四章 王子と踊り子

10 ミューの決意

 ソラリスとの再会から半月が経った。


 ソラリスは式典後や空いている時間にまめに宮殿に顔を出し、寝食を共にすることも増えた。再会の戸惑いもどこへやら、同じ部屋でくつろいだ猫のようにごろごろしている姿も今ではすっかり見慣れたものとなっている。


 ミューの気持ちの整理はまだついていない。戻りたいと思い始めているのは確かだが、舞台で彼のように振る舞えるかというと自信がなかった。それに、ソラリスの動向もやはり心配だ。元に戻るということは、ソラリスとの離別を意味する。ミューがもう関与できなくなってしまった後に、彼がまた危険を冒すのではと思うとやりきれない気持ちにもなり、結局は堂々巡りだ。


 優柔不断なミューの葛藤を示すかのように、ソラリスの言う帰巣本能も未だ発動することはない。レムが王宮に戻った様子もなく、一言でいえば、事態は変わらず膠着していた。


 ソラリス自身は、煮え切らないミューにも進展しない状況にも焦れた様子は特になく、機嫌よく毎日を過ごしてくれている。のんきなのか器が大きいのかは不明だが、怒られるのもイライラをぶつけられるのも勘弁いただきたいミューとしてはありがたい。例えば、この男ように。


「今日からしばらく式典には俺が出る」


 ソラリスが宮殿に入り浸る時間に比例して、リカルドの不機嫌さも増している。


 朝っぱらからその不機嫌を隠しもせずに告げられた言葉に、食後の茶を啜っていたミューは大きく瞬いた。


「……え? なんで? いいの?」

「ここから先は代理が許される。最後の最後、レム殿下ご本人が出席する即位式にさえ出ればいい。お偉方もそこまで暇じゃない」

「ああ、なるほど」


 さすがに二ヶ月も領地や仕事を放ってはおけないということだろう。どうりで昨日の舞台は華やかだったはずだ。里へ戻る族長らの見送りを兼ねていたということか。


「じゃあ私は久しぶりにのんびりでき——」

「だからお前は里へ視察へいけ」

「え⁉︎ 里⁉︎」


 期待したのも束の間、思ってもない指示にぎょっとする。


「……里って、〈兎〉の里だよね……? 私が行くの? 行っていいの?」

「もう恩赦は受けているし、王城を出るなと命令はされてない。行け」


 気が進まないことをありありと示すミューに対する返答はにべもない。


「エファルを供につける。レム殿下の護衛にもさっき話をしておいた」

「……いいって言ってたの?」

「ぐうとかむにゃとか言ってたから平気だろう」


 それは確実に寝ぼけているだろう。


「とにかく行け。……行って見てこい。お前の民を」


 射殺すような目で睨まれては、行きたくないとはとても言えない。

 しぶしぶ頷いたミューは、そこでふと気が付いた。


「あ、でもちょっと待って、ソ……ミューにも、行っていいか聞いてみるから」

「混血女になにを聞くんだなんの許可を得ようとしてるんだお前は! 腑抜けるのも大概にしろぶん殴るぞ!」


 抑えていた怒りを爆発させたかのように怒鳴り出したリカルドの声を聞きつけ、エファルが顔を覗かせる。


「馬車は用意してあるからとっとと行け! 連れていけエファル!」

「リカルド君に命令されるとむかつくなぁ。お願いしてくださいよ、もう」


 口を尖らせつつも、旅装となったエファルは指示に逆らうつもりはないようだった。


「じゃあ、これ以上怒鳴ってリカルド君の声帯と私たちの鼓膜が壊れる前に出発しましょうかぁ、ソルちゃん」

「う、うん……」


 促す彼女にはどうしてか、いつものふわふわとした春の日差しのような雰囲気が薄い。


 瞳を翳らすエファルに不安を覚えながらも、ミューは、差し出された小さな手をとった。




□□□


 半日ほど街道を走り、馬車は一つの街の前で止まった。

 壁に囲まれた門を馬車の窓からそっと見上げる。ここが〈兎〉の里の入口らしい。


 七部族はそれぞれに領地を持ち、そこで暮らすことを定められている。七部族が交流を持つのは王城でのみで、通常の民は他部族と交わることはない。定住を許されない混血民はそれぞれの里の行き来を黙認されているが、純血種がそれをしようと思うなら全ての権利を放棄することになる。よっぽどの変わり者以外、そうする者はいなかった。


 ミュー自身、一座に属する者としていくつかの里を渡ってきたが、〈兎〉の里に入るのは初めてだった。どうしてだったか考えるが、衛兵が開いた門の中に入れば、理由はすぐに察せられた。


(お金の匂いには敏感だもんねぇ、カンナは)


 芸人も商人も豊かな場所に集まるものだ。


 立国以来、王子に恵まれたことのなかった——施政者に回ることのなかった〈兎〉の里の街並みは、よく言えばのどかな、悪く言えば殺風景なものだった。


 高い建物や立ち並ぶ商店などは見当たらず、必要最低限のものだけが有るといった寒々とした風情である。街門から通じる、一応は目抜き通りと思われる町筋にすら賑やかさはない。人通り自体が少ないせいかもしれないが、どこかうらぶれた印象すら抱いてしまう。


