第6話 腹案と実行者

「…………」

 放課後。俺は例によって談話室に居座っていた。眼前には数学の問題集とノートを広げ、指先はシャーペンをくるくるともてあそび、しかし先程から一文字も書いていない。問題文を読む視線は字面を何度も上滑りし、むなしい往復を繰り返している。つまるところ、全く集中できていない。

 そんな頭で延々と考えているのは、ついさっきまでのLHRロングホームルーム――体育祭の選手決めだ。


 結局、俺は逃げたのだ。


 選手の決定は勿論、堂島の提案したクラスの方針決めすらも、俺は先送りにした。

 ただ多数決を取るだけならば、一分もあれば事足りた。どう見たってクラスは堂島の言うままに“勝負は捨ててただ楽しむ”に向いていたのだから、その中での多数決はただの確認作業に過ぎなかった。

 それを、俺はしなかった。躊躇ためらった。

 明日に先送りにした。


 問題は、なぜ、ということだ。

 どうして俺は堂島の提案をとしなかったのか。


 なにかが引っかかったから、俺は曖昧に濁したのだ。

 一日を空けたところで、クラスの流れが変わるとは到底思えないし、俺自身も別に堂島の提案に反対だというわけでもない。

 ならば、なぜ。


「…………」


 わかっている。

 八瀬やせさんだ。

 思い出す。堂島があの提案をしたときの、堂島を見上げる八瀬さんの表情を思い出す。


 違う、そうじゃない。

 それじゃあ、楽しめない。

「……そうさ」

 楽しくなりようがないだろうが。それじゃあ。


 勝負を捨てて、ただ馬鹿騒ぎをして、刹那せつな的に盛り上がって、しかしそれは本当に楽しいと言えるのか。

 後になって思い返したときに、それで一体なにが残っている。

 体育祭。文化祭や修学旅行と並ぶ青春イベント筆頭で、そんな中身のない終わり方でも、いいのか。

 ましてや俺たちは、三年生だ。これが高校生活最後の体育祭。

 それが、そんな、たったひとりの自分勝手で空っぽにされて。


「……いやいや」


 なにを熱くなっているんだ俺は。別にいいじゃないか。適当にお茶を濁したところで、別に悪いことはない。むしろ、それほど疲れずに済むわけだし、勉強にも支障が出ないだろう。忘れてはいけない、体育祭の二週間後には中間考査があるのだ。下手に体育祭に熱を入れて盛り上がってしまえば、成績が下がってしまいかねない。ましてや常に低空飛行を続けてきた俺は、将来のためにこれを疎かにするわけにはいかない。

 なにより、クラスに溶け込むこともせず、空気的立ち位置を自任する俺が、青春イベントに一枚噛もうなどという考えそのものがそもそも噴飯ふんぱんものなのだ。


「……しかし」


 どうしても、八瀬さんの顔が払拭ふっしょくできない。

 はっきり言ってどうでもいい相手なのに。俺がどれほど懊悩おうのうしたところで八瀬さんの知るところではなく、それどころか俺がクラスメートであることすら認識しているかどうか怪しいような相手。

 なのに。


 ……困っている女の子。


 神子島みこしまの言葉を思い出す。

 そりゃあ誰だって、胸糞悪いイケメンよりは女の子に味方をしたくなるだろう、それが高校生男子というものだ、哀しいかな俺もそのさがは否定しきれない、が。


 無茶言うな。

 俺には、無理なんだよ。そういうのは、俺の手には負えない。


 メリットだってない。俺がなにかを変えようとしたところで八瀬さんに感謝されるわけでもないし、自己犠牲の趣味はない。


 なにより、俺は忘れていない。

 かつて犯したあやまちを――失敗を。

 もう、繰り返さないって決めたんだ。


 だから――だけど。


「……あー」


 くそ、と堂々巡りする思考に悪態をついて顔を上げる。頭を掻きむしりつつ背後の壁に身を預けて、

「――ん」

 正面に突っ立っている神子島と目が合った。


「お疲れさま」

「お、おう。お疲れ」


 平然と無表情に声をかけてくるけれど、お前、一体いつからそこに立ってた。

「……部活はどうしたんだ。終わったのか」

 嫌な場面を目撃された気恥ずかしさからそっぽを向きつつ、俺は言う。ええ、と神子島は軽く肩をすくめると、腕時計を示しつつ、

「そりゃあ終わるわよ。もう六時半だもの」

「え」

「あと三十分で学校閉まるわよ」

 嘘だろ、と俺も慌ててスマートフォンを見る。確かに時刻は六時半だった。

「…………」

 三時間近く悶々としてたのか、俺は。


「随分とお悩みだったみたいだけれど」絶句する俺の向かい側に、いつぞやのように座りながら神子島は面白がるような調子で言う。「当ててあげましょうか」

「結構だ」

「八瀬さんの巨乳について」

「そんなことで悩むか!」

「『やっぱり揉めば大きくなるのかな?』」

「それはお前の願望じゃ……」痛っ。

「『揉むならまず右手か、それとも左手かな?』」

「そんなことを三時間かけて懊悩してる自分は想像したくないな!」オッサンか!

