アンぶれラ

草下萌乃

第1話

 なんだか疲れてしまったのだ。だから、非日常に恋焦がれた。

「うわぁ、俺の冷蔵庫よりもひどい」

「ハムあったでしょ。ハム。それとマヨネーズ」

 男は、冷蔵庫からフィルムに包まれた三パック綴りのスライスハムと真っ赤なキャップがキュートな大量生産されているマヨネーズを携えて、少し間隔をあけて私の隣に座った。久しく一人分の体重しか知らなかったベッドのスプリングがキィキィと軋んだ。

 先ほどまで外を眺めるために開けていた窓をカラカラと音を立てながらしめる。途端、強い雨がアスファルトを激しく打つゴウゴウという音が一気に遠くなった。どこからか高い音がする。私とほぼ同い年のアパートはそれなりにガタがきているのだ。三十年近く生きてしまうと、人も建物もボロボロだ。

 私は、男からハムとマヨネーズを取ると、ハムのフィルムを開け、その薄い桃色の加工された肉にマヨネーズで円を描いて四つ折りにした。肉独特の塩の香りを唇に感じたところで、なんとなく気が変わって、それをそのまま私の所作から目を離さない隣の男の口元にやる。

「おいしいよ」

 男は少し迷った末、薄い唇でそれを挟むと、器用にそれを口に含んでいった。四つ折りの隙間からこぼれた乳白色の油が彼の唇を濡らす。その淫靡な様子は、この簡素過ぎる部屋に妙に似合った。

 私たちは、濡れていた。髪や洋服から滴り落ちる雫は、床に跡を残し、そして、ベッドに染みをつくる。男はそれを気にして、身体を拭くものを欲しがっているみたいだったが、私は気づいていないふりを貫き通している。濡れた身体を拭くというそのひどく常識的な行動は、せっかく作りだしたこの非日常を壊してしまう、そんな気がしたからだ。

「雨、やまないね」

「いつまで降るかな」

「きっと明日の朝までやまないよ」

 私も男もしゃべるのをやめてしまうと、一気にこの部屋は少し遠い雨音に支配されてしまう。

 男は雨宿りのためにここにいる。

 マンションの入口で壊れた傘を片手にただ真っ黒なアスファルトから上がる激しい飛沫と、目の前を行き来する車のタイヤが濡れた地面を抉っていく様子をただただ眺めていたこの男を私は拾ったのだ。

 私、ここの三階に住んでいるの。よかったら、いらっしゃい。

 こんな、三文小説の売春婦のような台詞を吐いてみるのはとても面白かった。自分が自分じゃなくなる感覚。それは、バスタブのなかで飲むワインよりも私を酔わせた。

 ありがとうございます。

 英語が印字された紺色のティーシャツに少しタイトなジーパン、若い子がよく履いている踝が見えるソックスにコンバースのスニーカー。そして財布ぐらいしか入らないんじゃないかと思われるような小さなボディバッグと、まるで大学生のような姿のその男の声は、やはり私よりずっと年下の男のもののように聞こえた。そして、ちょっと驚いたように私を見つめる特にかっこいいわけでもなくかといって不細工でもないその顔はなんとなくちょっかいをかけて困らしたくなるものだった。

「大学生?」

「はい」

「何年生?」

「一年」

「馬鹿なの?」

「うーん、普通じゃないかと、自分では思っていますけど」

 自分のぶんのハムにマヨネーズをつけて、口に放りこんだ。見事にマヨネーズの味しかしない。でもその辛さと酸っぱさが混ざったその味を今の私は欲していた。

「……その言葉そのまま返します」

 勝手にハムを(しかも二枚重ねで)取っていった隣の男は少し迷った様子で、だけどはっきりとそう云った。その可愛い子ぶりっ子をポーズとしてみせる態度は私に好感を抱かせた。

