第3話

 半世紀前。この世界の空は、人々に恵みと災いを齎した。

 エーテル粒子。その特殊な素粒子は、空が与えた恵みである。

 一定以上の高度、人類が空と認識する領域にのみ存在するその素粒子は、人類がこれまで研鑽してきた科学技術と組み合わせることで、魔法のような現象を実現可能にした。この粒子の可能性は半世紀経った今でも未知数だが、人類とその文明のさらなる進化に貢献することは想像に難くない。人類は喜々としてエーテル粒子を受け入れた。


 しかし、空は同時に災いも齎した。

 災いの名はEMITSエミッツと言う。突如空から出現し、人類を見境なく滅ぼさんとする、異形の化物だ。化物は半世紀前から今に至るまで、絶えず人類に猛威を振るっている。


 二つの存在は人類に様々な変化を齎した。特に後者は人類の活動範囲を大きく削り、例えば人類は飛行機という交通手段を殆ど失う羽目になった。


 だが――半世紀も経てば、人は適応する。


 人類はEMITSへの対策を立て、ある程度の平穏を奪還することに成功した。具体的には空中に対EMITS用の巨大要塞を浮かべることで、EMITSの被害が人類の生活圏に及ばないようにしたのだ。EMITSの身体はエーテル粒子で組織されているため、エーテル粒子と同じく一定以上の高度でないと存在を保てない。だから要塞は空中に浮いており、EMITSが地上まで降りてくるのは稀だった。


 地上に生きる人間にとって、空の上での出来事は最早他人事に近い。

 地上には存在しない、空のみに存在する魔法と化物。今を生きることに精一杯な地上の人間たちに、それらを気にする余裕はないのかもしれない。

 それは――翔子たちも同じだった。


「お、見えてきたぞ」


 学校を出てから一時間以上が経過した。

 ひたすら山道を歩いていると、明社が楽しそうな声をあげる。


 EMITSの出現は、エーテル粒子が発見されてから暫く経った後だった。

 つまりこの世界には、エーテル粒子を知り、EMITSを知らない時代があった。空から与えられるものが恵みだけだと思っていた当時の人々は、粒子を研究するために数多くの研究施設を設立した。空の粒子を研究するのだから、当然、その構造物はどれも背が高くなった。


 だが、EMITSという化物が公になった時、それらの施設はガラクタと化した。通常、空でしか活動できないEMITSも、極稀に地上付近へ到達する。比較的空に近いビルや施設はEMITSの襲撃を恐れ、次々と解体されていった。

 翔子たちが小学生の頃に見つけた秘密基地は、その生き残りである。


「さぁて。登るか…っ!」


 街の端にある山に建てられた研究施設。その外観は、人が空に手を伸ばすかの如く、細く長い。その構造物は眼下のダムを見下ろすように、山の頂に鎮座していた。剥き出しの鉄骨に剥がれ落ちた塗料。壁や床の至る所で、錆びついた金属が顔を覗かせている。

