第12話

 夏休みに入るまでの1ヶ月、穏やかな日々が続いていた。

 ……はずだったのだが、厄介な人物に目をつけられて辟易していた。

 クルスト先生だ。

 最初は個別講義の後にたまたま会って、「また勉強会があったらおいで」なんて言われて、「機会があれば」とにこやかに応じていたのだが、多いときで1週間に5回、少なくても3回は偶然を装って、「風のマナについてなら教えてあげるよ」とか、「お茶でも飲みに来てはどうかね?」などとしつこく誘われてはいったい何のためにこうもしつこく出会うようになったかくらいわかる。

 おそらくは前の勉強会で知った旋律のことでエルの教えを受けたいのだろう。

 あれは前世の記憶があるから気付いたことであって、説明するのには楽器の知識や音感が必要になる。シェルザールでの講義は現代日本の学校と違って、1日1単元、各属性のマナの講義に費やすから楽器のことなどほとんど知らない。おそらくは故郷で聞いた太鼓や笛、吟遊詩人の竪琴以外にも楽器はあるのだろうが、それの音色を知らない現状で、現代日本の楽器の知識を披露したところで不審がられるのはわかりきっているし、この世界での楽器の知識がないのでは旋律の重要性を説明することができない。

 最初は少し立ち話でもしていたのだが、そのうち鬱陶しくなってさも用事があるかのように振る舞って逃げるようになっていた。

 シェリーも「なんだかしつこいよねー」なんて言っていたし、実際しつこいのでシェリーにだけは「相手にしたくないから話を合わせて」とお願いして、偶然を装って会いでもしたら「シェリーと一緒にこの後大図書館に行くつもりなので」なんて言ったりして逃げていた。

 さすがにシェリーも相手が教師とあっては威嚇することもできず、エルの意を汲んで話を合わせて逆に「早く行こうよー」なんて急かしてくれたりして、クルスト先生から逃げる口実をくれたりしていたので助かっていた。

 だがそれも夏休みに入れば平穏が手に入る。まさかわざわざ寮にまで来て誘いに来ることはないだろうし、相手も研究者だから学生が夏休みの間は教鞭を執る必要がない。じっくりと研究できる期間なのだからクルスト先生ともそう簡単に会うことはないだろう。

 はっきり言ってストーカー並みの行動だったが、1ヶ月も会わなければほとぼりも冷めるだろう。

 その夏休みに入った初日はシェリーと一緒に街に出て遊びに行くことにしていた。

 休日にときどき遊びに出たりはしていたものの、無秩序に肥大化したドリンの街はとても広い。たった数日で遊び尽くせるほど甘くはないので、シェリーの方向感覚を頼りに、午前中から街に繰り出していた。

 だが、シェリーは少し元気がない。

 夏毛に生え替わって、--部屋の掃除が大変だったが--少しはマシになったとは行っても体毛の生えた亜人である。緑の少ない石造りの街では熱はこもりがちなので、いつものような元気がない。

 それでも興味を引かれた場所があればエルの手を引っ張って、目をキラキラさせて覗きに行くのだから、多少暑くても好奇心には勝てない、と言ったところだろう。

 エルは故郷より北にあって、むしろ涼しいくらいだったので快適な夏になりそうだったからよかったし、多少元気がないとは言ってもいつもよりほんの少しくらいなのでシェリーの心配もしていなかった。

 以前からお揃いの何かを買おうと言っていたこともあって、雑貨屋なんかを見つけると一緒に入って何かいいものがないかを探していたりしていたところ、ちょうど同じデザインのペンダントを見つけた。

 おそらくは恋人同士向けのペアだと思われたが、シェリーとならば一緒に買っても問題がない。

 シェリーにそれを見せるとあまりいい返事はなかったが、「お揃い」と言う言葉には尻尾が長ければ--シェリーの尻尾はボブテイルと呼ばれる短いものだった--激しく振っていたであろうと思えるくらい表情を明るくさせたので、即決してお揃いのペンダントを買った。

 昼食を屋台で買ったケバブのようなもので腹を満たし、数少ない公園で一休みしているところで、シェリーはお揃いのペンダントを取り出してはにやけている、なんてことを繰り返していた。

「えへへー、エルとお揃いー」

「もうっ、何回見たら気が済むのよ」

「何回でもー。エルとお揃いってだけで嬉しいんだもーん」

「しょうがない子ねぇ」

 半ば諦めたような顔をしつつも、実はエルも嬉しい。

 やっと見つけたお揃いのペンダント。きっと卒業して離れ離れになったとしても、これがあればシェリーと過ごした楽しい学校生活のことをいつでも思い出すことができるだろう。

 ん? 待てよ?

