第1話

 各務達也29歳。職業フリープログラマー。

 小学生の頃からパソコンに慣れ親しんだことからプログラムに興味を持ち、小学校高学年の頃に自作した単純なパズルゲームが爆発的に人気が出て、一躍有名になる。

 これを知った親が本格的にプログラムの勉強をさせるようになってからめきめきと実力をつけ、コンテストなどでは天才少年として名を馳せた。

 これに気を良くした達也は手当たり次第のプログラムの勉強をして、そのほとんどをマスター。高校卒業後は大学にも専門学校にも行かずに大手IT企業の就職を勝ち取ったものの、営業が勝手に受けてくる無理な仕様変更や残業の日々に嫌気が差してたった2年で退職。

 その後はフリーのプログラマーとして活動するようになり、最初は苦労したものの、25歳を過ぎる頃にはその制作するアプリの出来の良さやコードの無駄のなさ、安定した動作性などからあっという間に業界では一目置かれるフリープログラマーとして、仕事を選り好みできるほどにまでなっていた。

 29歳になった今では年収はゆうに2000万円を超え、仕事に趣味にと人生を謳歌していた。

 今日もテキストエディタでコードを書いて、納期までに完成させられたことに満足しつつ、ノートパソコンを落とした。

 これからは趣味の時間だ。

 プログラム以外の趣味と言えば昔から音楽が好きで、J-POPからロックなどの歌もの、クラシックやジャズなどの声が入っていないものまで何でも聞く雑食だったが、それが高じて生粋のオーディオマニアになっていた。

 2LDKの防音の行き届いたマンションにはオーディオルームがあり、1台ゆうに100万は軽く超えるオーディオ機器が何台も置かれている有様で、生活費を除くほとんどをオーディオに費やすほどのマニアであった。

 今日書いたコードを明日走らせてみて、簡単な動作検証をすればいい。

 最近乱開発が行われているスマートフォンのゲームアプリのプログラムだったが、前評判は高く、事前登録はすでに100万人を超えるほどの期待作となっている。

 その分、納期は厳しめだったが、報酬はその分多く、今後はコードと実際に動かして動いたのを確認したアプリを渡し、デバッグなどはアプリ製作会社に任せて報酬を受け取ればいい。

 CDを専用のプレイヤーにセットして、何台もある中から選んだCDに合うアンプとスピーカーを選ぶ。

 1本10万を軽く超えるアクセサリを繋ぎ直して配線をチェックすれば、後は音楽に身を委ねていればいい。

 今回の報酬では一体何を買おうかと考えながら音楽に浸る。

 純A級プリメインアンプから流れる芳醇とも思える音色に酔いしれながら、明日はいつもオーディオアクセサリなどを買っているヨドバシカメラに行こうと考える。

 馴染みになったオーディオ専門の店員と話しながらこの前雑誌で見た1本20万以上するケーブルを買ってみるのもいいかもしれないと思う。

 人にはよく「そんなものに高い金をかけてバカじゃないのか?」と言われるが、これでも音感には自信がある。ケーブルの違いによって、クラシックならクラシックに合った、ポップスならポップスに合った種類と言うものがあると達也は確信している。

 いい音でいい音楽を聞くためならば誰になんと言われようとこの趣味を辞めるつもりはさらさらなかった。

 夢は完全防音の施された一軒家で、オーディオ専用の電柱を立てて、あらゆるノイズ対策を施した自分だけのオーディオルームを作ることだった。

 もちろん、そのための貯金もそれなりにしてある。

 生活費以外をほとんどオーディオに費やしてはいるが、このための貯金も将来の充実したオーディオライフのためである。

 それがあんなことになろうとは夢にも思わなかった。

 仕事を終えて趣味に没頭し、就寝してから翌日、ヨドバシカメラに向かい、馴染みの店員と話した帰り、暴走したトラックに轢かれて即死とは運が悪い。

 夢のオーディオライフもまさに夢に終わり、今後はどうなるのかと思いきや、気付いてみたらまだ若い女性の声に意識が覚醒した。

「はいはい、今お乳をあげますからね」

 は?

