第30話

第30話


 ウルスラというとんでもない爆弾を抱えてしまったエルだったが、ウルスラのための魔術具製作をやめるわけにはいかなかった。

 短くて週に1度はお茶会や昼食に誘ってくれて、「どんなものができるのかしら」と目を輝かせるウルスラを見ると、とてもではないがやめるわけにはいかなかった。7月になって秋らしく過ごしやすい季節になった頃にはウルスラが好きでよく使っていると言う赤いルビーをあしらった指輪とネックレスを借りてきて、試作を重ねて完成した魔術具を製作した。

 完成した魔術具の性能を確かめて、これなら大丈夫と自分で太鼓判を押した3日後にはまたお茶会の誘いがあった。

 頻繁に出掛けるエルを研究事務の職員は訝しんでいたが、研究の合間の気晴らしに出掛けていると言えばそれ以上は追求されなかった。

 もうウルスラの屋敷には何度も通って正門の衛士もエルは顔パスで、いつもの老紳士が中庭の四阿のひとつに案内してくれる。そこでフローラの淹れてくれたお茶とお菓子を食べながらお喋りをしつつ、タイミングを見計らって製作した魔術具を見せた。

「はい、これ。できましたよ」

「まぁ、もうできましたのね! それでどんな魔術具になっているのかしら?」

「ネックレスは防御用の魔術具です。ネックレスに触れてバリアと唱えるとウルスラをあらゆる物理攻撃から守ってくれます」

「魔術ってそんなことができますのね。早速試してみてもいいかしら?」

「どうぞ」

 ウルスラはネックレスを取り替えると、エルに言われたとおり、「バリア」と呟いた。すると白く淡い光の膜がウルスラの周囲に広がり、ウルスラはびっくりしていた。

「この白い光はなんですの?」

「それが防御用の魔術です。ちょっと待ってください」

 エルは椅子からひょいっと降りて、ウルスラの側に行くと白い光を思いっきり叩いた。

 それにウルスラはびっくりしたが、全く痛みを感じないことがわかって呆気にとられたように自分の周囲に広がる白い膜を眺めた。

「ほらね。ちょっと殴られたくらいじゃびくともしません。これがあればちょっとやそっとの攻撃くらいなら全て弾き返してくれます」

「まぁ! 素晴らしいわ」

「それを解くときはディスペルと唱えてください。そうしたら消えます」

 言われるままにウルスラは「ディスペル」と呟き、すると白い膜はあっさりと消えた。

「まぁまぁ、なんて便利なんでしょう! こんなすごいものをたった2ヶ月で作ってしまうなんてエルは本当に優秀なんですのね」

「そんなことはありませんよ。簡単な魔術を定着させるだけなので、研究の片手間にやってもすぐにできます」

「それでもすごいわ」

 本当は研究が終わっているから製作にかかりっきりだったのだが、それを言う必要はない。

「じゃぁ次はこれです」

 今度はルビーの嵌まった指輪を渡す。

「これはどんな魔術具ですの?」

「突風を起こす魔術をかけてあります。ちょっと私が浮いてみせますので、私に向けてウィンドと唱えてください」

「わかりましたわ」

 エルは少し離れてフライの魔術をかけて浮く。ふわふわとその場に浮いているエルを見てウルスラは目を輝かせたが、すぐにごくりと喉を鳴らした「ウィンド」と呟いた。

 すると指輪から突風が吹き出し、エルを数メートル後ろに追いやった。

「まぁ!」

 感心するウルスラの正面の椅子に戻り、椅子に座るとエルは説明した。

「これがこの指輪の魔術です。今は浮いていたのであれくらいの飛び方でしたけど、場合によっては部屋の隅くらいまで飛ばせることができます。もし何かあったときはそれを使って相手を吹き飛ばしてやってください」