「ねぇ、シェリー、このペンダント、魔術具にできないかな?」

「魔術具? なんで?」

「ほら、風の魔術の講義で習ったじゃない。風の魔術には遠く離れた場所にいる人と話ができる魔術があるって。それをこのペンダントに付与すれば、もし卒業してももしかしたらどこにいてもシェリーと話すことができるようになるかもしれないわ」

「エル、あったまいー! やろうよやろうよー!」

「でも魔術具の製作なんて講義やるのかしら? もしかしたら2年生になればそんな講義もあるかもしれないわね」

「どっちでもいいよー。あたしが故郷に帰ってもエルと話ができるなんてすごいよー」

「できたら、の話よ。それにはまず魔術具について調べないと」

「古代魔術はもういいのー?」

「概説書はだいたい読んだからもういいわ。次は魔術具について調べてみるわ。もし本当にできるんだったら、卒業してもシェリーが側にいる感覚になれるわ」

「あたしもそっちのほうが嬉しい。もしエルが研究者とかになったら、役に立ちそうな魔術とか教えてもらえそうだしー」

「それもいいわね。実験場で試すより、実戦で試すほうが効果がわかりやすいもん。よーし、夏休みは魔術具について調べるぞー!」

「そういうのはエルに任せるよー」

「うん」

 夏休みの過ごし方についてなかなか有意義なテーマを見つけたと思った。

 魔術を何らかの物体に定着させるにはそれなりの技術と魔力が必要になるだろうことは想像に難くない。だが、それだけに逆に調べ甲斐のあるテーマだ。

 まずは風の魔術で遠くの人と話す魔術について調べて、実際にどれくらい離れていても話せるようになるのかなどを試して、それをペンダントに定着させるようにして……。

 あれこれ考えているとつい黙ってしまった。

 すると不意にペンダントを見てにやけていたシェリーがピクリと耳を動かした。

「ん? 仔猫の鳴き声がする」

「え? 何?」

「近くにか細い仔猫の泣いてる声がする。あっちだ!」

 シェリーは乱暴にペンダントを入れた箱を巾着に突っ込むと走り出した。慌ててエルもその後を追って公園を突っ切って、ドリンの街には珍しい公園の中に聳え立つ大きな木の前に立った。

 昼食時であまり人がいなかったことや、シェリーの亜人としての聴力がなければ気づけないほどか細い鳴き声が大きな木の上から聞こえてくるのがエルにもわかった。

「エル、ちょっとこれ持ってて」

 ペンダントの入った巾着をエルに放り投げて、シェリーはすいすいと木を登っていく。

「大丈夫ー?」

「これくらい全然平気ー」

 おそらくは子供の頃からこういう木登りはよくやっていたのだろう。木の引っかかる場所や、そういう場所がないときは爪を使って器用に登り、夏の太陽で茂った葉っぱの中に紛れる。

 少しして身軽にシェリーが飛び降りてきたと思ったら、腕にはアメリカンショートヘアのような体毛の少ない仔猫が抱かれていた。

「にゃー……」

「よーしよし、もう大丈夫だよー」

 シェリーが安心させるように喉元をくすぐってあげると仔猫は気持ちよさそうな鳴き声を上げる。

 よく見ると首輪がついていて、首輪には小さな木片がついていた。

「シェリー、首輪に何かついてる。ちょっと見せて」

「うん」

 仔猫の脇に手を入れ、仔猫をだらんとさせるとエルは首輪についた木片をよく見た。

 そこには短く、シュードル地区ハーマン家とだけ書かれていた。

「シュードル地区ハーマン家……?」

「何それ?」

「たぶんこの仔猫の飼い主の家じゃないかなぁ」

 野良の類いは多いけれど、こんなに毛並みも艶やかで、まるで血統書付きの猫のような綺麗な猫はなかなかいない。しかも首輪までついているし、ご丁寧に首輪には所有者らしき人物の家の名前まで書き込んである。