 どうやら達也は泣いているらしい。

 甲高い泣き声が耳に入ってくる。

 程なくして口元に何かが差し込まれ、そこから生暖かい液体がゆっくりと出てくる。

 生臭いとも思えるくらいの液体にびっくりしたが、身体は何故かそれを求めて嚥下していく。

 それを飲み終えて満足したのか、今度は猛烈な眠気が襲ってきてうとうとしてしまう。

「お腹いっぱいになって眠くなったのね。よーしよし」

 軽く背中を叩かれながらうとうとしているとゲップが出て、次第に眠気はマックスになってそのまま意識はなくなった。

 夢の中で両親や妹が泣いている姿が見えた。

 これは何なのだろうかと思いつつも、夢は夢、すぐに消えては次々と別の場面を映し出していく。馴染みの店員、同じフリーで仲良くしていた友人、取引先の営業などなど。映し出される光景は様々で、確か自分は死んだはずではと思った。

 だが、現実に意識はあるし、夢も見ている。

 眠っている身体には心臓の鼓動がはっきりと感じられるし、呼吸だってしている。

 どうなっているのかと思う間もなく、夢は消え去り、意識は睡魔に取って代わられる。

 次に目を覚ましたときに真っ先に見たのは赤毛の妙齢の女性だった。

「あら、起きたのね、エル。お腹は空いていない? おしめは……濡れていないわね。もうすぐお父さんも帰ってくるから少し待っていてね」

 優しい声音で言われて、辺りを見渡す。

 達也は何か小さなカゴのようなものに、ゴワゴワとしたシーツのようなものに寝かされているようだった。身体を動かそうとしても満足に動かせない。手足を動かしてみて、不意に目に入った手に我が目を疑った。

 小さい。

 まるで赤ん坊の手のようだった。

 ぷっくりと丸くて爪も満足に揃っていない未熟な手。

 唖然として声を出そうと試みた途端、「あー」や「うー」以外の声が出せないことに気が付いた。

 天才と称された頭脳が現状を把握しようと試みる。

 つまり、今自分の身体は赤ん坊になっていて、満足に声を出すこともできない状態なのではないかと。

 そして寝る前に飲んだ液体は今し方話しかけてくれた女性の母乳ではないか。

 信じられないことだが、どう考えても達也は赤ん坊に生まれ変わっている、と言うことになる。

 生まれ変わりなんて信じたことはなかったが、達也としての記憶と知識がそうとしか考えられないと結論付けている。

「あー」

「はいはい、どうしたの? エル。おしめでも濡れたの?」

 違う、そうじゃない。

 そう言いたくても言葉にならないのだから伝わるわけがない。

 しかし女性は優しく達也の身体を抱き上げるとお尻のほうを触ってきた。おそらくおしめが濡れているかどうかを確認しているのだろう。

「濡れてはいないようね。今、晩ご飯の準備をしているところだからもう少し大人しくしておいてね」

 そう言われて再びシーツの上に寝かされる。

 言葉も話せない、満足に歩くことすらできないではどうしようもない。

 しかもエルとは達也のことだろう。どこか外国の赤ん坊に意識だけ乗り移ってしまったような感覚に戸惑うしかなかった。しかも見る限り、女性の着ている服は現代日本ではまずコスプレ以外では見られそうにない粗末なワンピースを、腰紐で縛っているだけの簡素なものだった。

 どこか貧しい外国のどこかの国の赤ん坊になってしまったのかと嘆きたくなったが、今更嘆いたところで仕方がない。幸い記憶と知識は現代日本の達也のものをそのままそっくり受け継いでいるのだから、ここがどこかの国であっても同じプログラマーとして成り上がることは可能だ。

 それまでは生きて、夢のオーディオライフを手に入れることを考えたほうが建設的だ。

 そうと決まれば今はとにかく成長するのが最優先だ。

 幸いにも中身は29歳の男なのだから言葉は喋れなくても状況を訴えることはできる。

 お腹が空いた。おしめが濡れた。眠たいなどなど。

 赤ん坊が唯一取れる欲求を素直に伝え、成長しなければプログラマーとして成り上がることもできない。そして夢のオーディオライフに向けた一歩は、とにかく早く成長して早くに頭角を現し、日本でもアメリカでもヨーロッパでもいいから先進国へ旅立つことだ。