「すごいわ、エル! こんなすごい魔術を使えるようにする道具をこんなにあっさり作ってしまうなんて!」

「そんなことはありませんよ。魔術の定着はそんなに難しくないんです。ただ、大量生産に向かないので、王都では珍しいもののように映りますけどドリンでは魔術師が多いので簡単な魔術具なら普通に売られているような代物ですよ」

「でもわたくしのためにこんな素晴らしいものを作ってくださるなんて! わたくしは本当にエルとお友達になってよかったですわ」

「そう言ってもらえると作った甲斐があったってものです」

 笑ってそう言うとウルスラは何度も「バリア」や「ウィンド」と唱えて効果を確かめる。これくらいの簡単な魔術を付与した魔術具くらいならドリンでは本当に珍しいものではないのだが、魔術師と言えば宮廷魔術師と言うくらいの王都では魔術具そのものが珍しいのだろう。

「これなら第二王子だけではなく、他のことでも何かあったときの護身用になりますわね」

「あ、確かにそうですね」

 公爵令嬢ともなると正門に衛士が立つくらい警備が厳重だから何かと危険があるのだろう。元々は粗暴な第二王子対策のための魔術具だったが、簡単な防御と攻撃の魔術具ならば普段から身を守るために使える。思わぬ副産物がついてきたと思って、やはりエルはこの魔術具を製作してよかったと思う。

 一通り魔術具の性能を確かめたウルスラはネックレスと指輪を取り外してテーブルの上に置く。

「本当にありがとう、エル。大事に使わせていただくわね」

「どうぞどうぞ。ただ問題がひとつだけあって」

「問題というと?」

「使うとマナ切れを起こすんです。かなり強い魔力を込めたのでそんなに乱発しなければ1年は保つと思うんですけど、1年くらい経つと効果が切れてしまうんです。だから定期的にマナを補充しないといけないんですよ」

「あら、そうなのね。ではエルか、他の宮廷魔術師に頼んで補充してもらえばいいんですのね?」

「はい。ネックレスは光と土のマナ、指輪は風のマナです」

「わかりましたわ。覚えておきます」

 真剣な顔で言うウルスラにエルもそっと微笑む。魔術具は製作すれば便利に使えるものだが、魔力切れを起こしてしまうのが難点だ。今回使った魔術はホワイトバリアとウィンドストームの魔術だから、そんなに難しい魔術ではない。むしろ基礎に分類されるくらいの簡単な魔術だ。だから多少使いすぎても効果は保つが、それでも魔力切れの問題は避けて通れない。ドリンで冬になると出回る発火式の魔術具は一度きりの使い捨てだから、魔力切れの心配はいらないが、ウルスラのために作ったものはそうはいかない。

 それからはウルスラは魔術具の製作について訊きたがったので、どういう手順で魔術具を作っていくのかを説明しているとあっという間にお茶会の時間は終わりになってしまった。

 ウルスラと別れて中庭の丹精された花々を見ながら前庭に行き、正門に向かおうとしたところに豪奢な馬車が入ってきた。それを避けて素通りしようとしたとき、馬車からひとりの中年の男性が降りてきた。

 年の頃は40歳くらいだろうか。ウルスラと同じ金髪でダンディな思慮深い男性、と言った雰囲気だった。

 だが、帰る途中のエルはそのまま素通りしようとしたのだが、その男性はエルを見かけると迎えに出た老紳士を制してエルに声をかけた。

「エル・ギルフォードくんだね?」

「はい? えっと、そうですけど、何か?」

「わたしはこの家の当主ゴルドベン・ウィルソンという」

「当主!?」

 公爵家の当主というとこの国のナンバー2の宰相ではないか。慌てて居住まいを正して直立不動でゴルドベンに向き直る。

 だが、ゴルドベンは厳しそうだった表情を柔和なものに変えてエルに近づいてきた。

「ウルスラと懇意にしてくれているようでわたしからも礼を言わせてもらいたい。わたしはウルスラに何不自由ない生活を送れるようにと心を砕いてきたが、友と言う存在には考えが至らなかった。親として恥ずかしい限りだ。

