望洋漠々怪人譚

時田宗暢

第1章

第1話 狂疾の街

 地下鉄の出口から射し込む陽光を見て、道下透は「今日はきっとツイてないな」と心の中で独り言ちた。

 透は占いなど全く信じる質ではなかったが、それでも「自分は朝陽に呪われている」という半ば確信に満ちた思い込みを、子供の頃からずっと抱いていた。

 小学生の頃、運動会の徒競走でゴール手前ですっ転び、クラス中から総スカンを食らったあの日も、高校受験に失敗したあの日も、秘かに想いを寄せていた大学の先輩を些細な諍いから激怒させ、絶縁を食らったあの日も、就職して最初の営業先で笑えない騒動を起こしてしまったあの日も、そして、透が「自分は朝陽に呪われている」と確信するに至った、幼少期のあの日も、いつも同じ、こんな感じの朝陽が射していた。

 普通に考えて、朝陽が射している日など1年中に恐らく百を超える数であるのだから、透の思い込みは昔の人間にも笑われるレベルの迷信なのだが、それでも彼の心の中には、拭い去れぬ確信として、朝陽に対する忌避感があった。

 朝、自分のアパートを出るときは曇っていたのに、と心の中で舌打ちをしながら、透はなるべく首を垂れ、朝陽を顔に浴びないようにして地下鉄の出口を出て、職場へと向かった。朝陽が射している日は、こうして歩くことで不幸を避けられる可能性が高いことを、透は経験則から知っていた。少なくとも、透自身はそう確信していた。職場である水上みなかみ生命株式会社は地下鉄の出口を出てすぐ右手にあるので、顔など上げなくとも簡単に辿り着けるし、これまでも実際に透は何度かそうして出社してきた。

 玄関の自動ドアが開き、会社ビルの中に入ったところで、透はほっと胸をなでおろし、自分の勤務する社史編纂室がある地下1階に向かった。

 ろくに手入れすらされていない扉を開き、移動式キャビネットが立ち並ぶ書庫の中央付近に置かれた自分の座席に腰掛ける。向かいの座席には、すでに先輩である向島樹が座っていた。透は「おはようございます」とだけ声をかけると、何か言いたげな向島を残し、さっさと自分の仕事に取り掛かった。

 キャビネットには、水上生命株式会社の設立以来からの顧客名簿と関連資料一式が綴じられたドッチファイルが無造作に置かれている。これらのファイルの整理と不備等の有無をチェックするのが、透の仕事であった。

『あんたの仕事ってより、「あんたが決めた」仕事でしょ?』

 いつの間にか透の背後に表れていたアコが、茶化すように言った。

「別にいいだろう。いずれにしろ俺にできるのは暇つぶしだけだ。」

 アコは、透の古くからの友人なのだが、透の内面にまで無遠慮に踏み込んでくる物言いには、透としても正直辟易している部分があった。

『空しくなんないの? 追い出し部屋にしがみつくのってさ。』

「暇つぶしで金がもらえるなら文句の付けようなんかないだろ。」

 社史編纂室、などという名称からも明らかなとおり、透が今いる部署は、アコの言う通り、俗にいう会社の「追い出し部屋」であった。

 透はめぼしいドッチファイルをキャビネットから取り出すと、自分の机の上に広げ、整理作業に入った。追い出し部屋という性質上、机の上には電話機すらなく、全くのフラットだったので、大きめのドッチファイルを広げても全く問題がなかった。

 透がファイリングされた資料を1枚ずつチェックしながら不明点等が認められる個所に付箋を添付していると、向島が退屈に耐えかねたように声をかけてきた。

「道下さん、感心だねえ。毎日毎日、真面目に働いて。」

「一応、給料をもらっている身なので。」

 向島は単に話のネタが欲しいだけで、大して感心している風でもないのが明らかであったため、透はそっけなく受け流した。

「上の連中もひどいよねえ、道下さんみたいなやる気のある社員をこんな所に閉じ込めてさ。」

「会社に損害を与えた上にその挽回もできなかったんだから当然ですよ。」

 その件についてはあまり触れてほしくなかったため、透は資料に目を落としたまま、向島の方を見ることすらせずに答えた。

「損害云々言ったら、今役員とかやっている連中だって昔どれだけ会社に損害与えたか分かったもんじゃないよ。」

『うるせえオッサンだな。テメエの話なんか聞いちゃいねえんだよ。』

 悪態づくアコを、透は無言で制した。

「大体ね、保険会社ってのは顧客を騙すのが仕事みたいなもんなんだよ。健康のためだ福祉のためだとかいうけど、結局は会社の金儲けのためなんだ。そんな会社で出世している奴なんて、全員詐欺師か悪人みたいなもんだ。そんな連中に私や道下君を追いやる権利などあるか? ありやしないよ、そんなの。」

 興奮したように一人でしゃべり続ける向島の言葉を、透はただ右から左へ聞き流した。向島の会社に対する悪態はいつものことなので、相手にしないことに決めていた。

 自分が入社した当時の話から始まって、営業部での華々しい活躍、それを妬んだ同期に(あくまで向島の言によれば、だが)陥れられ、転落人生が始まったことへの恨み辛み、そして専務の誰某は不正経理を行っている、役員の誰某の弱みを自分は握っているなどといった、真偽のよく分からない被害妄想じみた話まで、ここに来てから透は毎日のように聞かされていた。今ではもう、最初から最後まで諳んじられるのではないかと思うほど、向島の話は毎日同じであった。

 透は向島の話に相槌を打つふりをしつつ、アコに目配せしながら、二人で内心、目の前の壊れかけた初老の男の醜態を嘲笑った。普通の人間ならば退屈に耐えられない状況かもしれないが、アコという友人がいる透には、全くもって苦にはならなかった。向島の醜態も、二人で見る見世物と考えれば、ある程度許容できなくもなかった。

「あ、そういえば、小瀬川だったっけ? 道下さんと揉めちゃったのって。アイツも入社した時は私の下にいてね、本当に大変だったんだよ。だから道下さんの気持ち、よく分かるよ。」

 突然、小瀬川の名前が出て、透は顔をしかめた。

『おお、危ない危ない~』

 アコがわざと茶化すような口調で、透の内心の乱れを煽るように言った。

「アイツ本当に自分の都合しか考えないような奴でさ。入社して1週間くらいでもう部屋の中で鼻つまみ者になっちゃったね。道下さんとトラブル起こす前からずっとそんな感じなの。アイツのせいでうちの会社が出入り禁止になったところ、いくつもあるんだよ。」

 小瀬川とは、透が水上生命に入社した時、最初に配属された先の上司であった。とにかく自分の都合しか考えない男で、社内でも明らかに嫌われ、避けられていた。当然のごとく、会社の内外を問わずトラブルが多く、向島の言う通り、営業担当であるにも関わらず出入り禁止となっている営業先がいくつもあった。

 事件が起こったのは、透が小瀬川と一緒に飛び込みの営業に行っていた時であった。通常、飛び込み営業の際はどんなに腰を低くしてもしすぎることはないのだが、小瀬川はそんなことはお構いなく、しつこく保険の勧誘を行い、営業先の課長を怒らせてしまった。その人は小瀬川と透を怒鳴りつけるだけでなく、水上生命の営業部長を電話で呼びつけ、おたくの会社の社員教育はどうなっているんだ、と透たちの目の前で叱責した。営業部長が平身低頭で謝罪する傍ら、小瀬川は悪事を叱られた子供のように、顔を紅潮させたまま押し黙っていた。営業部長が小瀬川に謝罪を促すと、あろうことか彼は口から泡を飛ばしながら「あなた方は私にこんな恥ずかしい思いをさせて、一体何なんだ!」と子供のように地団太を踏んだ。