「どうするのー?」

「うーん、見たところ生後まだ数ヶ月ってくらいの仔猫だし、飼い主の家から抜け出して木に登ったはいいけど降りられなくなった、ってとこだろうね。でもシュードル地区ハーマン家だなんて情報が少なすぎる」

「それもそうだよね。シュードル地区っての自体知らないし」

「まぁでも、見つけちゃったものは仕方がない。誰かにこの情報でわかるか訊いてみて、わかったら届けてあげて、わからなかったら騎士団に預けて保護してもらおう」

「うん、そうだねー」

 一介の学生にできることなど少ない。いくら魔術学校の学生だとは言っても探偵ではないのだから、こんな飼い猫の主人捜しなんてことはできるはずがない。

 仔猫は可哀想だが騎士団で預かってもらって、飼い主が現れるのを待つしか手はないだろう。

 そう思ってダメ元で数人の道行く人や屋台のおじさんにシュードル地区ハーマン家というのを訊いてみると、屋台のおじさんがあっさり教えてくれた。

 曰く、「ドリンの街で商売をしてるならハーマン家を知らない者はいない」らしい。

 ドリンの街でもトップクラスの商人で、あらゆる商売に手を突っ込んで莫大な財産を築き上げた資産家らしい。シュードル地区というのもその全てがハーマン家の敷地になっているくらいのお金持ちらしく、下手な貴族よりも大きな屋敷にたくさんの使用人を雇って暮らしているという。聞けば早くに奥さんを亡くし、子供もいないため、たくさんの猫を飼っていて、ハーマン家と言えば猫屋敷としても有名らしい。

 そして何より驚いたのは屋台のおじさんが、「あんたたちは運がいい。その仔猫を届ければ謝礼に金貨1枚はもらえるだろう」と言ったことだった。

 金貨1枚と言えば、故郷の家族4人が3ヶ月冬の間暮らせる額である。この国は銅貨100枚で銀貨1枚、銀貨100枚で金貨1枚に換算されるが、故郷の村では春小麦で金貨1枚程度を稼ぎ、夏の間は野菜を作って細々と銅貨を稼いで食いつなぎ、秋小麦で金貨1枚を稼いで冬の機織りで小銭を稼いで暮らすのがごく普通の農村だからだ。

 おそらくシェリーのいた村ではもっと稼ぎは少なかっただろう。シェリーの話ではほとんど自給自足の生活をしていたらしいし、稼ぎはスーリオの街での日雇いの仕事をこなして少ない稼ぎを得て生活必需品を買っていたと言うのだから、貧しい村などでは金貨などお目にかかる機会など滅多にないだろう。

 いくらドリンが大きな街で、ハーマン家が豪商だと言ってもたかだか仔猫1匹である。保護して届けたくらいで金貨1枚とは大げさが過ぎる。

 だいたいシェルザールの寮暮らしで援助金銀貨5枚でさえ破格なのだ。紙やペン、インク、本など、勉強に必要なものは高価なものが多いから、学生であってもこれだけの援助金が出る。もちろんシェルザールは名門だから国の待遇も破格なのだが、他の魔術学校に通う学生であっても最低限の生活には困らない程度の援助金が出るのだから、仔猫1匹に金貨1枚というのがいかに馬鹿げているかがわかるだろう。

「エルー、どうするー?」

「金額はどうあれ、保護しちゃったものは仕方ないでしょう。この仔猫がいなくなってそのケント・ハーマンという人は困ってるかもしれないし、乗りかかった船だから届けてあげるのがいいでしょうね」

「じゃぁシュードル地区ってとこに行ってみようかー」

「うん」

 屋台のおじさんにシュードル地区への行き方を教えてもらい、シェリーの道案内で向かう。ちなみに仔猫はシェリーの頭の上で大人しくしている。公園でエルも抱かせてもらったのだが、すぐに仔猫が嫌がってシェリーの元に逃げてしまったのでエルが抱いていく、というのは諦めた。