 明社が意気揚々と階段に足を掛け、次いで翔子も上り始めた。


「翔子君……足、大丈夫?」


「ああ。走らなければ痛むこともない」


 錆だらけの手摺を握り締め、三人は基地の屋上へと向かった。


「到着!」


 最初に屋上にたどり着いた明社が、汗を拭いながら笑う。すぐに翔子も屋上に到着した。


「……この景色、久しぶりだな」


 既に夕焼けに染まった空を仰ぎ見て、翔子は満足気に言った。その背後では、漸く階段を上り終えた沙織が、大量の汗を垂らし、肩で息をしていた。


「なんで……中学の頃は、簡単に、上れてたのに……」


「太ったんじゃね?」


「ち、違うもん!」


 頬を膨らませる沙織に、ケラケラと笑う明社。その二人とは少し離れたところで、翔子は指一つ動かすことなく、ただ静かに空を眺め続ける。


「どうだ、気分は?」


 明社が翔子に問う。


「お陰様で、少し元気が出た気がする。ありがとな」


「いいってことよ」


 なんだかんだ言って、明社もこの場に来たかったのだろう。暇潰しにしては些か手間が掛かり過ぎるが、偶にはこうして、非日常感を味わうのも悪くない。


「しかし、何でここは、こんなに落ち着くんだろうな」


 屋上の縁に立てられた鉄柵に、両手を載せながら、翔子は呟いた。


「空が近いからじゃねぇの?」


「空?」


「翔子君、高いところに上って、空を見るの大好きじゃん」


 明社と沙織の言葉に、翔子は目を丸めた。


「……そうか?」


「観覧車のてっぺんで、空ばっかり見るのはお前くらいのもんだって」


 明社が笑って言う。二人はその後も次々と、翔子に対する印象を口にした。


「学校にいる時は、いつも屋上にいるしね」


「屋上にいても、ぼーっと空を眺めてるだけだしなぁ」


「小さい時は木登りばかりしてなかった? あの頃から高いところが好きだったよね」


「そう言えば翔子って、小学生の頃、将来の夢はパイロットって言ってなかったか?」


「あ、言ってた言ってた。でも、おじさんが猛反対したんだっけ。それで翔子君、すっかり拗ねちゃって……ふふ、あの時の翔子君はまだ可愛かったなぁ」


 懐かしむ沙織。しかし翔子はイマイチ彼らに共感できずにいた。


「……もしかして、全部覚えてない?」


 沙織の問いに、翔子は謝った。


「悪い、さっぱりだ。……ここ暫くはずっと走っていたからな」


「うーん、まあ確かに、陸上部でエースに選ばれてからは忙しかったもんね」


 沙織の言葉に頷く。


「……なあ翔子。ぶっちゃけ学校はともかく、部活は辞めて正解だったんじゃねぇの」


「なんで?」


「だって、ここ最近、全然楽しそうに走ってなかっただろ?」


 明社の問いに、翔子は考えながら答える。


「……最初は楽しかったんだけどな」


 眼下の町並みを眺めながら、翔子が答える。


「元々、なりたくてなったエースじゃない。急に部の責任を背負わされるし、好きなように走れなくなったし。……そうだな。正直、エースと呼ばれてからは楽しくなかった」


「翔子はマイペースだからなぁ。基本的に、勝ち負けには興味ねぇし」


 足の怪我が無かった頃。翔子は、陸上部のエースだった。

 けれど、その称号で呼ばれたところで、一度も嬉しいと思ったことはない。


 正直なところ、重たいと感じていた。エースという勝手に与えられた称号は、自分には相応しくない。なにせ自分には、それを手にしようという欲がなかったのだ。ただ好きだから走っているだけなのに、周りはそれを美徳のように褒め称える。


 意味が分からなかった。自分は走ることさえできればそれだけで満足するのに。姿勢も呼吸法も何も知らない。テクニックなんて考えたことがない。そんな自分が人の上に立って何を教得られる。エースになるべき人は、一生懸命汗水を垂らして、様々な技術を取り入れようと努力する人だ。淡々と自己満足のためだけに走っている自分は、注目されるべきではない。


「……でも、いざ辞めたとなると、やっぱり少しだけ寂しい気もする」


 走ることは好きだったが、それはいつしか苦痛に変わっていた。そして遂には走ることすらできなくなった。……心にぽっかりと穴が空いた気分だ。今の自分には何もない。


(空、か……)


 あまり自覚はなかったが、言われてみればいつも空ばかり見ているような気がする。

 子供の頃の夢はパイロットだったらしい。今からその情熱を取り戻すのは難しいが、似たような職業は他にもある。例えば天文学者や航空管制官などだ。


(空を楽しむ方法……なんて、あればいいのにな)


 頭上を仰ぎ見ながら、曖昧な感情を抱く。

 次の瞬間――甲高いサイレンが鳴り響いた。


「警報っ!?」


「は、はやく、下りないとっ!!」


 明社と沙織が焦燥を露わにする。

 耳を劈く警報が鳴り続ける。EMITSが近くに出現したのだ。

 ここは標高が高い。万が一の事態が起こり得る。

 慌てて避難しようとしたその時――暴風が吹き荒れた。


「きゃっ!?」


 階段を降りようとした沙織が体勢を崩し、床に倒れた。

 明社と翔子も立っていられず四つん這いになる。

 目の前の空が変貌を遂げた。腹の奥底に響く、重低音が大気を這う。ガラガラと、雷鳴にも似た音だった。その正体を知る由もないのに、どうしてか、人間の――生物としての本能が訴える。これは自分たちとは完全に別種の、巨大な化物の咆哮だ。


「EMITS……!!」


 震えた声で明社が戦慄する。

 真っ黒の、細長い化物が雲間から姿を表す。白い雲を横切り、その合間から胴を覗かせる光景は、屏風に描かれた龍を彷彿とさせた。しかしその化物の胴体からは、夥しいほどの節くれ立った足が伸びている。そして頭と思しき先端には、巨大な挟みのような口があった。龍ではない。百足型のEMITSだ。