 だが、最近のウルスラは君のことを話すときにとても嬉しそうに、楽しそうにしている。あんな娘の姿を見るのは幼い頃以来だ。どうかこれからもウルスラのことをよろしく頼む」

「い、いえ! こちらこそ、仲良くさせていだいていて恐縮しています!」

「はは、そんなに畏まらなくてもいい。大事なウルスラの友だ。気軽に屋敷に来てくれて構わない」

「はぁ」

 まさか宰相閣下直々にこんなことを言われるとは思ってもみなかったので間の抜けた返事が出てしまう。

「君は宮廷魔術師だったね?」

「あ、はい」

「何か困ったことがあったらいつでも言ってくれたまえ。できる限り力になろう。ウルスラがいつも世話になっているのだからわたしにできることなら協力は惜しまない」

「いえ! そんな! い、今の待遇にとても満足していますので!」

「そうかね? まぁそれならいいが、何かあればウルスラを通じて言ってくれたまえ」

「あ、はい、お心遣い感謝いたします」

「ではわたしはまだ仕事があるのでこれで失礼するが、これからもウルスラのことをよろしく頼む」

「はい」

 宰相ともなると家に帰っても忙しいのだろう。短い会話をしてからゴルドベンは老紳士とともに屋敷のほうに歩いていった。

 それを見送ってからエルは「心臓に悪い……」と思った。


 7月も後半に入った頃、ルーファスの研究の進捗を確かめる意味も兼ねて、エルはルーファスの研究室にお邪魔していた。

 ルーファスは相性の悪いマナ同士の魔術の組み合わせについて研究していて、強い魔力で相性の悪いマナを上書きすることで相性問題を解決すると言う方法に辿り着いていた。

 この問題は旋律を使えばもっと簡単にクリアできるのだが、これはエルが今後発表するときのために取っておこうと思っていたことだったので、「ふんふん」とルーファスの研究成果を聞いていた。

 そしてお互いの研究について話が一段落したときに、ゴルドベン・ウィルソンという宰相がどういう人物なのかを訊いた。

「ゴルドベン宰相閣下? 名実ともにこの国のナンバー2としての地位を揺るぎないものにしている人格者だと専らの評判だよ」

「なるほど」

 確かにたかだか一介の宮廷魔術師であるエルに、ウルスラの友達だからと丁寧なお礼を言ってくるような人物だから、いい人なのだろうと思っていたがそのとおりらしい。

「国王陛下が皇太子の時代から内務省で働きながらその補佐をしていて、陛下が即位されたと同時に宰相に任じられた。若いうちから頭の切れる宰相として、今でも陛下を補佐して働いている」

「そんなに長い付き合いなんだ」

「そうだね。だから陛下には耳の痛い話でも遠慮なくする。意見が対立しても、自分が正しいと思ったことなら陛下を諫めて説得するくらいの気概のある人でもあるらしい」

「さすがに一国の宰相ともなるとそれくらいでないと務まらないのかもしれないねぇ」

「そうだね。だから陛下もゴルドベン宰相閣下には全幅の信頼を置いていると言うことだ。若い頃からの付き合いもあるだろうし、政治家としても有能。しかも人格者でもある。この国がこれほど安定しているのは国王陛下のご威光もさることながら、宰相閣下の補佐があってこそだとの専らの話だよ」

「すごい人なんだねぇ」

「そういう話をする、と言うことは宰相閣下に会ったことがあるのかい?」

「やっぱりわかる?」

「ウルスラ嬢のことがあったからね。君が僕に貴族社会のことを尋ねる、と言うことはウルスラ嬢絡みで何かあっただろうことはすぐに想像がつく」

「実はさぁ、この前のお茶会で帰りにその宰相閣下に会ってさ。これからも娘をよろしく頼むって言われちゃって」

 これはルーファスは深々と溜息をついた。

「どうして君はそういう厄介な出来事に巻き込まれるのか……。シェルザールではジャクソンの放火事件に巻き込まれたし、今回はゴルドベン宰相閣下? ホントにもう驚くのがバカらしくなってくるよ」