 そう目標が決まれば今はやることがない。

 食欲は寝る前に母乳を飲んだからいらないし、睡眠欲もついさっきまで寝ていたから眠くない。不快なおしめの感触もないから取り替えてもらう必要もない。女性は晩ご飯の準備と言っていたから今は大人しくしているときだ。

 退屈極まりなかったが、それでも近くで聞こえる食事を準備する音と女性の鼻歌は心地よかったのでいつしか眠りについていた。


 おそらく1ヶ月くらいの間、母親であるアンナと父親であるクレイの会話に耳を澄ませたこと、そして身体的な違和感から達也はふたつの絶望を味わった。

 一つ目は生まれ変わった身体が女のものだったからだ。

 尿意を催してそのまま垂れ流すときに、生まれ変わる前に感じた股間の感覚がなかったからだ。

 それとアンナとクレイの会話からも「女の子はこんなに手のかからないものなのかしら?」と言う言葉からも、自分の性別が女であることがわかった。

 もしイスラム圏の国ならば女性の地位はとても低い。

 いくら学力と技術があったとしても成り上がるのは相当難しいだろう。

 だが、これはすぐに氷解した。

 両親が食事のときに食べる前に祈りを捧げるのだが、そのときに豊穣の女神フェルネラと言う神に祈りを捧げていたからだ。もしイスラム圏の国ならばアッラーになるだろうし、詳しくは知らないが祈りの捧げ方も違うだろう。

 世界には様々な宗教があり、様々な神話もある。聞いたことのない名前の神だったとしても不思議はないので、ムスリムという線は消えた。

 しかし、その後の会話でどうも雲行きが怪しくなってきた。

 この国はトライオ王国という名前の国で、ここはその宿場町に近い農村であることがわかった。クレイは主に小麦を栽培して暮らす農民で、日々の糧は小麦の他に育てている野菜を宿場町に卸して生計を立てている身だった。

 アンナは専業主婦。もちろん、手が足りないときはクレイの手伝いをすることもままあるが、基本的には家にいて家事をするのが仕事らしい。特に今は達也--エル・ギルフォードと言う赤ん坊がいるので、その世話のために家にいることのほうが多い。

 そして会話の端々から伺える内容からは、ここが現代ではない、と言うことだった。

 トライオ王国という名前の国があることを知らないのはどこかの小国だったならば、知らなくても無理はないと思えたが、野菜を運ぶのに馬車だの、隣国セントレアとの小競り合いだの、行商人の減少だの、自警団の活動がどうのだのと、とてもではないが、現代とは思えない単語が次々と出てくるからだった。

 いくら貧乏な小国とは言っても、現代であれば電化製品のひとつでもあってよさそうなのに、それすらも使っている形跡はないし、食事の準備をするときに背負われているときに見た火力は竈だった。

 アフリカ諸国の貧しい国ならばこれくらいの国もないわけではないだろうが、アンナもクレイも黒人とは違って明らかな白人の肌の色をしていたし、髪の色もアンナは赤毛、クレイは栗毛だった。

 あまり考えたくはなかったことだったが、ここは現代日本で流行っていた小説に出てくる、いわゆる『異世界』と言うのではないかと思えた。

 いかにもな中世ファンタジー風の生活様式に国の名前、知らない神の名前、貧しいアフリカ諸国でさえ普及している携帯電話もない生活などなど。

 電化製品がないと言うことは、もちろんオーディオ機器なんて文明の利器もない。

 現代ならばどうにかして先進国に潜り込んでそこで金を稼ぎ、夢にまで見たオーディオライフを送ることだって可能だと言うのに、そもそも電化製品がないのであれば夢のオーディオライフなんてまさに夢でしかない。

 ここで達也は二度目の絶望を味わった。

 よりにもよって生まれ変わった先が電化製品ひとつ存在しない異世界だとは露ほども思わなかったからだ。

 それでも赤ん坊の身体は生きていて、腹は減るし、眠くもなる。おしめが汚れたら不快になって泣いて換えてもらう。

 一時は生きる目的さえ見失ったところだったが、慣れとは恐ろしいもので、年を経るに連れて女の身体にも慣れてきたし、立ち上がって歩く頃には早くも絵本などで暇つぶしをするようになった。