 次の瞬間のことを、透は鮮明に覚えている。小瀬川の狂態に唖然とする営業部長らの傍らをすり抜け、透は小瀬川の顔を鷲掴みにすると、そのまま全体重をかけて床に叩きつけた。何が起こったのかわからず、目を見開いたまま床に転がる小瀬川に馬乗りになり、透は彼の顔面を拳で滅茶苦茶に打ち据えた。

 鮮明な記憶は、そこで終わっている。後は様々な悲鳴と怒号、パトカーや救急車のサイレンの音などを、断片的に覚えているだけであった。

 営業先で警察沙汰を起こしたということで、透と小瀬川には停職処分が言い渡された。本来であれば、透は小瀬川に暴行罪で告訴されてもおかしくなかったのだが、件の事件後、小瀬川は会社に出社せず、処分後すぐに退職することとなった。風の噂によると、家族によって半ば強制的に入院させられたとのことである。

 刑事告訴こそ免れたものの、当然のごとく、会社内での透の立場は全く無くなった。事件はマスコミにも報道され、社名は大いに傷つけられた。いくつかの得意先でも契約打ち切りや出入り禁止を言い渡されるという事態にまで発展した。結局その後、透は大きすぎる失点を回復することもできず、20代半ばにして社史編纂室という実質的な追い出し部屋送りとなったのだ。

 そんな訳で、透にとって小瀬川の話は不快以外の何物でもなかったのだ。だが向島は、透の気持ちなど全く斟酌せず、ひたすら話を続けていた。

「アイツは駄目だ。アイツも駄目だし、ああいう奴をズバッと切れなかった上の連中ももっと駄目だ。」

『ズバッと切れねー会社だからアンタみたいなのもまだ飼ってもらってるんだろうが。つーか小瀬川を一番指導するべきだったのは上司だったアンタだろ。』

 向島の矛盾だらけの主張に、アコが突っ込む。

「道下君がしたことは、多分みんなアイツにしてやりたかったことだよ。だから首切りなんてことにはならなかったんだ。」

『ブチのめしたのは私だけどね。アンタも同じようにしてやろうか?』

「いい加減黙れ。」

 毒を吐き続けるアコに我慢ならなくなり、思わずそんな言葉が透の口からこぼれる。

「あ……ゴメン、気に障った?」

「い、いえ、すみません! ちょっと、自分としても、忘れたい過去なので……」

 口をついて出てしまった言葉に動揺し、しどろもどろになりながら、透が釈明する。

「そ、そうだよね。ゴメン、嫌な話しちゃって。」

 向島は、バツが悪いのを隠そうとしてか「ちょっと一服してくる」と、煙草を理由にしてそそくさと出て行ってしまった。

 椅子の背もたれにもたれかかりながら、透は深く嘆息した。

 いつの間にか背後に表れたアコが背後から寄り添うように、透の耳元に囁く。

『やっちゃったとか思ってる? 大丈夫だって。アンタがまともじゃないのは会社の人ならみんな知っているから。あんな言葉くらいじゃ評価変わんないよ。』

「まあ確かに、傷害事件の犯人みたいなもんだからな。頭のおかしい奴だと思われても仕方がない。」

 透が、アコの方を向く。そこには誰もいない。それもそのはず。この追い出し部屋に配属されているのは、透と向島の二人だけなのだから。他の誰かなど、いるはずがないのだ。

「というか、実際におかしい訳だけど。」

 透の言葉の先にある空間には、誰もいない。だが間違いなくアコは、そこにいた。透の視界の奥底、周囲の風景を認識する、彼の心の中に。


 透とアコが初めて出会ったのは、幼稚園の頃であった。

 きっかけは、透が男友達の一人を川に突き落としたことであった。何が原因でそのような行為に及んだのかは、透の記憶にはない。きっと子供にありがちな、些細な諍いであったのであろうが、とにかく彼は、男友達の一人を溺死させかねない行為に及んだ。

 たちまち、周りの子供たちや保育士、周囲の民家の住人などが集まってその子を救助すると、皆で透を取り囲み、彼の行為を非難した。

 透は俯きながら、ただじっと押し黙っていた。取り返しのつかないことをしてしまった、という自責の念よりも、自分が周りの世界から切り離され、ただ一人になってしまったかのような孤独感が、彼を苛んでいた。

 大人や他の子どもたちに取り囲まれる透を、朝陽がじりじりと、心まで焦がしていくようであった。朝陽の作る、周りの人間たちの影が、自分を食い殺そうとする怪物の牙のように、透には思えた。この時から、彼の心には「自分は朝陽に呪われている」という強迫観念に近い確信が生まれていた。

 押し黙ったままの透に業を煮やしたのか、保育士の一人が「友達に謝りなさい」と強く促した。周りの大人や子供たちも、それに同調する。ただならぬ雰囲気に、透はさらに一段と委縮し、奥歯がガタガタと揺れ始めた。

 その時――

『大丈夫だよ。』

 ぎゅっと握ったままの透の手を、そっと包みこむ手があった。透の傍らに、彼と手を繋いで並び立つ者がいた。俯いたまま、そちらに目を向けていないのに、透は確かに、彼女の存在を感じた。

 その時、透の心から、疎外感や孤独感はもう既に消えていた。

「ごめんなさい。もうしません。」

 心からのものではない、虚ろな謝罪の言葉が、透の口からこぼれる。周りの大人たちは一応納得したのか、二度とこのようなことをしないように、と釘を刺し、溺れた子の介抱に向かった。子供たちは、大人たちがいなくなると、そそくさと逃げるように立ち去った。

 独りになった透は、改めて、自分の手を握る者を見た。誰もいない。それでも、確かに自分の手を握り、自分と一緒にいることが、実感として分かった。

「君は、だれ?」

 答える声はない。でも、彼女が確かに笑ったように、透は感じた。

『笑ってなんかいないよ。怒ってんの。』

 今度は確かに声が聞こえた。

「おこってる?」

『何でただ黙ってたの? あのクソガキにしたように、あいつらみんな、川にでも突飛ばせばよかったじゃない。』

 透は子供ながらに困惑した。先ほどの優しげな印象とは全く違い、恐ろしい女だった。

「いやだよ。また怒られるじゃん。」

『そう。アンタにはできない。だから私がいる。アンタができないことをするために、私がいるの。わかった?』

「わかんない……」

 彼女は呆れたように溜息をつくと、透を半ば引きずるように、木陰へと連れて行った。厳密にいうと、透の足を無理やり動かし、そこまで移動させた。

『アンタは私から離れられない。私はアンタの心の中にいるから。私もアンタから離れられない。私はアンタの心の中にいるから。いい? アンタはこれからずっと私と一緒に、日の当たらない道を歩くの。』

「さっきあの子を川に落としたのは、きみがやったの?」

 恐る恐る、透が聞いた。

『そうよ。アンタはそうしたかったけどできなかった。だから私がやったの。』

「ぼくの、代わりに……?」

『だからさっきからそう言っているでしょ? アンタと私は同じで違う。だからアンタができないことでも、私はできる。わかる?』

「ぼくの、友達になってくれるってこと?」

 脈絡のない考えではあったが、不思議と、透にはそう思えた。そして、恐ろしい気持ちもなかった。

『そういうこと。私とあなたはお互いに絶対に別れられない、一生の友達。』

 

 これが、透とアコの出会いであった。

 周囲との疎外感が生み出した空想上の友人なのか、あるいは、恐ろしい行為を行った自分自身から逃避したい気持ちが「もう一人の自分」を作り上げたのか、それとも、実は透が生まれた時から彼女はいて、あの時初めて、その存在に気が付いたのか。

 恐らく、全部が微妙に正しくて、全部が微妙に間違っているのだろう、と透は思っていた。彼にわかっていることはただ一つ。彼女が、アコが自分にとっては間違いなく存在するということだ。