「え? そんなに大変なことなわけ?」

「他に何か言われなかったかい?」

「力になれることがあれば力になる、とは言われたよ」

「はぁ……。それはとんでもない後ろ盾になるよ。ただの宮廷魔術師が宰相閣下の後ろ盾を得た、なんてことになったらどんなことになるやら……。ただでさえウルスラ嬢と懇意にしていると言うだけでも厄介なのに、宰相閣下直々にそんなことを言われたなんて普通に宮廷魔術師をやっていたらあり得ないことだよ」

「やっぱりそうなるかぁ。でも私は宰相閣下の威光を笠に着て何かをしようなんて全然思ってないよ?」

「僕も君がそんなことをするような人間じゃないことくらい長い付き合いでわかっている。けど、周りはそうは見ない。宮廷魔術師でありながら宰相閣下とも懇意にしているとなれば、宰相閣下と繋がりを得て力を得たい貴族は君に押し寄せるだろう。ウルスラ嬢だけの関係とはまた全く違ったものになる」

「はぁ……。私はただウルスラが可愛いから友達になっただけなのになぁ。なんでこんな大事になっちゃうんだろ」

「それは仕方がない。相手が相手だからね」

 そもそもエルはウィルソン家がどういう家柄かも知らなかった。屋敷の大きさを見てとても位の高い貴族だとは思ったけど、まさか宰相とは思わなかったし、ウルスラの友達が欲しいと言う熱意の前には断ることなんてできなかった。

 ただそれだけだったはずなのに、相手の立場が立場だけにことが大きくなりすぎた。

「でもウルスラの嬉しそうな様子を見ると今更さようならはできないし、宰相閣下がああ言ってくれたのを固辞するのも失礼だろうし」

「そうだね。謙虚なのは美徳だけど、過ぎると欠点にもなる。それに相手が宰相閣下だから、固辞して断っていたら逆に失礼だと思われるだろう。そういう意味では君は無難な選択をしたと言っていい」

「あーあ、私は単に妹みたいな可愛い子が友達になってくれてよかったなぁ、ですませたいのになぁ」

「なら君がそういう態度を貫けばいい。あくまで友達。そしてその親。君に宰相閣下の威光を利用して何かをしようと企んでいない、とわかれば少しは落ち着くとは思うけどね」

「それを待つしかないのかぁ。いったいどれくらい待てば落ち着くのやら……」

「しばらくは無理だろうね。ウルスラ嬢が社交界にデビューすればきっと君のことはウルスラ嬢から漏れるだろう。そうすれば君と友誼を結んであわよくば宰相閣下に取り入ろうとする輩も出てくるはずだ。そうなれば君個人としてパーティに呼ばれることも増えるだろうね」

「生演奏が聴けるのはありがたいけど、挨拶だのなんだのはめんどくさいなぁ」

「もうここまで話が大きくなってしまったんだ。諦めるしかないんじゃないかな?」

「そうだよねぇ。やっぱり来年までにウルスラに頼み込んで最低限のマナーくらいは教えてもらうかなぁ」

「それがいいだろうね。個人としてパーティに呼ばれるようなことになったら挨拶の仕方くらいは覚えておいたほうがいい。そうでないと、なんでこんな人間がとやっかまれる元になりかねない」