 瞬く間には3年が過ぎ、もうこの年には家にある絵本は読破し、隣近所から借りてきた絵本も全て読み終えて文字の読み書きはできるようになっていたし、たどたどしいながらも両親と意思の疎通ができるようにまでなっていた。

 両親は「なんて早熟な子なんだ」と感心していたが、曲がりなりにも高卒の学力と天才と呼ばれたプログラマーの知識と技術の前にあっては文字の読み書きなんてものは朝飯前だった。

 そうして夢が潰えた達也には新しい夢が必要だった。

 でなければ生きる目的がない。

 女の身体に生まれ変わったと言うことは、このままこの家で過ごせば農民になり、そのうち夫を迎えてアンナのように母親として生きなければならない。

 元々が男である達也にとって、男と結婚するなど考えられない。

 ならばとにかくこの世界のことを知らなければ生きる目的を見つけることもできない。

 そう考えてからはとにかく本を読み、村長や古老と言った年長者に色々とこの世界のことを聞いて回った。

 ここトライオ王国はクジェナ大陸と言うこの世界で一番大きな大陸の中心に位置する大国である、と言うことだった。周辺国は半数が属国で安定した治世を敷いているが、敵対する国とは--例えばセントレアのような国とは--度々辺境で小競り合いを起こすことも多々あると言う。

 気候は寒冷でどちらかというと乾燥している地中海気候に近く、夏は暑くはなるが日本の夏のようにジメジメとした不愉快な暑さではなく、カラッとした夏で、冬は根雪が残るくらい雪が降る。

 春から秋にかけては小麦と野菜を中心に農作物を育てて、一番近い宿場町であるオレットに卸し、冬は主に男たちは狩猟に出かけ、女たちは機織りをして生計を立てる。

 ジャーナと言うエルが暮らす農村は標準的な農村で、春から秋は農作業、冬は狩猟と家仕事と言ういかにもどこにでもあるようなファンタジー世界の農村だった。

 そしてトライオ王国が大国としてその地位を維持できている最大の理由が、「魔術」だった。

 ジャーナには人間しかいないが、この世界にはいわゆる亜人と呼ばれる人種も数多く存在しており、大きな街に行けばそれこそ普通に街中を闊歩していると言う。

 そうした亜人を含めてどんなに弱くても魔力を持って生まれた子は、魔術師として生きる道を与えられる。

 聞いた話だが、何故ここまで魔術が重用されているかと言うと、最も基礎的な治癒魔術さえ使えれば、簡単な怪我や病気などは治せるので治療院を開いてどんな小さな村ででも生活できるからだった。

 そして高い魔力を有する者には宮廷魔術師と言った重要な役職や研究職、冒険者、軍隊など幅広く活躍できる場所が用意されていた。

 国を挙げて魔術を奨励しているトライオ王国は、この魔術師への好待遇によって大陸の中心という四面楚歌の状態に置かれていても大国の地位を守っていられるのだった。

 もちろん、ジャーナにも魔術師はいた。村で唯一の治療院を開いているセレナと言う女性だった。独身を貫き、村で怪我人が出たと聞けば駆けつけ、病気の者がいると聞けば駆けつける心優しい初老の女性だった。

 男と結婚するなんてまっぴらごめんだったエルは、セレナのような生き方ができれば一生独身を貫いても生活には困らないし、もし高い魔力を有しているのであれば研究職なんかでもいい。魔術がどういう原理で成り立っているのかは知らないが、プログラマーとしての応用力があればどんな役職でもこなしてみせる自信があった。

 そこで4歳になった頃にはセレナの元を訪れ、自分に魔術の才能があるかどうかの確認をしてもらった。

 もちろん、確認と言っても簡単な魔術で魔力があるかどうかを試すだけのものでしかなかったが、ここで魔力があるとわかれば可能性は広がってくる。

 もちろん、僅か4歳になったばかりのエルが魔力があるかどうか確認してくれと言ってきたことにセレナはとても驚いたようだったが、心優しいセレナは幼いエルの頼みを快く聞いてくれて簡単な魔術を試させてくれた。

 それは治癒魔術よりも簡単で、魔力の有無を確認するのによく用いられると言う火の魔術だった。これを燭台の蝋燭に火を灯すと言う魔術をかけて、その魔力の有無を確認するのだ。