 違うっつーの。俺が悩んでいたのは、こう、深くて、鋭くて、世界的というか、

「体育祭について、でしょう」

 当たりだよ。


「お前、会議の内容聞いてたのか」

 ずっと俺の名前で遊んでいたものだと思っていたのだが。しかし神子島は心外だとでも言うようにその薄い胸を張る。

「当たり前でしょう。あなたと一緒にしないで」

「俺はずっと議事進行に忙しかったよ」

 遊んでる暇なんてなかったよ。むしろ俺が一緒にされたくないよ。


「問題は、選手決めの詳細よりもクラスの方針に移ったわけね。それで、どうするの?」

「どうって?」

「あなたはどうするの、という意味。あなたはどちらにくみするの。八瀬さん? それとも竜賢たつまさくん?」

「…………」

 あえて、楽しむか、勝つかの二択にしないところが小憎たらしい、が。


 ……へえ。

 俺は口を曲げる。


「どっち、だろうな。神子島はどう思うんだ」

 矛先を変える、というのもあるが、是非聞いておきたいところだ。神子島はどちらを選ぶのか。

 しかし神子島の答えは簡潔に容赦なかった。


「どうでもいいと思うわ」


 取り付く島もない。心底興味がないという風にかぶりを振る。

「さすがにどうでもいいはないんじゃないか」

「どうでもいいわよ。どっちにしても、やることは変わらないもの。――どちらにしても、私は全力でやるだけ」

「……へえ」

 かっこいいなあ、お前。

 それで全てが済んだとばかりに、神子島は俺を見据える。

御社みやしろくんは、どうなの。どちらを選ぶの」


 楽しむか、勝ちに行くか。

 八瀬さんの望みと、堂島の要求。


「…………」


 手元の、開かれたままのノートを見下ろす。

 そこにはなにも書かれていない。

 けれど、俺の手で、一体なにが書けるんだ。


「――今も、引きずっているの」

 俺は顔を上げた。

 いつぞやと同じく、差し込むような言葉。そしてまた神子島はあの強い視線で、俺を見据えている。

 答えろ、と視線が迫る。


「……俺は、主人公じゃない」


 絞り出すような俺の声。掠れて、まるで自分のものでないようだけれど、偽り難い本音。

 神子島は、ため息をついた。

 深く、長く。

 そして今度はため息以上に深く長く吸って、言う。


「私はあなたがどうしてそこまで主人公に拘るのか、わからない。人生は小説でも舞台でもゲームでもない。設定も台本もありはしないのに、あなたはそうやってスポットライトから遠ざかろうとする。背景に埋没しようとする。あなたが主人公でないのなら誰も主人公ではないし、誰もが主人公ならばあなただって主人公なのに。あなたはかたくなに認めない。――ねえ、御社くん」


 ねえ、と神子島は言った。

 それは、痛烈な言葉の前置きだ。


「引きずっているんでしょう、あなたは。中学生の頃、困っている女の子を助けられなかったことを」

「…………」


 俺は答えない。

 応えられない。


「困って、泣いて、助けを求めていた女の子。あの子をあなたは、助けたかった。笑わせてあげたかった。でも、あなたにはそれができなかった。結局あの子は、それ以来一度も笑うことのないまま、卒業して離れ離れになった。自分にあの子が助けられなかったのは、自分に学才が運動技能が社交性がカリスマ性がルックスが身長が足りないせい――自分が主人公でなかったせい。あなたはそう開き直って、閉じこもった」


「…………」


「でもね、知ってるかしら御社くん。私は今でもあの頃の馴染みと話すことがあって、たまに聞いているの。あの子、私たちとは別の高校に進学したわけだけれど、そこではとても上手くやっているのよ。友人にも恵まれ、かっこいい彼氏もいる。凄く幸せそうだわ。彼女はとても満たされている」