 ちなみに、アコという名前は、透がつけたものか、彼女自身が名乗ったものかは、明らかではない。本当にいつの間にか、そういう名前になっていたのだ。

 正確には、闇虚あこというのが、彼女の名だ。

 あまりにもあまりな名前ではあるのだが、透としては彼女に最もふさわしい名前だと感じていた。実際に闇虚は、透の心の醜悪な部分、悪辣な部分が剥き身で現れたかのようにどす黒く、それでいてどこか虚ろで、透き通るような空気感があった。

 透自身、闇虚の存在は自分の心理面での異常に基づくものであると、はっきり理解しており、実際に何度か精神科の受診を受けたこともあった。だが、頭の中にお友達がいるという以外、心身ともに健康そのものである透に対して真面目に取り合う医者は皆無で、ほとんどの場合、奇特な精神的趣向として問題なしと診断された。ある医者などは「素敵なお友達がいるんですね」などと笑いながら言った。

 その「素敵なお友達」はまさにその時、頭の中で『こいつの目を潰せ』と喚いていた訳なのだが。

 そんな訳で、透と闇虚との奇妙な精神的同居生活は、もうかれこれ20年以上も続いていた。


 追い出し部屋に残業などは当然ないため、透と向島は定時きっかりに、会社を後にした。

 向島は透を飲みに誘ったが、透は「このご時勢なので」とやんわりと断り、そのまま自宅へと帰路についた。

 独身で特に決まった用事もない透は、1週間に一度くらいの頻度ではあるが、帰宅の際に地下鉄を使わず、徒歩で帰る習慣があった。住んでいるアパートまでは徒歩だと2時間以上かかるが、普段特別スポーツなどしない透にとっては、身体を動かせる貴重な時間であった。ちょうどその日も、徒歩で帰るには絶好の日和であったため、透は地下鉄の駅には向かわず、そのまま街の方へと歩を進めた。

 夕日がビル街を絶妙な陰影で彩り、その下で帰宅時の人々が波のように行き交っている。透は朝陽が大嫌いだったが、夕暮れ時の雰囲気は子供の頃から不思議と大好きだった。行き交う人々の間を、縫うように歩いていくと、まるでまるで自分が何かの物語の主人公になったかのような気分にさえなれた。

 大通りから小さな小路を抜け、入居しているアパートの前まで来たとき、透はふと、自分の部屋のドアの前に、人影があることに気付いた。よく見ると、目深に帽子を被り、年代物のトレンチコートを着た男性のようであった。どう見ても、郵便局員や運送業者などではない。

 透が近づき、声をかけようとすると、足音に気付いたその人物は、そのまま逃げるように、その場を立ち去った。

「なんだ、あれ……」

 不審に思いながら、透は男が立っていたドア付近を改めた。別段変わったところも無く、郵便受の中にも、不審なものはなかった。

 釈然としないものを感じながらも、透はそれ以上は考えず、そのまま部屋の中に上がり、その日1日を終えることとした。

 この時、警察に相談するなど、不審者に対してもっと警戒していれば、その後の透の人生は変わっていたかもしれない。だが、いずれにせよこの時点で、彼の運命が大きく動き出していたことは、間違いないことである。


 向島が亡くなった、と透が聞かされたのは、翌日、出社してすぐであった。

 透がいつものように出社すると、いつもであればいるはずの向島の姿が見当たらなかった。遅刻か何かだろうと思った透は、特段気にせず仕事に取り掛かろうとしたところ、社史編纂室の課長(専属ではなく、別の課との兼務であり、通常は社史編纂室に顔を出すこともない)が駆け込んできて、前日の夕刻、向島が最寄りのS駅にて投身自殺した、ということを告げた。向島は、ホームから入駅してきた電車の前に身を投げ出し、殆ど即死に近い状態だったという。

 透は困惑したものの、どうしてよいのかも分からず、課長の話にただ相槌を打つくらいしかできなかった。課長は、向島の葬儀は親族のみの密葬となる旨を告げると、外部からの問い合わせの電話は全て広報担当に回すようにとだけ伝え、もう用はないとばかりに早々に部屋を出ていった。

 一人残された透は、さりとて特別何かすべきことも見つからないため、とりあえず、いつもの仕事に取り掛かった。


 翌日も、透はいつものように出社し、定時で業務を終え、そのまま帰路についた。向島の益体のないお喋りがないと、部屋の中が本当に静かだったが、透は静かな方が好きなので、取り立てて気にはならなかった

 アパートの前につくと、突然、背後から透に声をかけるものがあった。

「道下さん、ですか?」

「はい?」

 透が振り向くと、白髪交じりで、あまり身なりのよくない年配の男性が立っていた。

「あの、どちら様ですか?」

 男は答えず、俯きながら口を金魚のようにパクパクと動かしている。

「失礼ですが、どのようなご用件ですか?」

 若干詰問するような口調で、透が再び聞く。

 男は、挙動不審に周囲を窺うようにしながら、どこか怯えたような視線で、透を見た。

「お金、返してください。」

「は?」

 男の言わんとすることが全く分からず、透は素っ頓狂な声を上げた。

「お金、返してください。あれがないと困るんです。」

「あの、すみません、何をおっしゃっているのか……」

 今にも泣きだしそうな目で、縋るように自分を見る男に、透は本気で困惑した。

「お願いします、お願いします、お願いします!」

 男は、透の目の前で土下座し、哀願するように叫んだ。

「あの、ちょっと――」

『下がれ!』

 闇虚が叫び、思わず透が後ずさったのと、目の前の男が突然立ち上がり、隠し持っていた包丁を振りかざしたのは、ほぼ同時であった。

 包丁の切っ先は、透の鼻先を掠め、真一文字に空を切った。

 男は、先ほどまでの憐れみを誘うような表情から一変し、憤怒と殺意を湛えた瞳で、ぎょろり、と透を見ている。

「あんたおかしいよ。人の金取ってそんな態度かよ。あんた、人間じゃないよ。」

 男の表情は、明らかに常軌を逸していた。

 何が何だか全く分からない透は、蛇に睨まれた蛙のごとく、硬直したまま立ち尽くしてしまった。

『人間じゃないってさ。言ってくれるじゃん、このオッサン。』

 透の困惑をよそに、闇虚は楽しそうにケラケラ笑った。

「あんたおかしいよ。あんたおかしいよ……」

 ブツブツ言いながら、男は包丁片手に、殺意を隠そうともせずに透へと突進する。

『ほら、横っ飛べ!』

 闇虚の一声で、ぎりぎりで冷静さを取り戻した透は、横に転がって何とか男の突進を躱した。

『ボールペン、あるだろ?』

 どこまでも冷静な闇虚に内心驚嘆しながらも、透は仕事柄、胸ポケットに常備しているボールペンを手に取った。

 男は、逃げた透になおも追いすがり、包丁を振りかざし、透の顔面目掛けて切りつけようとする。

 透は、身を低くし、相手の懐に滑り込むように接近すると、思いもよらぬ行動に驚愕して一瞬動きが止まった男の顎下に、突き上げるようにして思い切りボールペンのペン先を刺し込んだ。

 あるいは、それは透の体を借りた闇虚の行動だったのかもしれない。

 ボールペンは口内にまで突き抜け、男は鮮血を吐き散らしながら、訳のわからない叫びをあげながら地面を転がった。


 それから後のことを、透はよく覚えていない。周囲の住人の悲鳴とパトカー、そして救急車の音。以前にもどこかで見聞きしたような、既視感のある騒音と風景だけが、ぼんやりと視界に浮かんでいた。どこか現実感がなく、空虚な光景であった。

 警察の簡単な現場検証と事情聴取に付き添った後、特に大きなけがもなかった透は、そのまま自分のアパートに戻り、着替えもせず、そのままベッドに倒れこんだ。対応にあたった警官からは、明日の午前中、署の方でより詳しい話を聞かせてください、と言われていた。明日の朝一で、会社に休みの連絡を入れなければというようなことを考えながら、とりあえず、混乱した頭を落ち着けようと、横になってみた透だったが、頭の中は落ち着くどころか異常な興奮状態が一向に収まらなかった。