 仔猫と言い、仔犬と言い、小さい動物はほぼ無条件に可愛いから懐いてくれれば悪い気はしないのだが、エルより助けてくれたシェリーに懐いているのだから仕方がない。

 シュードル地区まで歩いて15分ほどかかり、到着するなり、立て看板に「ここより私有地」の文字が書いてあった。屋台のおじさんが言ったとおり、シュードル地区そのものがハーマン家の敷地らしい。

 とは言ってもこちらには大義名分がある。勝手に入ってとにかく長い塀を眺めながら入り口らしき門でもないか歩いていくと、10分ほどして大きな格子の門を見つけた。

 どうやって中に入ればいいものかと思案していると、門の柱にボタンらしきものがあった。まさか呼び鈴のようなものがこの世界にあるとは思えなかったが、何らかの魔術具ならばその可能性もある。エルでは背伸びしてようやく届く高さにあったので、シェリーに頼んで押してもらうとしばらくして、黒いスーツ姿の老紳士が現れた。

「どちらさまでございましょうか? アポイントメントは?」

 丁寧な口調で老紳士はエルたちに尋ねてくる。

「あー、そのー、この頭に乗っかってる仔猫を拾って、首輪にハーマン家の名前が書いてあったので届けに来たんですけど」

「何ですと!?」

 老紳士は驚いた様子でシェリーの頭の上に乗っている仔猫を見る。

「首輪を検めても?」

「はい、どうぞ」

 シェリーに頷いて、シェリーは頭から仔猫を抱き下ろすと老紳士に格子越しに渡す。

 老紳士はどうやら首輪の木札を確かめているようで、それを確認すると安堵したように吐息をした。

「これはご丁寧に届けてくださりありがとうございます。先日の夜からこの子がいなくなって、使用人一同屋敷中を探しているところだったのです。この子はいったいどこで保護されたのですか?」

「イヤラク地区の公園です。大きな木の上に登って降りられなくなったところをこっちのワーキャットの女の子が助けたんです」

「それはそれは。この子を助けていただいてありがとうございます。是非とも屋敷にお上がりください。ご主人様もこの子が見つかって安堵されるでしょう。ささやかではありますが、お礼もさせていただきたく」

「いえ、それは結構です。ただほっとけなくて保護して届けに来ただけですから」

「そういうわけには参りません。せめてお茶のひとつでも飲んでゆっくりされてはいかがですか?」

 強硬に固辞するのも気が引けるし、金貨なんかではなく、お茶のひとつくらいなら大したことではない。お茶菓子のひとつでも食べて休憩してから帰っても問題はないだろう。

 シェリーにそれを伝えるとシェリーも異存はないようだったので、招きに応じることにした。

「では失礼してお邪魔させていただきます」

「それではこちらに」

 仔猫を大事に抱いた老紳士は門の格子を開けると、エルとシェリーのふたりを招き入れた。

 ケント・ハーマンの屋敷はとにかく大きかった。シェルザールの学生寮並みの大きさがあり、ドリンの街では珍しい木造の瀟洒な建物だった。ドリンの近くには豊富な石を産出する石切場があるから、ドリンの街では石造りが一般的で木造は高価とされる。それでもこれほどの大きさの建物を木造で建てるなんてどれだけのお金が必要になるのか想像もつかない。

 老紳士に招かれるままに屋敷に入り、広い応接室らしい一部屋に案内されるとシェリーとふたりしてふかふかのソファに座る。どこを見渡しても高価そうな調度品が並べられていて、迂闊に動いて壊しでもしたら目も当てられない。学生の身でこんな高そうな調度品を弁償するなど不可能だから、シェリーとともに大人しくしておく。

 しばらくして、使用人らしいメイド服を着た女性とともに恰幅のいい中年の男性が、保護した仔猫を抱いて現れた。

「おぉ、君たちがわたしの可愛い愛猫を助けてくれた子たちだね? わたしはケント・ハーマン。この屋敷の主だ」

 仔猫が無事見つかって嬉しいのだろう。満面の笑みを浮かべてケントはふたりに握手を求めてきた。

「エル・ギルフォードと言います」

「シェルタリテでーす」

「エルくんにシェルタリテくんだね。このたびは本当にありがとう。昨日からこの子の姿が見えなくなってとても心配していたんだ。まぁとにかく座ってお茶でも飲んでいくといい。おい」