「あ、いや……っ!?」


 EMITSが急降下し、沙織の頭上から迫る。だが沙織は恐怖で一歩も動けなかった。

 その身体を――翔子が間一髪で押す。


「……ぇ?」


 押し飛ばされた沙織は、目を丸くしていた。

 次の瞬間、翔子の頭上に百足の頭部が迫る。


「翔子ッ!」


「翔子君ッ!」


 百足の頭部が、翔子の立っていた場所に直撃する。激しい震動と共に、床に大量の亀裂が走った。廃ビルの片隅が、まるで豆腐が切り崩されるかのように崩壊する。

 目も開けられない風圧によって、翔子の身体は宙へ投げ出された。


「――ぁ」


 足の裏から、あらゆる感覚が消え去る。刹那、背後で激しく響いていた崩落の音も、巨大な百足の鳴き声も、何故か一切聞こえなくなった。

 無重力感が全身を支配する。数秒後、自分は落下死するのだろうと確信する。だが――。


(……思い出した)


 目の前に広がる無限の空を見て、これこそが自分の求めていたものだと思い出す。


 昔。父と遊園地に行った時、初めて乗ったジェットコースターに興味津々だった。あの無重力感が。あの突き抜けるような速さが、幼い翔子に感動の嵐を巻き起こした。


 観覧車も大好きだった。自分の目線が高くなっていくその不思議な現象が、この上なく楽しかった。父に強請り、外が暗くなるまで何度も何度も乗った記憶がある。


 父は言った。――翔子は本当に、空が好きなんだな、と。


「は、ははっ」


 木登りが大好きだった。けれど本当に好きなのは登り切った後に見える景色だった。一体何度、そこから飛び降りようと思ったか。足がどうなってもいい。身体が壊れてもいい。ただ純粋に、飛べるかもしれないという可能性に夢を見て。


 学校の屋上が大好きだった。よく勝手に忍び込んでは、フェンスをよじ登って校庭を見下ろしていた。どれだけ偶然を装って、落ちてみようと思ったか。


 ジェットコースターが大好きだった。レールから脱線しないかと、いつも期待していた。


 観覧車が大好きだった。父親がいなかったら、扉を無理矢理開けていたかもしれない。


 馬鹿げている。

 狂っている。

 どうやら子供の頃の自分は、相当おかしかったらしい。


 けれど、全て真実だ。子供の頃の、純粋無垢ゆえの無茶な願望だ。今はそんなこと思いもしないが……原点は、間違いなくそこにあった。


 ――もしも、この空を自由に飛び回れたら。


 幼稚な願望が蘇る。同時に激しく後悔する。どうして今、思い出してしまったのか。後少しで自分は死ぬというのに。もうその願いは叶わないと言うのに。


 風に包まれ落下する最中、翔子は眼前の空に腕を伸ばし、宝物を掴むかのように優しく掌を閉じようとした。


 何も掴めない筈の、その掌は――暖かな何かを掴んだ。




「――大丈夫?」




 足は地に触れていない。

 身体は未だ風に包まれている。

 だというのに、落下が止んだ。


 伸ばした掌は、自分以外の、誰かの掌を掴んでいた。その事実を混乱しながら受け入れた翔子は、真正面でこちらに手を差し伸べている、一人の少女と目が合う。


 美しい女性だった。長い黒髪にスレンダーな体躯。整った目鼻立ちからは彼女の品格が伝わる。堂々として凛とした、気高い立ち居振る舞い。見れば見るほど魅了されそうになる。身に纏っているのは、空よりも青い蒼色の外套だ。