「闇虚、たのむから落ち着いてくれ。」

 興奮して跳ね回る頭の中の同居人に、透は語りかける。

『んふふふ~♪』

 透の諫める声など全く意に介さず、闇虚は先ほどの惨状の興奮から冷めやらず、透の頭の中で踊り狂っていた。

 透は呆れながらも、ある意味では闇虚に感謝していた。彼女がいなければ、自分はあの男に殺されていたかもしれないし、こうして異常な事件に興奮している自分を客観的に見ることができるのは、自分自身の心の整理をつけるうえでは有効であるように思えた。だが、取り敢えず今は――

「取り敢えず、今日は、もう寝よう。」

 透は、全ての思考を断ち切り、着替えや食事のことも忘れて、睡眠に落ちることで頭を落ち着けることを選択した。


 翌日は朝から、雲一つない快晴であった。

「嫌な予感がする天気だな……。」

 透は、挙動不審に思われないレベルで俯き、なるべく太陽に顔を向けないようにして、昨日の警官に言われた通り、近くにある警察署に出向いた。

 受付で要件を告げると、すぐに別室へと通された。係員の女性に言われた通り、椅子に座って待っていると、数分ほどで二人の男が入ってきた。スーツを着ていたが、雰囲気で刑事だと分かった。

「道下透さんですね。今日はどうも、ご足労をおかけしました。」

 席に着くなり、刑事の一人が、ニコリともせず、透に話しかけた。

「今回の事件ですが、殺人未遂という極めて重い案件ですので、道下さんには重要参考人として、こうしてお話を聞かせていただくことになります。もしかすると、今後も何回かお呼びすることになるかもしれませんが、その点はご了承ください。」

「はい。」

 穏やかであるが、有無を言わせない口調であった。

 もう一人の刑事は、入口脇の机の前に腰かけ、黙々と記録をとっている。透の方を見ようとする素振すらなかった。

「刑事事件の事情聴取となりますので、虚偽の内容や誇張を交えた証言は絶対にやめてください。道下さんの知っていること、分かっていることを、正確に話してください。証言内容に虚偽が判明した場合は、罪に問われる場合もあります。よろしいですね?」

「分かりました。」

 くどいな、と思いながらも、透は極力表情には出さず、誠実な態度を心がけようとした。

「昨日の事件ですが、現場で聞き取りを行った警官からの報告にはこうあります。突然見ず知らずの男が道下さんに声をかけ、身に覚えのない言いがかりをつけ、そして困惑する道下さんを包丁で切り付けた、と。これは間違いないですね?」

「間違いありません。」

「切り付けた男と面識はありますか?」

「ありません。」

「トラブルなども一切ありませんでしたか?」

「トラブルどころか、あの日初めて会いました。」

 まるで詰問するような口調に刑事に、透はだんだん腹立たしい気持ちになっていった。被害者はこちらなのに、一体なぜ、事件の容疑者のように扱われているのか。

「あなたを切りつけたという男ですが、あなたと金銭トラブルがあったかのような主張をしていたそうですね。」

「まったく身に覚えがないですよ、金銭トラブルなんて。」

「本当にそうですか?」

「すみません。さっきから何か、まるで私が犯人みたいな調子で質問されてますが、一体何なんです?」

 堪えきれなくなり、透が反駁するように食って掛かる。

「今回の事件ですが、あなたは包丁で切り付けられた被害者であり、その一方で、相手を負傷させた加害者でもある。そして我々は警察である以上、公平な立場から真実を明らかにし、刑事裁判に臨まねばなりません。」

 全く動じることなく、刑事が淡々と返答する。こういったやり取りは、もう慣れているのであろう。

 対する透は、改めて、自分の置かれた立場を思い出した。正当防衛とはいえ、確かに自分は、相手の男を負傷させてしまっている……。

「繰り返しになりますが、事情聴取において、虚偽の証言は絶対にやめてください。場合によっては、その点も罪に問われる可能性があります。」

 刑事の「その点も」という言い方に、透は警察が自分をも裁くつもりでいるのだということを理解し、慄然となった。

「私の話していることは、全て本当のことです。大体私は、完全な被害者ですよ⁉」

 声が震えそうになるのを必死で堪えながら、透は答える。

「なるほど。では何故、加納英寿、あなたを包丁で切りつけた男が、事件の前日にあなたの口座に3000万円ものお金を入金しているんです?」

「『はい⁉』」

 驚愕のあまり、透と闇虚の声が同時に発せられた。

「加納英寿、あなたを切りつけた男が、事件の前日、あなたの銀行口座に3000万円もの大金を入金しているんですよ。銀行にも照会し、確認済みです。」

 透は絶句し、何も返答できなかった。

「おまけに加納は、おたくの保険会社の顧客だった。いったいどんな経緯があったのかは知らないが、これでもまだ知らないというんですか?」

「いや、知らない、本当に知らないんです。」

 混乱し、呂律も上手く回っていない状態で、透はなんとか自身の潔白を弁明しようとした。

「預金口座の残高は月に一度、生活費を引き落とす時くらいしか確認しないから、全く気づきませんでした。それに、うちの会社の顧客? でも私は、1年位前からずっと、その、いわゆる追い出し部屋に左遷されたリストラ予備軍で、その……」

 最早、理論立てて反駁することは透の精神状態的にも不可能であった。とりとめもない言葉を繋ぎながら、透は自分がどんどんドツボに嵌っていくのをまざまざと感じた。

「くどいかもしれませんが、嘘は絶対にやめてくださいね。調べればすぐに分かることです。」

「誓って、嘘は言っていません。加納なんて人間は知りませんし、お金のことも全く知りません。本当に、何も知らないんです。」

 刑事は無言で、じっと透の目を見据える。透は蛇に睨まれた蛙のごとく、固まることしかできなかった。

「分かりました。では、そのように記録しておきます。調書には最後に道下さんご自身の署名をいただきます。間違いなくそのように証言した、という証明のためです。」

 刑事は「間違いなく」の部分を強調して伝えた。透の証言に疑問を抱いていることは明らかであった。

 その後も、事件当日やその前後の行動、透自身の来歴など、取り調べは仔細に渡り、結局、全てが終わったのは正午近くになってからであった。

 取り調べの最後に、刑事がまるで通告するような口調で告げた。

「もう一人の当事者である加納は口内に重傷を負った上、供述にも不明瞭な点が多いため、道下さんには今後も何度か取り調べにご協力いただきますので、そのつもりで。」

 長時間にわたる取り調べで精も根も尽き果てた透は、疲れ果てた体にさらに追い打ちをかけるような言葉にすら、怒りを感じられぬまま、体を引きずるように取調室を出た。

『そういえば、加納だっけ? 確かにアレじゃあ、マトモに話すこともできないよねえ。』

 一人、闇虚だけが、頭の中で楽しげにはしゃいでいた。この状況を楽しんですらいるようで、正直なところ、今の透には羨ましさすら覚えた。

 警察署を出ると、透の今の心境とはまるで場違いな、快晴の空と暖かな太陽が出迎えた。

 やはり自分は、朝陽に呪われている。

『今もう昼だっつーの。』

 突っ込みを入れる闇虚を無視し、透は自分自身の呪われた(と思い込んでいる)運命を本気で嘆いた。


 アパートの自分の部屋に着いた透は、着替えもせず、そのままベッドに倒れこんだ。本当に何もかも、投げ出してしまいたい気持であった。

 警察は、自分を疑いの目で見ている。

 ただその事実だけが、透の心をひたすら暗澹とした気持ちにさせた。疑いを解かなければならない、とは思っていても、何をどうすればよいのか、透には皆目見当もつかなかった。そもそも、警察から伝えられた事件の詳細が、透の理解を完全に超えていた。