 ソラリスの持つ明るさとの落差にどうしてか居た堪れない気持ちになり、街並みから目を背けたミューに、エファルは言った。


「視察の予定ですけど、最初にアステリア様——ソルちゃんのお母様に面会します」

「お母さんかぁ——って、え? お母さん⁉︎」


 唐突な単語に思わず身を乗り出して驚いてしまう。


「いたんだね、ソ……私に、お母さん」

「そりゃぁいますよー? 王子様だって、木の股から生まれたりはしませんからねぇ」

「だって、エファルもリカルドも家族のことは何も言ってなかったから……」


 もちろん、ソラリスからも一言の言及も無かった。


 王室の仕組み上、父王と疎遠な理由はなんとなく察せられたが、母親となれば話は別だ。面会は叶わずとも、案じる手紙の一つもあってもよさそうなものだが、できない理由でもあったのだろうか。


「……七部族から王室へ入る后は、王子を産めば王宮から里に戻ることを許されます。アステリア様はソル君を産んですぐにここに戻られましたから」

「手紙のやり取りとかもできなかった……ってこと?」

「…………」


 エファルは困ったように黙り込んでしまう。そんなに難しい質問だったろうか。


 いつもの彼女とは違う、どこか思いつめた様子にそれ以上の追求もできず、車輪の音だけが二人の間に響く。


 しばらく街を走った馬車は、やがて小高い丘の上に建てられた一軒の瀟洒な屋敷の前で止まった。


 促されて馬車を降り、宮殿を見慣れてしまったミューの感覚では小さな屋敷を見つめていると、同じように地面に降りたエファルが小さな声で言う。


「あなたは今はソルちゃんです。だから……何を言われても気にしないでくださいね」

「エファル……?」


 意味を問う前に、出迎えの使用人がやってくる。


 エファルをその場に残し、ミューだけが屋敷の中へ通される。綺麗に整えられてはいるものの、がらんとした冷たい雰囲気の廊下を緊張したまま歩む。


 上階に至り、一際大きな両開きの扉を使用人が開いた。促されるまま部屋に入り、毛足の長い絨毯に足をつける。細長い部屋の突き当たりにある浅い階段の上に置かれた椅子に、一人の婦人が俯いて腰掛けていた。


 雰囲気に圧され、階段のかなり手前で歩みを止めると、やっと婦人が視線を上げた。


 勝気そうな大きな瞳はソラリスに似ているが、瞳の色は、晴れた空の色をした彼とは真逆の深い赤だ。そのせいか、受ける印象は全く違った。もちろん、星のような光もない。


 ミューが言葉を発する前に、婦人は階段を下り、迷いなくこちらに歩み寄ってきた。抱きしめられるのだろうかとふと思う。決闘の知らせは受けているだろう。そこから一年以上も会っていない。息子の身をさぞかし案じていたことだろう。


(うちのお母さんだったら号泣しながら殴られるところだもん。怒られるくらい覚悟しとかないとな……)


 腹を決めたミューの眼前で足を止めた婦人は、前触れなく膝を床についた。そのまま深く頭を下げる。


「よくお戻りになられました、殿下」


(——殿下⁉︎ 息子にむかって⁉︎)


 予想外の『母』の言動に混乱し、中途半端な敬語で返す。


「はあ、あ、ありがとう……ございます……」

「円の王子に決闘を挑んだとお聞きしました。……最中に何かしらの邪魔が入った、とも。それが無ければきっと、殿下の大望は果たされたことでしょうに」

「あぁはい、邪魔……すみません……?」


 胡乱な返事にも頓着せず、ソラリスの母は台本を読み上げるように淡々と述べる。


「殿下の覚悟はお見事でした。わたくしも母として、殿下の名代として里を預かる者として誇らしく思います」

「……?」


 何かがおかしい、と、ミューはようやく違和感を抱く。

 大望。覚悟。見事。誇り。……誇らしい? 息子が、血を分けた兄と戦ったことが?


(……この人は、ソルがお兄さんと決闘したことを、褒めてるの?)


 ミューの母だったなら、こんな時なにを言うだろう。


 ——なんでそんなことしたのよ! お兄ちゃんとは仲良くしなきゃだめでしょ⁉︎


 きっとそう言う。兄なんて居ないがわかる。


「円の王子の即位まで、もう時はありません」


 ——無事でよかった。


「今度こそ、殿下が事を成されますように」


 ——もう、そんな怖いことしちゃだめよ。


「わたくしたちを善く導いてください」


 ——あなたはお母さんが守ってあげるから。


 耳に入る冷たい音を聞きながら、ミューはただ目の前の女性を見つめるしかなかった。


「それがあなたに課せられた使命なのですよ——ソラリス」


 最後にやっと息子の名を呼んだその人を、ソラリスの『母』とはもう、思えなかった。





 その後に見たものは、詳しくは覚えていない。ただ〈兎〉の里の生活は総じて苦しいようで、皆が助けを期待していた。皆が救われるのを待っているようだった。誰に、とは考えなくてもわかる。だからこんなに心が沈む。