「うわぁ、さらにめんどくさそう」

「表だって何かを言う人間はいないだろう。曲がりなりにも宰相閣下の後ろ盾があるからね。ただ貴族社会での君の評判は落ちるだろうね」

「私は別に落ちても構わないんだけど、それでウルスラに迷惑がかかるかもしれないと思うとそうはいかないんだよなぁ」

「そうだね。公爵家と付き合いがあると言うのなら、それに見合った振る舞いというものがある。ウルスラ嬢じゃなくて本当にマナー教師を頼んだほうがいいんじゃないかい?」

「そうなったときにはルーファスに紹介してもらうよ。私だって友達が悪し様に言われるのは我慢ならない」

「なら早いほうがいいと思うけどな。僕が知っているマナー教師を紹介してあげるよ?」

「うーん……、今はウルスラに頼む方向で考えてみるよ。もしそれでも足りないようだったらお願いする」

「わかった。いつでも言ってくれ」

 マナー講師というと現代日本で謎マナーを広めて小金を稼ぐ胡散臭い連中としか思っていなかったが、まさかそんな相手に教わることになるかもしれないとは人生何が起きるかわからない。

「他に訊きたいことはあるかい?」

「ううん、もういいや。宰相閣下がどういう人なのかもわかったし、諦めるしかないこともわかったし、これ以上聞いてもあんまりいい話になりそうにないし」

「そう。じゃぁ君の研究についてちょっと聞きたいんだけどいいかい?」

「うん、いいよ」

 ルーファスは他人の研究を掠めて自分の手柄にするような人間ではない。

 それがわかっているし、研究テーマも違うから話したところで問題はない。

 尋ねられるままに答えているとルーファスは少し険しい顔になった。

「うーん……」

「何かおかしいことでもある?」

「いや、それはないんだけど人事部がどう評価するかなと思ってね」

「どういうこと?」

「研究発表が9月に行われることは知っているだろう? 人事部は研究職の異動の参考にするために研究発表には顔を出していいことになっているんだ。あんまり地味なテーマだと異動させられかねないかもしれないと思ってね」

「えー! せっかく研究職になったのにすぐ異動!? それはイヤだなぁ」

「まぁまだ1年目だし、そうそう異動はさせないとは思うけどね。でも2年目くらいは何か目新しいことでも見つけたほうがいいと思うよ。このまま地味なテーマを続けると、他の宮廷魔術師でもできる研究だと思われて異動させられかねない」

「頑張ります……」

「期待しているよ」

 エルは知らないが、ルーファスはきっともうすでに何かの着想を持っていると思っていた。ただ1年目だから地味なテーマを選んだだけで、来年も研究職であり続ければきっと革新派にとって有益な研究を見せてくれると信じていた。

 もちろんエルにだって反発力の魔術と言った革新派にふさわしい研究テーマはある。ただ1年目の実戦部隊は勤務態度不良、素行不良、人間関係最悪のコンボが決まったから異動させてもらえたと思っている。

 成果があまり芳しくないからと言って去年みたいに1年で異動させられることはないだろうと言う楽観的な読みもあった。

 ただ、このときには研究発表のせいで派閥の選択を迫られることになるとは夢にも思わなかった。


 反発力を利用した魔術でシェリーの村は干魃の被害を免れたようだった。

 この理論は今後研究発表で使おうと思っていたものだったが、シェリーの村はスーリオという街に近いと言っても山間の村でしかない。さらに理論が苦手なシェリーが反発力の魔術の使い方を誰かに言ったとしても、どういう仕組みで魔術が構成されているのかを理解できる魔術師はそう多くないだろう。

 だから多少漏れたところで心配はしていなかった。

 シェリーもエルのおかげで夏を乗り切れたと嬉しそうだったし、大事な親友であるシェリーの役に立てたのならエルも満足だった。

 8月に入り、大分涼しくなってきた時期。ウルスラとのお茶会も外の四阿ではなく、室内で行われることも増えてきた。

 シェリーもウルスラもエルと話すときは本当に楽しそうで、こんな素敵な笑顔が見られるのならば多少の厄介ごとくらい仕方がないと思えるくらい平穏な日々を過ごしていた。

 しかし、他の研究者たちはそうは行かない。

 来月になればいよいよ研究発表のときが迫っているので、その大詰めの作業に大忙しだった。

 エルはもう終わっているので優雅にお茶でも啜りながら暇を潰していたのだが、研究棟では爆発が起きたり、誰かの叫び声が聞こえたりと忙しなかった。

 そんな時間つぶしに頭を使う日々を過ごしていたエルは、今年の帰省はどうしようかと考えていた。

 研究職1年目だし、ウルスラのこともある。

 来年の春になればウルスラは社交界に公式にデビューすることになるし、そうなればエルのことも一躍有名になるだろう。そんなことに気を揉みながら帰省しても心が安まるかどうかも怪しかったので、帰省するかどうかを迷っていたのだった。