 そうして果たして結果は……。

「まぁまぁ」

 セレナはとても驚いた様子で口元を手で覆った。

 教えてもらった呪文をたどたどしく唱えて、目当ての蝋燭に火が灯ったからだった。

「セレナおばさん!」

「えぇ、これでエルも魔力があるとわかったわね。でも私じゃこれ以上の魔力の測定はできないからオレット……でもダメね。もっと大きな街に行って、そこでどれくらいの魔力があるか計ってもらわないとわからないわ。それに成長したら魔力も成長することだってある。でもまだエルは4歳の子供。まずは私が教えられる魔術の基礎を学んだほうがいいわ」

「うん、わかった」

 今はとりあえず魔力があるとわかっただけでも十分だ。

 これでセレナのように魔術師として生きていける目標ができた。

 今はそれで満足だった。


 4歳の子供が魔術を習いたいと言うことを両親は反対した。

 どうしてかを聞くと、まだ早いと言うのがその理由だった。

 子供とは言ってもこんな農村では6歳になる頃には立派な働き手として家業の手伝いをするのが普通だから、せめて5歳になるまで待ちなさい、と言うのが両親の弁だった。

 結婚するのはイヤだから独身でも食うに困らない魔術師を目指す、と言う目標の出鼻を挫かれた格好になったわけだが、それでも1年くらいなら我慢できた。

 晴れて年が明けて数えで5歳になってから、すぐにセレナの元へ行き、魔術の勉強を始めることにした。

 まだ小さい子供が魔術の勉強を始めることに両親はやはりまだいい顔はしなかったが、エルの強い希望もあってセレナの元へ通うことだけは許してもらえた。

 そうしてセレナの治療院で魔術だけではなく、薬草学なども含めた治療院での活動を学ぶことになったエルは、1年を過ぎて6歳になる頃には立派なセレナの助手として務まるようになっていた。

 当然と言えば当然で、見た目は小さな6歳の女の子でも中身は29歳の男なのだから、柔らかい子供の頭脳と現代日本で培ったプログラマーとしての知識と技術をもってすればこれくらい造作もないことだった。

 もちろん、治療院での活動だけがエルの全てではなかった。

 家事や農作業の手伝い、村の子供たちとの遊びなど、あまり乗り気ではなかったが、たった6歳の子供がただひたすらに魔術の勉強に打ち込むのは不自然だ。セレナも忙しくないときはそうした家の手伝いなどを奨励するように仕向けていたから、村での生活は円満なものになっていた。

 6歳になってからの秋。

 2度目の小麦の収穫が終わり、これからは冬支度に向けて収穫祭や機織りの準備などに追われる日々が村では繰り広げられる。

 収穫祭では豊穣の女神フェルネラに今年の実りを感謝し、来年の豊かな実りと冬の間の安寧な生活を祈る重要な祭りとして位置づけられている。それと同時に年に1度の贅沢である仔牛を1頭丸々解体し、村のみんなに振る舞う重要なお祭り騒ぎができる日とあって、村は不思議な高揚感に包まれていた。

 そんな準備に村人たちが勤しんでいるある日のこと。

 祭りで振る舞われる料理のために狩りに出掛けていた男たちの一団が、近隣にある山から慌てて下りてきた。

「セレナ! セレナはいないのか!?」

 村に到着するなりそう怒号のような大声で叫ぶ声が聞こえて、セレナの元で魔術の練習をしていたエルは何事かと椅子を持ち出して窓から外を見渡した。

 セレナも治療院のドアを開けて外に飛び出し、声のするほうを見た。

 それを見た村人が伝言ゲームのようにセレナの居場所を大声の主の元へ届け、そうして男たちが治療院のほうへやってきた。

 その緊迫した様子を訝しむ暇もなく、治療院の前で下ろされた若い男性を見てエルもセレナも息を呑んだ。

 夕暮れの地面に下ろされた若い男性の背中には大きな爪痕があり、そこから絶えず血が流れていたからだった。

「どうしたのですか、いったい」

「どうしたもこうしたもねぇ。狩りの途中で運悪く熊に出くわしちまってよ。逃げ遅れたアレンがこうだ」

 確かに背中には大型の獣のものと思える爪痕が残されていて、衣服もそこだけばっさりと切り裂かれている。そこから血が流れ出し、アレンと呼ばれた若い男性は荒い息で苦しそうにしている。