 ひたすら混乱し、沈んでいくだけの気持ちを切り替えようと、透は朝から一度も開いていなかったスマホを立ち上げた。

 画面ロックを解除してすぐ、会社の上司からのショートメールが目に入った。警察から今回の事件について連絡があり、ついては、会社の指示があるまで自宅待機するようにとのことであった。

 透は、スマホを投げ出し、比喩表現ではなく本当に頭を抱えた。いずれ会社には伝えなければならないとは考えていたが、こんなにも早く伝わってしまうとは想定外であった。警察は会社にどこまで話しただろうか? この話は会社の中でどんな風に広まっているだろうか? ひょっとして、退職金も何もない懲戒解雇を食らってしまうのではないか……。

『追い出し部屋にいる奴が、今更そんなこと気にすんなよ。』

 負の感情の連鎖に頭を抱える透に対し、闇虚は冷やかすように言った。

「いや、それはそうだが……」

『会社の先輩ボコボコにした時点でアンタの社会人としての立場は無くなったの。会社が労基だなんだでクビにできなかっただけで、実質クビになったのと同じ扱いだったでしょ。』

「こいつ、他人事みたいに言って! ボコボコにしたのはお前だろ。」

『ん? ああ、そうだったね。でも私がやったってことは、半分はアンタがやったってこと。』

「もういい!」

 とにかく、今の状況から逃げ出したかった透は、面倒臭く絡んでくる闇虚との会話を打ち切り、頭から布団を被り、何もかも忘れて眠りの世界に落ちようとした。

『こんな状況で眠れやしないことぐらい、アンタにも分かっているでしょ?』

「……」

『本当は、自分が何をしたいか、何をすべきか、分かっているよね?』

 闇虚の言わんとしていることを、透自身も、薄々気づいていた。

『アンタはさっきの取り調べで、一つだけ嘘をついた。加納英寿。本当は、知っているよね?』

「ああ……。」

 そう、闇虚は透自身なのだ。透が目を向けていない、意図的に目を逸らそうとしている自分自身の心情も、彼女にはお見通しなのだ。

「加納英寿。社史編纂室のファイルで前に見たことがある。ウチの顧客で、保険金詐欺の疑いがあった男だ。」

 社史編纂室という名の追い出し部屋で、透の楽しみの一つだったのが、保険金詐欺や裁判沙汰になった案件など、いかがわしい資料を見つけ出して閲覧することであった。

『ロクでもないことに関しては素晴らしい記憶力だね。さ、そこまで分かっているなら、行動だよ、行動。』

 心の中で背中を後押しする闇虚に、透は苦笑した。闇虚と話していくうち、彼の心に渦巻いていた不安と混乱は、次第に薄れていた。

「こんな状況にも楽しそうでいいな、お前。」

 闇虚は、にっこりと微笑んで言った。

『だって、楽しいもの。』


 透は、それとなく周囲に気を配りながら、会社への道を急いでいた。自宅待機を命じた課長に折り返しで連絡し「会社に置いてある私物を取りに行く必要があるので、ほんの少しだけ出社します。」と、半ば一方的に説明すると、上司も警察から詳しい話は聞いていないのか、適当な了解の返事を返してきた。

 加納英寿のデータをファイルで見たことは確かであったが、詳細については、再度ファイル内の書類を確認する必要があった。それが透にとって一体どんな役に立つのかはまだ分からないが、兎にも角にも、自分にとって有利な情報を見つけなければならないという気持ちが彼を突き動かされていた。

 その一方で、「警察に疑われている」という紛れもない事実が、彼の心を疑心暗鬼にもさせていた。

 自分は警察の監視対象になっているのではないか? こうしてただ歩いている時も、自分の背後で私服警官が自分の動向を見張っているのではないか? 自宅謹慎を命じられているにも関わらず出社するという行為は、警察に証拠隠滅を疑われてしまうのではないか……。猜疑心が猜疑心を呼び、透の心には被害妄想じみた感情が泡のように次々と湧いてきた。

 透は深呼吸をし、何とか心を落ち着けようとした。疑心暗鬼に駆られて、挙動不審になっては逆に自分の立場を悪くしてしまうのは明白である、と自分の心に言い聞かせた。仮に警察が自分を監視していたとしても、これはあくまで、私物を取りに会社に少し戻るだけだ。上司にもそう伝えてあるし、社史編纂室には監視カメラなどないのだから、目当てのファイルを見つけてすぐに必要な情報をメモすれば、全く問題はない。仮に警察が踏み込んで指紋等を調べたとしても、社史編纂室のファイルにはほぼ全て透の指紋が付いているのだから、彼が何を調べていたかなど分かるはずがない。

 平静を装いつつ、時折、それとなくショーウィンドウのガラスなどに写る背後や周囲の風景を確認し、自分を尾行している者などいないことを確認しつつ、会社へと向かった。

『~♪』

 闇虚は、透が心を擦り減らしていることなどまるで気にせず、鼻歌を歌いながら頭の中をスキップしている。

「楽しそうでいいな。コイツ……」

 皮肉を言いながらも、透は、先ほどの闇虚との会話を思い出した。

 闇虚が楽しんでいるということは、自分もまた、この状況を楽しんでいるということなのだろうか。

 どこか不思議な感覚を感じながら、透は会社の自動ドアの前に立った。


 課長に一言だけ挨拶し、透はそのまま社史編纂室に向かった。課長は透の方を殆ど見ることもなく、用事が終わったらすぐに帰宅するように、とだけ言った。やはり、警察から詳しい話は聞いていないようであった。

 社史編纂室に入ると、透は素早く移動式キャビネットを動かし、目当てのドッチファイルを探し当てた。ファイルを開き、必要と思われる情報を片っ端からメモしていった。手間がかかる作業だが、後で警察に必要資料として押収される可能性がある以上、資料の一部でも持ち出すのはまずいと透は考えていた。加納の住所等を含めた個人情報、契約内容、そして参考として綴じられている、保険金詐欺容疑に関する記録書類について、透は素早く目を通し、必要事項をメモしていった。無論、これらの行いは会社の秘密保持規程に完全に抵触するものであったが、今の透にそんなことを考える暇はなかった。

 加納は今から約10年前、当時同居していた妻に多額の保険金をかけ、事故に見せかけて殺害した容疑で警察の追求を受けていた。結局、確定的な証拠がなく、加納は不起訴処分となったようだが、警察は加納をかなり疑っていたようで、水上生命にも加納の契約書類や掛金の支払い履歴の提供依頼があったことが、警察からの送付書類としてファイリングされていた。

「ん?」

 記録書類に目を通していた透は、ふと、書類の隅に目を止めた。

「この名前……」

 当時警察の対応にあたった、加納の契約手続きを担当していた水上生命の保険外交員の名前の一人が、向島樹であった。

「向島さんが……」

 何かが繋がるような気がした。だが、それが何なのか、透には分からなかった。


 怪しまれないように、10分程度で必要事項のメモ取りを終えた透は、課長に一言だけ帰宅の挨拶をすると、すぐに会社を出た。課長は、出社した時同様、ろくに目を合わせることすらしなかった。

 歩きながら、透は自問するような形で、闇虚に語りかける。

「こんなことをしていて大丈夫かな……」

 もし警察に監視されているとしたら、という懸念を、透は拭い切れずにいた。

『あんたがさっき感じたとおりだよ。』

 こともなげに、闇虚が返す。

「……俺が、この状況を楽しんでいるって意味か?」

 先ほど、会社に向かう途中で頭の中に浮かんだ、自分自身でも実感がない感覚を、透は思い出していた。

『言うまでもないことだけど』

 闇虚が透の方に向き直り、珍しく真顔で語りかける。

『私はあなたなの。全く別のものに見えているだけで、本質は同じ。私の感情はあなたの感情であり、あなたの感情は私の感情。つまり、私が楽しいことは、あなたも楽しいってこと。』