 年に1度は帰るとは言った手前、帰らないと家族が心配しかねない。だが、今年は色々な出来事があって気を揉んでいるから帰ってもそのことに気を取られて休暇らしい休暇にならないかもしれない。

 そう考えると手紙を送って今年は帰らない旨を伝えて帰省しない、と言う選択肢もありなのだ。

 今年の最初は研究発表が終わったら帰省しようと思っていたのだが、ウルスラと友達になったことでそれもぐらついていた。帰省すれば2ヶ月近くは王都を離れないといけないから、ウルスラも寂しがるだろう。帰省なのだからと諦めはつくかもしれないが、ようやくできたばかりの友達と2ヶ月も離れ離れになる寂しさのことを思うとウルスラが可哀想で帰りにくい。

 こういうとき、王都と故郷の村が遠いのは考え物だった。

 近ければ2週間程度王都を離れればすむのだが、片道3週間はかかるのだから1週間実家にいることにしても7週間王都を離れることになる。去年は部隊のことなどどうでもよかったからあっさり帰省することを決められたが、今年はそうはいかなさそうだった。

 今年帰省しなくても来年帰省すれば家族とはまた会える。

 しかしウルスラは来年憂鬱な社交界デビューを控えた身。きっと不安だろうし、エルに側にいてほしいと思っているに違いない。故郷の村は魔物も出ない平和な村だからよほどのことがない限り、事件など起きたりしないだろうし、そう考えると家族に会うのを1年先延ばしにしたところで大したことではないとも思う。

 幸いドリンでは貴重品だった紙も宮廷魔術師であればいくらでも使える。シェルザールにいた頃のように月に1回は手紙を書いていたが、もっと長い手紙を書いて事情を説明し、今年は帰省しないことに決めても問題なさそうに思えた。

 家族にはごめんなさいだけど、今年はウルスラを優先しよう。

 そう決めて今年は帰省しないことにした。

 そうと決まれば早速手紙を書いた。

 シェリーの村でのことやウルスラのことなどの事情を説明し、今年は帰省しないけど元気にやっていますと書いて送る。

 この世界の郵便はとにかく時間がかかるから、今書いても届くのは2ヶ月近く経ってからだろう。それでも書かないよりはマシだし、家族も事情を理解してくれれば今年帰ってこないことも納得してくれるだろう。

 そう思えば安心だったし、ウルスラも一緒にいる時間が増えて嬉しいと思ってくれるはずだ。

 だから今年は帰省しない。

 後は研究発表に向けて再度論文を確認するだけだ。

 ちなみに研究発表は実験場で3日間に渡って行われる。

 それだけ研究者の数が多いと言うことでもあるし、実験場で行うのは実技を伴う発表もあるからだった。日程は雨の日を考慮して5日間確保されている。この間にひとり約2時間の時間を与えられて研究発表を行うことになる。

 去年は遠征があったせいで研究発表が遅れたが、今年は実戦部隊以外の宮廷魔術師を動員するような大規模な遠征もなく、予定通り研究発表は行われそうだった。

 前世でのプログラマーとしての知識と経験を存分に活かした効率のよい治癒魔術の応用。

 むしろ2時間も時間が与えられてそれだけの時間が潰せるかどうか心配なくらい簡単に終わる研究発表だった。

 だが、今から別の研究に手を染める時間はない。

 来年は反発力を利用した大規模な魔術の可能性について研究しようと思いつつ、秋の日は過ぎていった。

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