「とにかく治療をしましょう。エル、薬草を持ってきてくれる?」

「はい!」

 傷を見たセレナの行動は迅速だった。

 爪痕から破れた衣服を切り裂き、エルがもうどこに置いてあるのか把握している薬草を持ってくるなり、それを傷跡に塗りつけ、治癒魔術の詠唱を始めた。

 薬草を塗るのは効果の補完のためだが、あるとないとではセレナくらいの魔術師では傷の治りが違うのである。

 ぽわりとセレナの掌から水色の光が溢れ、アレンの傷口に吸い込まれていく。苦しそうに呻き声を上げるアレンに構わず、エルもセレナの補佐をするために傷口に薬草を塗っていく。

 5分10分と経過していくとともに血の流れは幾分か穏やかになったものの、傷口は相当深いらしく、血が止まる気配がない。

 冷涼な気候のため、収穫祭の時期になるともう大分寒くなるのだが、セレナの額には大粒の汗が噴き出ていた。

 苦しそうに呻くアレンは息も絶え絶えな様子で、セレナの必死の治癒魔術だけでは収まりそうになかった。

「セレナおばさん! 私もやる!」

「でもエル、あなたはまだ……」

「ひとりなら無理でもセレナおばさんと一緒なら何とかなるかもしれない!」

 練習中の身とは言え、これでも治癒魔術の心得はあるのだ。ひとりでやるよりふたりでやったほうがアレンが助かる見込みは高い。

 セレナは逡巡したものの、自分の魔力だけでは心許ないことを悟ったのだろう。エルの顔を見上げて真剣な表情で頷いた。

「じゃぁ一緒にやりましょう」

「はいっ」

 エルはセレナの反対側に座ってアレンの傷口の上に掌をかざす。

 そしてたどたどしい調子で治癒魔術の詠唱を始めた。

「生命溢れる水のマナよ、その命の輝きをもって彼の者の傷を癒やしたまえ……、ヒール!」

 詠唱が終わると同時にエルの掌に水色の光が溢れ、アレンの傷口に吸い込まれていく。

 不安定に明滅を繰り返す光だったが、少しでもセレナの助けになれば十分だ。

 経験も実績もあるセレナと違い、エルは魔術を習い始めてまだ1年の子供だ。その子供がどれだけの助けになるのかは誰にもわからない。ハラハラと見守る男たちの中、集中力を研ぎ澄まして大気中に溢れるマナを集めるイメージと、それを魔力に変換するイメージ、そして治癒魔術の力へと変えていくイメージで治療に当たる。

 すると次第にアレンの傷口から流れる血が少なくなり始め、ぱっくりと開いていた傷口も徐々にではあるが塞ぎ始めた。

「エル、あともう少しよ。もう少し頑張って……!」

「は…い……」

 ここで集中力を切らしたら元の木阿弥になりかねない。エルは全神経を治癒魔術に集中させ、思考をイメージで塗り固めた。

 そうして30分ほど経った頃だろうか。

 アレンの傷口から血が止まり、傷跡は残ったものの傷も塞がり、呼吸も落ち着いたものになってきた。

「おぉ……!」

 誰かが感嘆の声を上げた気がしたが、それも遠くから聞こえてくるようだった。

 そうしてアレンの治癒が終わったのとほぼ同時に、ほっとした様子のセレナの声が聞こえた。

「エル、もう大丈夫よ。アレンの傷は塞がったわ」

「そう…ですか……」

 労るようなセレナの声を聞いた瞬間、エルはそのままその場に倒れ込んだ。


 収穫祭で賑わっている村の広場の片隅で、エルは空になった仔牛のシチューの皿を持って、ダンスに興じる男女を眺めていた。老いも若きも夫婦や恋人、友達同士と手を取り合って踊っている様子は祭りにふさわしい光景だった。

 アレンの一件があってから、エルの村での立ち位置は少し変わっていた。

 まだまだ小さな子供と思われていたエルがセレナとともにアレンの命を救ったと言う事実はそれだけ大きなものだった。

 気を失ってしまったのは、過度な集中力と疲労のせいだと言うことで両親も心配していたがセレナが「加減のわからないうちはよくあること」と説明してくれたおかげで、事なきを得ていた。