 そこまで言うと、闇虚は正面に向き直った。

『お、話していたらもう目的地に着いた。』

 交差点の向こうに、向島が投身自殺したというS駅の駅舎が見えてきた。透は、不審に思われないように周囲を窺いながら、構内へと入っていった。


「一昨日亡くなられた向島さんの同僚の方、ですか?」

 駅員は若干困惑したように、透を見た。

「はい。同じ会社の同じ部屋で働いていた同僚なんですが、もし差し支えなければ、向島さんが亡くなられたホームに、お花などを置くことはできますか?」

 透は不審に思われないよう、慎重に言葉を選びながら、駅員に語りかけた。

「誠に申し訳ないのですが、防犯の観点から、構内に置くことができるものは厳密に定められておりまして……」

 駅員は婉曲的に、拒否の姿勢を示した。ここまでは、透の予想通りの展開であった。

「そうですか。申し訳ございません。あの、差し支えなければ、向島さんが最後にいたホームを教えていただけますか?」

 駅員は、そのくらいであれば、と親切に教えてくれた。

 教えられたホームへ向かおうとするそぶりを見せながら、透は思い出したように、駅員に聞いた。

「あ、そうだ。ちなみに、向島さんですが、その日は誰かと一緒じゃありませんでしたか?」

「いえ、そのような話は聞いていないですね。」

「そうですか。当日、飲みに行くような話をしていたので、ひょっとしたら誰かと一緒だったのかなと思ったんですが。」

「う~ん、私も後から駆け付けたんですが、特に誰かと一緒だったというような話は聞いていないですね。」

「そうですか、すみません。」

 透は一礼すると、駅員室を後にした。

『ナイス演技じゃん。』

 闇虚が茶化すように言う。

「別に演技なんかじゃない。会話の基本だろ。」

 いきなり駅員に向島のことを聞いては怪しまれるので、取り敢えず献花に訪れた同僚を装って駅員を訪ねる。当然、駅員としては拒否せざるを得ないため、そこで一旦譲歩し、本来確認したい当日の向島の動向を聞き出す。これが透の狙いであった。取り敢えず同僚として献花を行いに来た風に装えば、仮に後で警察に確認された際も、理由が付く。

「でも、やっぱりというか当然と言うか、有益な情報はなかったな。」

 目的のホームに着くと、透は、駅員に教えられた向島の最期の場所を見た。

 警察の現場検証も、清掃もすべて終わったためか、そこにはもう何も残ってはいなかった。向島が生きていた証も、死んでいった証も、何もかも綺麗に無くなっていた。本当に、何も無かった。

 透は、手を合わせた。弔いの気持ちからではなく、仮に警察や駅員に見られても不審に思われないために。そんな自分の打算的な考えに、透は若干の不快感すら覚えた。

「やっぱり、何もないか……」

 当然と言えば当然の結果。半ば分かっていたはずなのに、透の虚脱感は小さくはなかった。自分は一体、何を期待してここに来たのだろうか。

『気ぃ落とすなって。ぶっちゃけココは単なる興味本位で来ただけじゃん。』

「それは、そうだけど……」

 透はふと、電車を待つ人ごみの中に、どこか見知ったような姿を見つけた。

『アイツ、この前ウチの前にいた奴じゃね?』

 先に気付いたのは闇虚だった。

 目深の帽子に、年代物のトレンチコート。確かに、この前アパートの前にいた人物と非常によく似た姿が、行き交う人影の向こうに見えた。透に見られていることに気付いたのか、男は踵を返し、足早にホームから去っていく。

 追わなければ。半ば使命感のようなものを感じた透は、人ごみをかき分けながら、その人物を追った。

 階段を駆け上り、改札口方面に向かう通路に出た時点で、透はトレンチコートの人物を見失った。息を切らしながら周囲を窺うが、それらしき人影はもうすでに消えていた。

 逃げられた。何故か分からないが、透にはそんな確信があった。そして同時に、取り逃がしてしまったことに対する強い後悔の念が浮かんできた。

「……変なことにならないといいけど。」

 じっとりとした不安が、透の心に纏わりついていた。


 次の目的地に向かうべきか否か、透は逡巡した。トレンチコートの男が何者かは分からないし、本当に透や今回の事件に関係しているのかも判断がつかないが、なぜか透には、先ほどの男が、今回の事件の重要な関係者のように思えてならなかった。

 結局、持てる時間を無駄にすべきではないという考えから、先ほどまで以上に周囲への警戒を剥き出しにしながら、透は次の目的地へと向かった。

『お前、さっきまでの慎重さはどこに行ったんだ?』

 闇虚が呆れてしまうほど、透の挙動は周囲の目など全く考慮していない、不審者そのものであった。数歩進んでは後ろを振り返り、周りを確認し、行き交う人々の顔を露骨に凝視しながら、透は目的地へ向けて歩を進めていた。

「文句を言うな。恥も外聞もへったくれもない。ここまで露骨に用心していれば、誰も俺たちを尾行しようなんて考えない。」

『その前に、警察呼ばれるんじゃないかな。不審者そのものだぞ、お前。』

「それは……。」

 いつになく冷静な闇虚の指摘に、透は若干面喰い、軽く嘆息しながらビルの壁によりかかった。

「……確かに、その通りだ。いくらなんでも、これじゃ不審者だ。通報されても仕方がない。」

『私に指摘されるとか、よっぽどだぞ、お前。』

 透は、闇虚と自分の立場が、いつもと反転していることに気が付いた。いつもならば、滅茶苦茶な闇虚を自分が諫める役割だったのだが、それが今や逆になっていた。

「分かっている。さっきの男を見たせいで、少しナーバスになりすぎていた。お前の言う通り、これじゃ逆に警察の厄介になってしまう。ここはやはり、冷静に行こう。」

 混乱し、混迷していた透の頭は、次第に冷静さを取り戻しつつあった。透は心機一転、姿勢を正すと、あくまで落ち着いた様子で、歩き出した。

『ところでさ』

 闇虚の方は逆に、そんな透には関心を寄せず、話題を全く別の方に向けた。

『アンタの口座に3000万円入金されるんだよね。そのお金って、自由に使えるの?』

「いや、どう考えたって無理だろ。」

 全く予想外の方に話を向けられ、透は困惑した。

「あれは俺の金じゃないし、その、多分、警察の捜査資料的にも大事な物だろ? つーか、勝手に使ったりしたら、それこそ警察に疑われるだろ!」

『でも警察の人、お金についてどうしろとかは何も言ってなかったよ?』

「いや、それは……」

 言われてみれば、警察の事情聴取の際、加納が入金した3000万円についてどうしろといった話は出なかった。透の方も委縮してしまっていて、そこまで頭が回っていなかった。

「……いや、やっぱり駄目だ。もし仮にその金を引き出したりしたら、自分が何か疚しいことをしたって自分で証明しているのと同じだ。多分警察は、俺がそうやってボロを出すのを狙って何も言わなかったんだ。やっぱり、口座の金には一切手を付けない方が賢明だ。」

『でもさ、生活費を引き出す時はどうするの? 入金されたお金とアンタの貯金は分別されている訳じゃないよね?』

「……警察に一度、確認するしかないな。」

 面倒だな、と心の中で溜息をつきながら、透が消沈した様子で答える。

『お、目的地が見えてきた。』

 透の様子など気にも留めず、闇虚はまた話題を180度転換し、無邪気に前方を指さした。

 彼らの眼前に、非常線の張られた一軒家が見えてきた。加納英寿の自宅であった。


 透は念のため、遠くから、窺うようにして加納の自宅周辺を見た。自宅の周りに非常線は張られているが、警官の姿などは見えない。

 透は慎重に、あくまでただの通りすがりを装い、加納の自宅の前を横切った。表札を横目で確認すると、確かに「加納」と書かれている。顧客資料を読んだ限りでは、加納は10年前に当時の妻を事故(警察は疑っていたようだが)で亡くしており、子供もいなかったため、今は独り身のはずだった。