「ソルちゃん、大丈夫ですか? 疲れましたよね。今、床の用意をさせてますから」


 夜を過ごすため連れてこられた来客用の館の一室で、塞ぎ込んだミューを気遣うように茶を差し出しながらエファルは言った。


 おずおずとした口調にどこか後ろめたさがあるのを感じ、ミューはつい問いかける。


「エファルは、お母さんがああいう人だって知ってたの? ……お兄さんと戦うのを焚き付けるようなことを、前の『ソラリス』にも言ってたのかな」


 弾かれたように顔を上げ、椅子にもたれるミューを見開いた目でじっと見つめる。


「私の記憶がないことは知ってるんだよね。そういうのもどうでもいいみたいだった」


 立ち尽くすエファルに向かいに座るよう促しながら、ソラリスの『母』のことを改めて考える。何を思ってああ言ったのか。息子をどう思っているのか。暖かい感情の欠片を探したが、それはどこにも見当たらない。


「……私は、『お母さん』が子どもにあんなことを言うなんて思わなかった。お母さんって、大丈夫だよとか、守ってあげるねとか……そうじゃなくてもせめて、危ないことはやめなさいってちゃんと言って、心配してくれる人のことじゃないの?」


 少なくとも、ミューの母はそうだった。

 だから、ミューは、自分がどんなに弱虫で役立たずでも、信じることができたのだ。母だけは、自分を自分のまま全て、愛してくれると信じられた。ミューがただ、ミューであるというそれだけで。


(でも、ソルの『お母さん』はきっと、そうじゃない)


 彼女からは、ソラリスをソラリスとして見ている感触がまるでなかった。彼自身を案じる言葉は一つたりともかけられなかった。


「あの人は『王子』っていう生き物に対するみたいに喋ってた。ソラリスじゃなくて」


 言葉にすれば尚更辛い。苦しい胸を塞ぐように、黒く大きい塊が生まれる。

 重苦しい感情の正体をはかりかねていると、黙り込んでいたエファルが口を開いた。


「……言えなかったんですよ、私も」


 揺れる声で彼女は続ける。


「ソル君が、レム様に挑むと言った時。そんなことしなくていいよって、言ってあげられなかったんです。勝てる見込みなんてほとんどないって知っていたはずなのに、言えなかった」


 膝の上で、小さな拳を震えるほどに強く握る。


「リカルド君も私も……王宮に上がっている〈兎〉たちは、少なくとも生活に不自由はしません。里が苦しんで納めた税で食べさせてもらっています。だから私たちには負い目があって——ソル君には、責任がある」

「でも、だからって……!」


 だからって、ソラリスだけに全部押し付けていいわけはないだろう。彼だって、望んで王子に生まれたわけじゃない。


 ミューの思いを察したように、エファルはただ静かに頷く。


「そうですね。だからって、ソル君を見殺しにする理由にはならない。わかってるんです。それなのに……止められなかった。ソル君が大切なのは嘘じゃないのに。ソル君のこと大好きなのに、送り出すことしかできなかったんです。私も、リカルド君も——最後は結局、『王子』のソル君を選んでしまった」


 声も肩も震えているのに、エファルの赤い瞳は濡れることなく乾いている。それが余計に、彼女の後悔の深さを表している気がした。


 目を伏せたエファルは、細く息を吐いてから顔を上げ、いつものように柔らかく笑った。


「ごめんなさい。ソル君は今はソルちゃんなのに、変なこと言っちゃって。……今のあなたに懺悔して、それで済むことじゃないのに」

「……エファルの気持ち、『ソル君』はきっと、わかってたと思う。きっと、だけど」


 それしか言えないミューに、エファルは黙って頭を下げた。


 もう話はせず、お互い黙って茶を飲んでいるうちに、寝室の用意が整った。

 エファルが下がった後、ベッドに一人で横たわり、ミューは思う。


(私はもう、この人の中にいちゃいけない)


 いつかソラリスが言った通りだ。ミューは何もわかっていなかった。


 彼の孤独も、戦う理由も、想像もつかないほど大きな責任も。

 全てを背負って定めたはずの、彼の覚悟でさえも。


(早く戻らないと)


 ミューはミューに。ソラリスはソラリスに。二人が本来あるべき場所に戻らなければ。こんなもの、ミューにはとても抱えきれない。……きっと、彼にだって重すぎた。


 だからこそ。


「……早く元に戻って……それで、選んでもらわなきゃ」


 胸につかえた飲み下せない、大きな石のようなもの。

 怒りにも似たそれを吐き出すように、ミューは言葉を絞り出す。


 成り行きではなく、彼自身の意思で以って決めて、選んでもらうのだ。


 王子として守るべき民ではなく、責任でもなく、もちろん玉座なんて重そうなものでもなくて。


「——私を、選んでもらうんだ」


 ふつふつと湧き上がる野心めいた感情に、ミューはやっと心を決めた。


 全ては、そう。どうしたって惹きつけられる、彼の星を守るために。

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