 その両親も実績を作ったことで魔術師への理解を深めてくれて、セレナのところに行くときも快く送り出してくれるようになっていた。もちろん、両親としてはこのまま村に残ってセレナの治療院を継いでくれることを願っているのだろうが、魔力は身体の成長とともに成長する可能性の高いものであるため、このまま村の魔術師として終わるつもりはさらさらなかった。

 とにかく魔術師になってしまえさえすれば色んな道が拓けている。

 その可能性を捨ててまで村に留まるつもりはない。

「お? エルじゃないか。どうした、こんなところで黄昏れて。踊らないのか?」

「アレンさん」

「おまえと踊りたいヤツなんていくらでもいるだろう? どうして混ざらないんだ?」

「もう取っかえ引っかえで踊って疲れたので休んでいるところですよ」

 嘘だ。

 達也だった頃も2年間会社勤めをしたものの、歓送迎会や忘年会、果ては納涼会などなど、騒がしい席にほとんど強制参加させられるのがイヤだったのも一因でフリープログラマーになったのだから、見ている分にはいいものの、加わるのは極力避けたかった。

 アレンを見上げるとすっかりよくなったようで、月明かりと随所に立てられた篝火から見る顔色は他の元気な成人男性と変わらないように見える。

「アレンさんはあれからどうですか? 具合が悪くなったりしてませんか?」

「すっかり元通りさ。セレナとおまえのおかげだな。セレナもおまえがいなかったら危なかったかもしれないとあの後言っていたよ」

「そうですか。少しでも役に立ったのならやった甲斐があったと言うものです」

「謙遜するなよ。その歳であれだけの治癒魔術が使えたんだ。もっと誇ってもいいんだぞ?」

「まだまだですよ。終わったら倒れちゃいましたし、基礎中の基礎の治癒魔術であんなていたらくなんですから、これからまだまだ勉強あるのみです」

「頑張りな。でも、もしかしたらおまえはこの村に留まっておくにはもったいない魔術師になるかもしれないな」

「本当ですか?」

「セレナもおまえくらいの歳ではあれだけの治癒魔術は使えなかっただろうと言っていた。今はまだ不安定なところはあるが、勉強を続けていれば王都でも通用する魔術師になるんじゃないかと褒めていたぞ」

「またまた。セレナおばさんも大げさな」

 一応謙遜はしてみせたものの、王都でも通用するとなれば可能性はもっと広がってくる。

 待てよ?

 確か噂で聞いたことがあるが、この手の異世界転生の話にはよくチートと呼ばれる特殊な能力がついて回るのが定番だったはず。そうなると自分の魔力は国内でもトップクラスのものである可能性が非常に高い。

 そうなると地道な研究職や雇われ魔術師になんかならずに、王都で宮廷魔術師のトップを目指すのも面白いかもしれない。

 会社勤めで使われるのに嫌気は差したが逆の立場ならば面白いかもしれない。

 この国での魔術師の地位は高い。

 その中でもトップクラスの魔力を持っているとなれば椅子にふんぞり返って他人を顎でこき使うことだって可能なのだ。

 自分は指示を出すだけで悠々自適の生活を送るなんて素晴らしいではないか。オーディオライフと言う夢が潰えた今となっては魔術師としてトップを目指すのも悪くない。一生独り身でも文句を言われず、自分の手は汚さず他人を使って人生を満喫する。

 それはそれで悪くない人生だ。

「えへ…えへへ……」

「ど、どうした、気味の悪い笑い方をして」

「はっ! な、何でもありません! それよりアレンさんも踊りに行かなくていいんですか?」

「それもそうだな。エルはどうするんだ?」

「お腹が落ち着くまでもう少しここでゆっくりしていきます」

「そうか。じゃぁまたな」

「はい」

 にこやかに返事をするとアレンは踊りの輪のほうへと向かっていった。

 チート。

 実際に読んだことはないが、現代日本ではその手の小説やアニメが流行っていたことくらいは知っている。もしそんな能力が生まれ変わって備わっているのだとすれば、今後の人生は順風満帆だろう。

 こういうのもいい、ああいうのもいいと考えを巡らせていると踊りの輪に加わることも忘れてその場で考えに耽ってしまっていた。

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