「はい」

 横柄に使用人に目配せすると、若い使用人はお茶を3人分淹れて、ソファの前に置かれているテーブルの上に乗せた。ついでにケーキもふたり分用意されていたのでそれもテーブルに置かれる。

「さぁ遠慮はいらない。わたしの可愛い子供を保護してくれたお礼だ。我が家のシェフが作ったケーキだが味は保証するよ」

 まぁケーキくらいなら大したことはないだろう。シェリーに目配せすると、シェリーも頷いたので遠慮なくいただくことにする。

 ケーキを一口食べてそのおいしさにエルとシェリーは目を瞠った。季節の果物をふんだんに使ったタルトと言ったケーキだったが、程よい甘さに果物の甘み酸味がバランスが取れていてとてもおいしい。お茶もかなりの高級品なのだろう。立ち上る湯気からは芳醇な香りがしていて、いつも食堂で飲む、出がらしでただお湯に味がついただけのお茶とは全く違う。

 あまりのおいしさについ夢中になってペロリと平らげてしまった後になって恥ずかしくなってくる。もっとゆっくり味わって食べればよかったし、それに初めて会った人の前でお菓子に夢中になるなどはしたない。

 シェリーは大食漢なので足りなさそうだったが、それでもお代わりを要求するような恥ずかしい真似をするような分別のない子ではないので、ケーキを平らげてお茶を飲んで満足そうにしていた。

「いい食べっぷりだ。よほど気に入ったようだね」

「あ、はい。とてもおいしかったです」

「あたしもー」

「それはよかった。君たちはドリンの街の住人なのかね?」

「いえ、シェルザールに通う学生です。私もシェリーも田舎から出てきて今は寮暮らしです」

「ほぅ、シェルザールの学生か。それは優秀なのだな。やはり将来は研究者にでもなつつもりなのかい?」

「いえ、私は進路をまだ決めていません」

「あたしは故郷の村に帰って魔術師になるつもりでーす」

「なるほど。こうしてわたしの愛猫を保護してくれたのも何かの縁だ。何かわたしにできることがあれば遠慮なく言ってくれたまえ」

「いえ、ただ成り行きで仔猫を保護しただけなのでケーキとお茶をいただいただけで十分です。ね、シェリー?」

「え? あ、うん、はい、そうでーす」

「それではわたしの気が済まない。この子を含む兄弟たちは産まれて3ヶ月も経っていなくてね。とても可愛がっていたんだ。それが昨日この子がいなくなったとわかって気が気ではなかったんだよ。是非ともそのお礼をさせてもらいたい」

「でも……」

「では金貨5枚でどうだね?」

「5枚!?」

「おや、少なかったかね?」

 逆だ。多すぎる。

 たかが可愛がっている仔猫を保護しただけで金貨5枚なんて大金すぎる。

「ちち、違います! 多すぎるんです! それにシェルザールに暮らしていれば国から援助金が出ますからお金には困っていません! ねっ!? シェリー!?」

「う、うん、そうでーす」

「うーん、しかし何もなしではなぁ……」

 よほど猫を愛しているのか、ケントは引き下がってくれそうにない。

「そうだ、こうしよう。もし君たちが何か困ったことがあったら何でもひとつだけ願いを叶えてあげよう。こう見えてもわたしは顔が広い。お金でも人でも物でも、何でも望むものをあげようじゃないか。それなら君たちもゆっくりと考える時間ができる」

「でもそこまでしてもらうわけには……」

「いいんだよ。どうせ独り身のわたしには猫以外に可愛がる相手もいない。君たちのような将来有望な魔術師の力になれるのであれば、ドリンの街に住む者として当然の行為だろう」