 ……へえ。そいつは知らなかったな。


「きっとそれは、あなたがあのとき助けていても、同じだったでしょう。あるいは、あなた以外の誰かが助けても。きっと今ある結論は変わらない――確かに」


 神子島は言う。


「確かに、あなたがなにかをする必要はなかった。誰が助けてもよかったし、誰にも助けられなくてもよかった。けれど、それはあの子の立場から見た現実であって、あなたの現実ではない。あのときあなたは、それでもやっぱり、あの子を助けるべきだった。自分である必要はないだとか、もっとふさわしい誰かが――主人公が、やってくれるだろうだとか、そんな逃げが看過されてはならないのよ。助ける意志があり、差し伸べられる手がありながら、なにも為さないのはただの怠惰よ」


 いい? と神子島は言う。


「やれることはやれるだけやるべき。自分にできること全てを最後までやり遂げないのは、怠惰でしかない。かつてのあなたの失敗までも、怠惰だったとは言わないわ。ただ未熟だっただけ。けれど、その失敗を経てもなお、その経験を得てもなお、同じ轍を踏もうというのなら、それは怠惰以外の何物でもないわ」


 いい? と神子島は再び言う。


「なにかを為せるのは主人公だけではない。主人公であろうとなかろうと、誰かの行動にはそれ相応の影響がある。良くも悪くも、なにかが変わっていく。行動すること――あるいは行動しないことでも。あなたはただ、自分は主人公じゃないだなんてうそぶいて、行動することを、その責任を、影響を、あなたの言う“主人公”とやらに転嫁てんかしているだけなのよ」


 いい? と神子島は三度みたび言う。


「あなたにできることがある。あなたにしかできないことがある。それをわかっていてもなお、あなたは目をそむけるの? ――繰り返すの?」


 また、繰り返すのか。


「なにもせず、ただ傍観して、泣いている女の子を見送って、自分以外の誰かが助けるのを待つ? ――あなたには、助けられるのに」


 できることがあるのに。


「それでも、いいのかしら」


 もはや神子島の言葉は、問いかけではなかった。

 断言。

 いいわけが、ないだろうと。


「今のあなたはあの頃とは違う。もっとずっと弱くなって……府抜けている。ただでさえ薄い存在感をさらに薄くして、誰の印象にも残らないように徹して、誰の注目も浴びないようにして、影の中で息を殺して生きている。まるで物置の天井の染みのように」

 ……そこは普通、擁護ようごするところでは。

 思わず半目になってしまうが、神子島の言葉にはまだ続きがあった。

 でも、と。


「根っこのところは、変わってないわ」

 そうでしょう、と神子島は言う。


「あなたは悩んでいる。迷っている。本当にどうでもいいのなら、八瀬さんに対してなにも思うところがないのなら、他のみんなと同じように竜賢たつまさくんの言葉に乗っかって、楽な方へと流れることに躊躇ためらうことはしない。けれどあなたは悩んでいる。それは、八瀬さんを助けたいという思いが、あなたの中に確かに存在するということよ。――私は、それが」


 見たい、と神子島は言った。

 何者をも射抜いてしまいそうな強い目で。


「……見たい、とか言われてもな」

 苦り切った顔になりながら、俺は言う。

「俺にできることなんて、ないぞ。お前の言う通り、俺は陰に潜んできたからな。クラスのほぼ全員が、俺の顔と名前を覚えていないという自信がある」

「それは否定しないわ」

 否定しないのかよ。


「だから、そんな俺がなにを言っても、誰も聞く耳なんて持たないだろ」

 まして相手がクラスのカリスマ、陸上部のエース堂島・竜賢となれば、万に一つも勝ち目はない。

 そうかもしれない、と神子島は頷いた。諦めてくれるか、と俺は安堵しかけたが、しかしその瞬間にすかさず、

「でも考えはあるのよね」

 とか言ってきた。

「……考えって」

「困っている女の子を助けるための、たったひとつの冴えた策略よ。それがあるから、より一層あなたは迷っていたのでしょう」

「……仮に。仮にそんな妙案があったとして、だったらどうするんだよ」

 どんな作戦を仕掛けようにも、俺には影響力なんて微塵みじんもないのだ。刷り込み的な草の根作戦を実行しようにも、明日の六限まででは絶対的に時間もない。


 けれど、神子島はにやっと笑って見せた。

「そこはそれ、私にもひとつ考えがあるわ」

 普段滅多に表情を動かさないせいで、数割増しで凄みのある笑みだった。

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