 そして、その少女は――空を飛んでいた。


「特務自衛隊です。これより貴方を保護します」


 特務自衛隊。それはEMITSを討伐するための、空飛ぶ戦士たち。


「掴まって」


 風に乗って飛翔する少女の背中に掴まる。すぐ傍を、他の自衛官たちが飛翔していた。

 遠方から銃声が響く。同時に、百足の巨体に灰色の砲撃が直撃した。空を自由に駆ける特務自衛隊は、エーテル粒子を利用した特殊な武器でEMITSと戦う。

 目の前で、灰色の砲撃が百足を穿った。

 幾重にも銃声が連なる。その直後、百足が全身を縮こませた。


「いけない」


 翔子を背負う少女が急旋回した。次の瞬間、百足の足が伸び、周囲の自衛官へと放たれる。鋭く伸ばされた鉤爪のような足を、少女は紙一重で回避した。


『隊長! 狙われています!』


「分かってる」


 耳元から聞こえる無線の声に、少女は応える。

 百足の攻撃はまだ終わっていない。百足は伸びた足を鞭のように撓らせ、大気を引き裂きながら迫った。丸太のように大きな足が、眼前に迫る。


 迫る凶器を少女は避け続けた。無駄のない最小限の飛行は、どこか優雅な舞を彷彿とさせる。背中に乗った翔子は、その様を、誰よりも近くで見ることができた。


 人は、こんなにも自由に空を飛べるのか。

 空は人を束縛しない。前後左右は勿論、上下にも、無限に世界が広がっている。床という床がなく、壁という壁もない。この世で唯一、何にも束縛されない空間かもしれない。


『隊長、援護します!』


「大丈夫。……私の眼を信じて」


 そう言って少女は口を閉じた。無線を切断し、百足の巨躯を冷静に捉える。

 百足が再び足を撓らせた。四方から、節くれだった足が襲いかかる。


「これから、一瞬だけEMITSに接近する」


 少女は落ち着いた声音で語りかけた。


「少し怖いかもしれないから、できれば目を閉じて――」


「――あっちの方」


 殆ど無意識に、翔子は言葉を発した。

 もしこの空を、自分で飛ぶことができたら――その想いが道を示した。


「右へ回り込んでから、急降下して、それから反時計回りに旋回すれば……」


 向かって右の方を指さしながら翔子が言う。何を口走っているのか分からない。感覚的に理解しているコレが。この眼が捉えている不可視の道が、何であるのか分からない。


(俺は、何を言って……)


 自分の発言に自分で驚く。しかし、視える。何故か分かる。

 そんな翔子の独り言を聞いて、少女は微笑した。


「貴方も、視える・・・のね」


「え?」


「アミラが聞いたら発狂しそう」


 僅かに笑みを浮かべた少女は、身体を右に揺らした。

 少女の身体は迫り来る鞭を避けると同時に、素早く時計回りに飛翔した。二本目の足を、急降下することで避け、そのまま反時計回りに旋回する。

 偶然か必然か。その軌跡は、翔子が見据えていたものと全く同じだった。

 だが百足の猛攻は止まらない。横合いから、黒い鎌のような足が肉薄した。


「当たる……っ!」


「大丈夫」


 焦燥する翔子に、少女は短く告げる。

 鎌が翔子たちを切断する直前、少女は――何もない空中を蹴った。一瞬だけ、少女の足元に金色の燐光が現れる。宙を蹴った少女の身体は、鋭くターンし、更に加速した。


(……凄い)


 縦横無尽に空を駆る少女に、思わず場違いな考えを抱く。


(俺も、こんな風に空を――)


 危機感よりも憧憬が勝る。久しく感じていなかった高揚感が胸中から溢れ出る。

 その時、少女が銃を取り出し、EMITSに向ける。銃口に金色の燐光が収束した。


「――さよなら」


 金色の球体が、百足の頭上より降ってきた。小型の太陽のように煌々と輝くその閃光は一気に膨れ上がり、百足の頭部から腹部までを削り取る。

 百足の動きが停止し、サラサラと黒い粒子と化して霧散した。


「お疲れ様」


 少女は緩やかに空を滑り、半壊した廃ビルの屋上を目指した。ビルは翔子が立っていた部分だけが削り取られており、まだそこに屹立しているが、この分だと倒壊も時間の問題だろう。


 脅威が去った後の空は、一層広く、自由に感じた。夕焼けによって橙色に染まる空が視界を埋め尽くす。全身がこの空に包まれているのだと強く実感できる。


「あっ」


 少女が廃ビルの屋上に降り立つと同時に、つい名残惜しく声を漏らしてしまった。

 彼女の背中に強くしがみついていた翔子は、気まずそうに視線をそらす。


「貴方、空は好き?」


 唐突に少女が問いかける。翔子は狼狽えながらも答えた。


「……はい」


 肯定すると、少女は微笑み、外套の内ポケットから一枚の封筒を取り出した。


「なら、これをあげる」


 手渡された封筒を受け取り、それを裏返してみる。表に記されていた文字を読み、翔子は封筒の中身を悟った。


「これは……何故、俺に?」


「貴方みたいな人を探していたの」


 少女は、美しく、唇で弧を描いて言った。


「私と同じ。ただ純粋に、この空が好きな人」

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