 透は、非常線に興味を持った通行人を装い、加納の自宅を見た。ごく普通の、特筆すべき点はない一軒家だ。外から確認する限り、人の気配は感じられない。

 加納の自宅を見ていると、お喋り好きそうな近所の主婦が、透に話しかけてきた。透は、話に乗るふりをしてそれとなく会話を繋げ、加納が今も独り身であること、保険金詐欺の疑いは周囲でも広く噂になっており、加納自身もそれを気にして殆ど人付き合いが無かったこと、そういった状態が続いたためか、加納には深夜に奇声を張り上げたり、独り言を呟きながら一日中近所を徘徊するなど、数々の奇行が見られたことなどを聞き出した。

 主婦の長い話が終わり、透が軽くお礼を言ってその場を去ろうとした際、主婦が思い出したように言った。

「そういえば、お兄さんってひょっとして保険屋の人?」

「え、違いますけど……」

 全く想定外の質問に面食らい、透は思わず自分の身分を偽った。

「そうなのぉ? 加納さんって人付き合いが全くなかったんだけど、時々保険屋の人が訪ねて来ていたから、てっきり貴方もそうなのかと思っちゃった。」

 何故自分の素性を見ず知らずの主婦が知っていたのか透は訝しんだが、そういう事情か、と合点した。と同時に、透としてはどうしても確認したい点も出てきた。

「保険屋さん、ですか。さっき話していた保険金詐欺がどうとかいうのと、何か関係あるんですかね?」

 怪しまれないように言葉を選びながら、透が聞く。

「さあねえ。正直なところ私もよく知らないの。加納さんと話したこともほとんどなかったしね。ああ、でもその保険屋の人、何度か見たことがあるけど、上品な感じですごく素敵な方だったわ。」

「高そうなスーツとか、コートとか着てたんですか?」

「そうそう。すごくオシャレなトレンチコートを着てたのよ。保険屋って、やっぱり儲かるのかしらね?」

 そんなもんですかねえ、と適当な相槌を打つと、透はお喋りな主婦に一言お礼を言うと、足早にその場を後にした。

 トレンチコートの男。

 その言葉が、透の心に重くのしかかっていた。

『ダメ元で来てみたけど、意外と収穫があるもんだね。』

「感心している場合か。これでますます例のトレンチコート男が今回の事件に関係しているかもしれないってことになったんだぞ。」

 向島が死んだその日に、透のアパートの周りをうろついていた男。

 向島が死んだ駅のホームで透を見るや否や逃げ出した男。

 そして、加納の家にたびたび訪れていたという男。

 まだ根拠には乏しいものの、透には、この全員が同じ人物のように思えてならなかった。

『だから、それが収穫じゃん。要するに、そいつを見つけ出してブチのめせばいいってことなんだから。』

「お前は……。」

 半ば呆れながらも、透にとっては逆に、得体の知れない今の状況でこんな風に言ってくれる闇虚が自分の中にいることが、心強くもあった。

「見つけ出すことはともかく、その後は警察の仕事だ。犯人だろうが何だろうが、勝手に暴力を振るったらそれこそこっちが犯罪者になる。」

 形だけそう言うと、日が暮れつつあるのを確認しつつ、透は次の目的地に向かった。

『お、そうだそうだ。こっちに来た目的はもう一つあったんだった。』

 加納の家はあくまで、本来の目的地である場所へ行く途中で、たまたま通りかかっただけ。そういう体で、透は加納の自宅前を通りかかったのだ。帰宅してからの時間を考慮すると、次の目的地には、すぐにでも向かわなければならなかった。


 最後の目的地で用事を済ませ、帰宅後の諸々の作業が終わったのは、もう夜の10時過ぎであった。日中に闇虚から突っ込まれた銀行口座の預金の件について、警察に問い合わせようかとも思ったが、流石にもう遅いと思った透は、その日はもう休むこととした。

 翌朝、朝食も早々に済ませた透は、早速警察に銀行口座の件を問い合わせようとしたが、電話をかけようとしたまさにその瞬間、突然の玄関チャイムに遮られた。

 昨日の今日で警戒心が高まっていた透はぎくりとしながらも、恐る恐るドアに近づき、覗き穴から外を確認した。スーツを着た男性が、仏頂面で立っていた。

 訪問販売か何かだと思った透は居留守を決め、一言も発せずにゆっくりとドアから下がった。

 次の瞬間、爆発するような轟音がドアの外から響いた。

 驚愕した透は、思わず、外の様子を確かめようとドアを開けてしまった。

 開けられたドアを強引に引き破るように、スーツの男が透の部屋に侵入してきた。

 男は目を血走らせ、獣のような唸り声を上げながら、後ずさる透に迫ってくる。手には金属バットを持っていた。恐らく先ほどの爆発音は、この金属バットでドアを思い切り叩きつけたのであろう。

 己の理解を全く超える状況に、透は最早頭の処理が全く追いつかなかった。逃げる、という危機に瀕した際の生物的な反応すら起こすことができないほど、突然の事態は彼の脳を、文字通り真っ白にしてしまった。

『しょうがないねえ。』

 真っ白な透の頭の中には、ただ一人、闇虚だけが残った。

『ま、私は楽しいからいいけど。』

 透を追い詰めた男は、金属バットを振り上げようとした刹那、尻餅をついていた透が急に姿勢を整え、頭を庇う様に両腕で抱えながら突っ込んできたことに完全に不意を突かれた。

 顎に透の頭突きをモロに喰らった男は、そのまま通路に倒れこんだ。

 男は、驚愕して透を見た。彼の表情は、茫然自失としていた先程とは全く変わっており、獲物を駆り立てる猛禽類のように、瞳には残忍な光が宿っていた。

 透の身体を、闇虚が完全に支配したのだ。

 透は、いや、透の体を借りた闇虚は、踵を返して部屋に戻ると、部屋の家電やら買い置きの日用品やらを、手当たり次第に男に投げつけた。

 男は、投げつけられた備品で頭部や腕に怪我を負いながらも、それでもなお、金属バットを取り直し、殺意を込めた目で透(今は闇虚だが)を睨みつけ、突進してきた。

 闇虚は、男の突進をひょいと躱すと、先ほど投げつけていた2種類の洗剤ボトルが床に転がっているのを見て、にやりと笑った。

 男が自分に向き直ったタイミングで、2本の洗剤ボトルを思い切り踏みつけた。内用液がフローリングの床にぶちまけられ、男は足を滑らせてそのまま床に倒れこんだ。

 男は怒り狂った目で闇虚を睨みつけたが、それも僅かの間だけであった。たちまち、男の顔は苦悶に歪み、陸に上げられた魚のように口をパクパクさせながら、無様に床に転がった。

 闇虚は満足げにその様子を見降ろすと、すぐに玄関の外へ飛び出した。物音に気付いた隣室の住人たちが既に遠巻きに様子を見に来ていた。

『部屋の中で知らない男が暴れている! ガス漏れとかも起こしているみたいだから、すぐに警察と消防を呼んで!』

 透の身体を借りた闇虚は、混乱している風を装いながら、彼らに叫んだ。


「また貴方ですか?」

 駆け付けた警察に任意同行を求められ、先日と同じ取調室に通された透に、刑事が呆れたように言った。

「そんな言い方はないでしょう。私は被害者ですよ。」

 憮然とした調子で、透が言った。先日の取り調べで大体の雰囲気が把握できたことに加え、先程闇虚が大暴れしてくれたおかげか、頭の中が妙に冴え渡っていたので、透は臆することなく、刑事と対峙できた。

