあれば、この正雪、一身を賭さざるをえません」
「うむ。できれば来年の春には向かってもらいたいと思う。今後、何かあった場合には南町奉行所から連絡をさせるゆえ、これはと思う者達を集めてもらいたい」
「ははっ。お任せください」
正雪は平伏した。
倒幕を考えていた自分が浅はかであったと思い知らされた。世界のことまで含めた解決策を見せられたとあっては、一所懸命の精神で尽くすしかない。
そして、日ノ本どころか、中国まで含んだ舞台で自分の才覚を生かせるというのはこの上なく心が躍ることであった。
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