桜に鷲(仮)

英 蝶眠

第1話

 世界で最も難しい言語は日本語である──とアンナ・コルサコワに事実を突きつけられた際、


「それは…お互い様やで」


 さくら一徹かずたかは地金の播州弁で返したが、この時は翻訳アプリが正常に通訳しなかったため、彼女にうまくは伝わらなかった。


 無理もない。


「まぁしゃーないわな、アーニャは東京弁しか知らんのやし」


 一徹は彼女をアーニャと愛称で呼ぶ。


「ヨハネの日本語は難しい」


 アーニャが一徹をヨハネと呼ぶのには、少し解説が要る。




 アーニャが初めてヨハネこと一徹の存在を知ったのは、まだロシアがウクライナと戦争を始める前の頃、アーニャがワーキングホリデーで初めて来日した時にまで話は遡る。


 この折、ホームステイ先として滞在していた横浜の老夫婦にアニメ好きな香月りんという孫娘があって、歳も近かったので「同人誌の即売会に行こう」と誘われたのである。


 とは言え。


 ロシアでアーニャが持っていた単行本はナルト、凛はラブライブが好きで、しかし凛の「ロシアにないなら、逆に持ってたらレアだよね」と言う一言で興味がわいたのか、


「行ってみようかな」


 と、軽い気持ちで桜木町のイベント会場で開かれた即売会へ連れて行かれたのである。




 即売会の日は雨で、それでも凛は他念がなかったのか、買った同人誌が濡れないようにとビニール袋まで用意してあって、いかにも物慣れた様子がアーニャにもうかがわれた。


 そこで凛が見つけたのが、


「あ、ヨハネさん!」


 この人めっちゃ珍しいんだよ──まるでレアなキャラクターでも見つけたかのように目を爛々と輝かせて、ブースの一隅にいたヨハネこと一徹のもとへ駆け寄ったのである。


 元々凛が推しているレーズンさんという、いわゆる神絵師と呼ばれる人気のイラストレーターがあって、そのレーズンさんが、


 ──こんな絵師は見た事がない。


 とリポストして話題になったのが、一徹ことヨハネであった。




 というのも。


 通常イラストはケント紙や色紙に描かれ、芸能人風のサインが小さく署名される。


 ところが。


 ヨハネの色紙には「一徹斎」と署名があり、その脇に「ヨハネ印」と落款が捺されてある。


 現在でこそ珍しくなくなったが、当時はそんな日本画のような落款を捺し色紙を出す古風な絵師などほぼいなかったので、それが却って目立っていたのである。


 絵柄も、変わっていた。


 毛筆で線画が描かれ、そこに顔彩で彩色されてある。


 しかも。


 この時アーニャの好きなナルトのカカシ先生があったのである。


「ほら、アーニャの好きなカカシ先生」


 言うが早いか凛は手に取ってアーニャに見せた。




 他方で凛は、自身の推しである国木田花丸の色紙をすでに手にしており、


「ほら、一緒に買ってあげる」


 手早く凛が、会計を済ませたのである。


 この時。


「今日は雨やからね」


 ヨハネは用意してあったラップで、丁寧に色紙を包装の封筒ごと包んで渡したのである。


「こういうところが神なんだろうなぁ」


 凛とアーニャは次の目的の絵師のブースへ駆け足で急いだ。




 が。


 あまりにも急いでいたのか、アーニャのイヤリングの片方が落ちた。


「…あっ」


 ヨハネが拾って声をかけようとしたが、すでに遠く声は届かない。


「…ったく、しゃーないなぁ」


 手元にあったコピー用紙に包んで、また来たら声をかけて返すつもりで待つ事にした。


 ところが。


 いつまで待っても、凛もアーニャも来ない。


 そうするうちに閉館時間が近づき、撤収開始のアナウンスが会場に流れ始めた。


「…後で運営に届けとくか」


 だが。


 ここでヨハネは一つの失敗をした。




 バタバタと撤収を済ませ、忘れ物がないかを確認して、ギリギリで出てこの日のホテルの部屋まで戻ると、着替えの際にポケットに例の包んだままのイヤリングが入っていた。


「…あー…やってもうた…」


 ヨハネこと一徹には、こうした粗忽な所がある。


 しかも。


 明日の朝には飛行機で自宅のある小樽へ帰らなければならず、運営に届けに行く時間もない。


「参ったな…」


 当然この時まだアーニャの名前も知らず顔もうろ覚えで、凛の事もハンドルネームは知っていたが、顔までは覚えていない。


「まず、全ては帰ってからやな…」


 こうなるとジタバタしないのがヨハネで、この慌てなさが、


 ──ヨハネは冷静な人。


 というイメージに繋がってもいたらしい。




 翌日。


 朝一の新千歳行きの飛行機で戻って、快速電車で小樽まで戻ると、雨の上がった小樽駅は涼しかった。


 駅前の駐輪場に頑丈なチェーンロックをつけて停めてあったカスタムカブで、ヨハネは梅ヶ枝町のアパートまで帰り着くと、そこで初めて例の包みを開けた。


 カメラで撮り、


「このイヤリング片方を拾いました」


 時間がなかったので運営に届けられず、取り敢えず預かっている旨をSNSに上げる事にした。


「…これしか手はないやろ」


 今度からはもう少し余裕のあるスケジュールを組もう──ヨハネにはそう思うより他なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る