 頑なに固辞するのも失礼だろう。それに願い事と言うことなら時間的猶予もあるし、何なら何もお願いせずにドリンを離れてそれっきりと言う選択肢も取れる。

「じゃぁ考える時間をいただけますか?」

「あぁ、いつでもいい。待っているよ」

 保護した猫を撫でながらケントは満足そうに頷いた。

 それからはシェルザールでの生活について1時間ほど会話をして、エルとシェリーはハーマン家の屋敷を後にした。


 寮に戻ってから部屋着に着替えるのも惜しいとばかりにワンピースのままベッドにダイブしたエルは深々と溜息をついた。

「なんかとんでもないことになっちゃったね、シェリー」

「そうだねー。たかが仔猫1匹に金貨5枚とか、目が飛び出るかと思ったよー」

「お金持ちの金銭感覚ってわからない……」

 前世ではオーディオ機器やアクセサリの何十万もかけていたが、生まれ変わって女として平凡な農村に15年生きてきたエルにとって、前世のときのような金銭感覚はもうない。

 だいたい29歳で死んで生まれ変わって、15年も過ぎれば前世での人生の半分をもうこの世界で女として生きてきたことになるのだ。もうこの世界の価値観や金銭感覚に染まり、唯一残っていることと言えばやはり男と結婚することなど不可能、と言うことくらいだ。

「でも願い事かぁ。シェリーは何かある?」

「あたしも今すぐには思い付かないなー。ここでの生活は快適だし、エルもいるし、勉強も楽しいし。それに村に帰ったらそれこそ昔のような村での生活が待ってるんだから、願い事だなんて言われても全然出てこないよー」

「そうだよねぇ。私は進路すら決まってないからどうなるかわかんないし、シェリーと一緒でここでの生活が満ち足りてるから願い事だなんて言われてもピンと来ないよ」

「いっそ、金貨5枚もらってさようなら、のほうがよかったかも?」

「逆にそっちのほうが早くに縁が切れてよかったかもね。もらったお金は半分くらい手元に残して、半分は家族に仕送りすれば家族の生活も楽になったかもしれないし」

「そうだねー。じゃぁまた街に出たときに寄って、やっぱりお金くださーい、って言いに行く?」

「それもなんだかお金に汚いみたいでイヤだなぁ。もらうならあのとき提案してくれたときにさっさともらっとけばよかったよ」

「それもそっかー。まぁでも、そのうちなんか他愛のないお願い事が出てくるかもしれないし、そうしたらお願いしに行こうよ。ちっさいことなら簡単だろうし、こっちもお願いしやすいと思うしねー」

「そうね。何かの拍子にぽろっと出てきて、お願いすることもあるかもしれないわね。猶予はもらったことだし、今は考えても仕方ないわよね」

「うんうん。それよりあたしは今日の晩ご飯のほうが気になるー」

「即物的ねぇ。でもそれは私も同意。夏休みに入っても帰省する学生のほうが少ないから、寮で3食食べられるのはありがたいわよね」

「そうそう。食堂のおばちゃんたちに感謝だよー」

「願い事よりそっちのほうが嬉しいわよね。お風呂も毎日沸かしてくれるし、寮で働く人のほうに感謝だわ」

「うんうん。よくわかんないお金持ちのおじさんより、身近に生活を支えてくれる人のほうが親近感があっていいもんねー」

「同感。--それにしても明日は何しようかなぁ。やっぱり早速大図書館に行って魔術具について調べてみようかな」

「おー、エル、やる気ー」

「当然。卒業したらシェリーともう二度と話せない、なんてことになるより、もしいつでも話ができることになったら嬉しいじゃない? シェリーは私の大事な親友なんだから会えなくなったとしても話ができるようになったら今までどおりの関係が続けられるんだから」

「あたしもエルとは離れたくないなー。でも村に帰るのは決定事項だから卒業したら離れ離れになっちゃうし。でも魔術具が実現したらそんな心配もしなくていいんだもんねー」

「そうそう。だから張り切って調べないと」

「じゃぁあたしは応援するねー」

「応援だけじゃなくってこれも勉強の一環だと思って一緒にやりなさいよね」

「難しいことはエルにお任せー」

「お昼と言い、今と言い、少しはぁ……他のことにも興味持ちなさい!」

 笑って枕を掴むとシェリーに投げつける。

 しかし身体能力の高いシェリーはあっさりと避けて、枕を返してきた。

「当てられるもんなら当ててもいいよー」

「その言葉、後悔させてやる!」

 こうして一方的な枕投げが始まったが、夕食の時間になるまでエルはシェリーに一度も枕を当てることができなかった。

 悔しい。

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