「馬鹿したかったの」

「俺もそうです。馬鹿したかったんです」

 男は、空になったハムのフィルムを勝手にゴミ箱に捨てると、冷蔵庫から新しいものをとって私に差し出す。爪先でピンクの肉を捲りながら思わず笑った。

「名前は?」

「サトウです」

「それって偽名?」

「内緒です。ヤマダさん」

 ちょっとギョッとした。だけど、それを悟られないように、唇を引き結んで笑みを作った。こういう所作は仕事で慣れている。

 表札?いや、表札はだしていないはずだ。不精な私の表札入れはアルミ製の枠から未だにむき出しのコンクリートが覗いていた。

「公共料金の請求書を机の上に出しっぱなしにする女性って男性に嫌われますよ」

 男の答えに、ほっといてくれと云いたくなる。それを口にしないかわりにちょっと得意げな男の頭にチョップをいれた。痛くなんてないはずなのに、痛いなんて訴えてくるところにその男の若さを感じた。私はいったいなにをしているんだろう。見ず知らずの恐らく十も年が離れた男を部屋に連れ込んで。なんだか急に自分が情けなく感じて、泣きたくなる。

「ねぇ、本当になんでついてきたのよ」

「美人だったから、いいかなって思って」

「もう一回云って」

「美人だからついてきました」

「どこが」

「全部です」

「ありがとう」

 あらためて、隣の男を見る。背は百七十センチくらい。足が長いのは今時の若者のデフォであろう。少し乾いてきたのか染めていない髪が襟足のところで少しはねているのが可愛らしい。

「サトウくんもなかなか見どころがある」

 脳内会議の結果、サトウくんは可だった。我ながら、何様のつもりだと思う。だけど、たぶんそういう計算はみんなやっている。それこそ美人だろうがブスだろうが。

「雨が上がるまで、暇だね」

 変わったことをしたいという理由だけで私はサトウくんを誘う。まるで、今からしようとする行為が “よくあること”のように振る舞いながら。内心、ちょっと自嘲気味に。

「あっ、映画とか好きですか」

 ボディバッグのチャックを開けて、中からTSUTAYAの青い袋を取り出す彼を私はどんな顔で見ていただろう。まったく想像できない。きっと面白い顔をしていた。草食系というワードが頭をかすめる。彼は本当に雨宿りのためにここに来たのだろうか?思いっきり粉々にされた私のプライドはその欠片が細かすぎるせいで私を傷つけなかった。それよりも、なぜか目の前の男が可哀想な生き物に見えてきた。

 そんな私の内情なんて知らないサトウくんは快活に、TSUTAYAの帰りに雨に降られて、なんて語っている。

「『レオン』、ご存知ですか?DVDなんですけど」

「あぁ、うん。いい映画だよね。私は好きだよ」

 観たことあるんだ、すみません、と云うサトウくんからディスクを奪ってセットした。音がほしかったのだ。この空間を満たしてくれる音が。

「すみません」

「何が」

 映画はもう中盤で、画面のなかでは、小さな女の子が必死に主人公の暗殺者をベッドに誘っていた。

「馬鹿しきれなくて」

「ずいぶん律儀なんだね」

 はじめて聞いたサトウくんの笑い方は、乾いた落ち葉を踏んだときみたいな感じがした。なんとなく寂しくなる。

「馬鹿したかったんですけどね、」

「知らない人間と二人だけで映画を観るというのもなかなかない体験だよ」

「そうですね。俺もはじめてです」

 画面のなかの誘惑に失敗した女の子が叫ぶのにかさねて、隣の男が“ここにいる理由”を呟いて謝罪した。

 私は映画に集中しているふりをして、隣の男の馬鹿を聞き流してあげた。それは私が年長者であったというのもあるけど、突き詰めてしまえば、サトウくんの馬鹿に便乗してお手軽に済ませたかっただけだ。サトウくんのような形で馬鹿をするには私は少し年を取り過ぎていた。即物的で本質に触れないものに頼って、本質をうやむやにしてしまうことを知っていた。だからサトウくんのような生き方はかっこいいけど疲れるだろうな、と同情してしまう。もっと楽な方法があるのに、と。

「なんだか、寒くなってきたね」

 やっぱり濡れたままだといけない。風邪をひいてしまう、と呟いてサトウくんと私の間にある空のハムのフィルムと温くなったマヨネーズをベッドから落として、彼との間隔をゼロにして、そのまま抱きしめる。

「このまま映画を観よう。終わったら、お風呂を貸してあげる。洋服は……、たしかあったから、それをあげる。誰のものかは聞かないでね」

「優しいんですね」

「まあね」

「一緒に映画を観てくれる人がいてよかった」

「感謝しなさい」

 叶わない恋に身を焦がして、自らを試すために私についてきた男の体温は、驚くほど冷たくて、彼が思う“普通”を求めるその匂いは、私の日常を少しだけチープなものにしてくれた。

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