「また、見ず知らずの男に襲われたと?」

「そうです。」

「同じ人間が2度も連続で襲われるなんて、何か理由がなければあり得ない。何か思い当たることはないんですか。」

「ありません。知るすべもないです。」

 きっぱりと透は答えた。

 刑事は透を試すかのように、じっと彼の両目を見据えた。透もじっと、刑事の両目を見返した。

「あなたの部屋の中には塩素ガスが充満していたそうです。鑑識に調べさせたところ、酸性の洗剤と塩素系の洗剤が混合したことにより発生したもののようだ。これは一体どういうことです?」

 埒が明かないと判断したのか、刑事は話題を変えた。

「男が入ってきて私と揉み合いになった時、とにかく部屋の物を投げつけて応戦しました。多分その時に踏んづけて、洗剤が漏れてしまったんだと思います。」

 素知らぬ様子で、透が答える。無論、誤魔化しであった。塩素ガスが発生する組み合わせの洗剤は、透が暴漢対策として前日、加納の家を確認した後に購入していたものであった。最も、それをこんな早くに使用することになるとは、透自身想像していなかったが。

「それを証明できますか?」

「できますよ。カメラの映像が残っています。」

「カメラ?」

 刑事が胡乱げな目で透を見た。

「ええ。玄関の中と外、そして室内。全てに監視カメラを設置しました。男がやってきてから私が逃げるまでの全て映像が記録されています。」

 そう、昨日、加納の家を訪ねた後に向かった先の電気屋で、透は防犯用の監視カメラを購入し、帰宅後に自室に取り付けていたのだ。透の本来の目的はこの監視カメラの購入で、加納の家はあくまでその道すがら確認したに過ぎなかったのだ(収穫自体はあったが)。

「ちょっと待ってください。一昨日、加納に襲われた際はそんな話をしていませんでしたよね?」

「ええ。その時はありませんでした。私は自分が完全な被害者だと思っていたので、まさか警察が自分を疑っているなんて思ってもいませんでした。だから昨日、わざわざ監視カメラを買って自分で据え付けたんですよ。また妙なことになったら困るのでね。私は独り身なので、仮に自分が襲われたりしても、それを証明する手段がない。これ以上あなた方に疑われるのはまっぴらなんですよ。」

 詰問口調の刑事を半ば嘲るように、透が捲し立てる。あるいはそれは、闇虚の意思なのかもしれなかった。

「カメラの映像は全てお渡ししますよ。私は身に覚えのない暴行を受けた被害者なので、警察の方々には犯人をきっちり裁いてもらいたい。ちなみに私を襲ったあの男ですが、一体どこの誰なんです?」

「捜査段階の情報なので、お伝え出来ません。」

 苦虫を噛み潰したような表情で、吐き捨てるように刑事が言う。

「おかしいなあ。加納の時は私が聞いてもいないのに話してくれましたよね。」

「カメラの映像ですが、これから一緒に取りに伺ってもよろしいですか?」

 もうこれ以上話すことはないとでも言わんばかりに、刑事は強引に会話を断ち切った。

「構いませんよ。参りましょう。」

 半ば勝ち誇ったように、透が笑顔で返した。


 自宅のカメラからデータを抜き取り、透は同行した刑事に渡した。無論、紛失や改変などされては困るので、バックアップもしっかり残しておいた。

 刑事はぞんざいにデータが入ったSDカードを受け取ると、不快感を隠そうともせず、透に背を向けた。

「ああ、そうだ。」

 思い出したように、透が刑事たちの背に声をかけた。

「加納が私の口座に振り込んだっていう3000万円。あれ、どうすればいいんですかね? 必要だというのであれば、警察にお渡ししますが。」

「現状はそのままで構いません。ただし、絶対にそのお金には手を付けないでください。預金の引き出しは元々の貴方の預金残高を限度にお願いします。」

 刑事は背を向けたまま、面倒臭そうに返答し、そのままパトカーに乗り込んだ。

「ああ、それから」

 畳みかけるように、透が重ねて訊いた。

「なんです?」

「このアパートですが、引き払おうと思います。訳の分からない奴に2回も襲われた上に、周りの人たちにも迷惑をかけてしまいましたから。引っ越し先は、後で連絡します。」

「申し訳ありませんが、現場検証を引き続き行う必要がありますので、転居は後日にお願いします。」

「じゃあ、どこか別にホテルでも借りてそこに移ることにしますよ。正直、ここにはもう戻りたくもないので。」

「場所が決まったら教えてくださいね。お願いします。」

 最早聞いているのかいないのかも分からない様子で、刑事が答えた。

 透は慇懃無礼に挨拶し、彼らを見送った。

 その後、透はアパートの管理会社まで出向き、事件についての詳細を説明すると、警察の現場検証が終わり次第、退去する意向であることを伝えた。事件のことは管理会社にも伝わっていたらしく、担当者は若干困惑していたが、転居までの仮住まいとして、付近のホテルを手配してくれた。

 警察から犯行現場の保全を要求されていたため、預金通帳など、必要最低限の物だけを持ち、透は仮住まいのホテルに向かった。

 スマホの着信バイブが鳴っているのに気付いた透は、相手が課長であることに少し驚いた。今まで、仕事の関係でも自分に連絡することなどなかったのだが。

「道下か。今朝の事件のこと聞いたぞ。お前は大丈夫なのか?」

 課長はいつもの調子で、早口で用件だけ訊いた。

「ええ。問題ありません。」

 相変わらず耳が早いな、と思いながら、透は答えた。

「なるほど。アパートの部屋が酷いことになったらしいが、住居とかはどうするんだ?」

「管理会社に相談して、仮住まいを手配してもらいました。」

「念のため場所を教えてくれ。」

 透が住所を告げると、課長は「分かった。」とだけ言い、そのまま電話を切った。透と話などしたくないことは、口調からもはっきりと分かった。

『わざわざ電話なんてしてくんじゃねーよ。あのジジイ。』

 頭の中で闇虚が悪態づく。

「しなきゃいけなかったんだろ。多分。」

『だ・よ・ねぇ~』

 闇虚が、これから起こるであろう事態を夢想し、ケラケラと嗤った。


 ホテルに着き、チェックインを済ませた透は、部屋に着くとまず最初に警察にホテルの名称と住所、号室を連絡した。不快な事柄は、なるべく手早に片付けておきたかったからだ。

 時計を見ると、午後の4時を回っていた。目的の場所へ出かけるには少し早かったので、透は自宅から持ってきた郵便物を改めることとした。ここ数日はいろいろな出来事が重なりすぎて、郵便物のチェックを全く行っていなかったのだ。

「ん?」

 取るに足らないチラシや広告に交じって、1通の茶封筒が出てきた。差出人の名前は――向島樹であった。

 透は、慎重に封を開けると、中身の書類一式とUSBメモリを机の上に広げた。書類には、1枚の走り書きのメモが添付されていた。

「道下さんへ 

 色々とお世話になりました。

 詳しいことは言えませんが、少しの間、身を隠すことになりそうです。

 もし会社の中で不自由なことがあれば、この書類を自由に活用してください。書類の詳細は、中を見てもらえれば分かります。

 突然の手紙になってしまい、本当に申し訳ありません。

 それでは、お元気で。


 追伸:いつも私の愚痴と無駄話に付き合ってくれて本当にありがとうございました。最後に道下さんと一緒に仕事できて、少しだけ救われた気がします。」

 透は、メモを横に置くと、USBメモリをノートPCに差し込み、手元の書類と照らし合わせながら内容を確認した。

 内容は、およそ透が予想していた通りのものあった。書類の中には、加納英寿のほか、まさに今日の朝、透を襲った男の写真もあった。そして、透が予測していた男の名前も、その中にはっきりと記載されていた。

「……。」

 向島の直筆で書かれたメモを見ながら、透は今更ながら、向島をぞんざいに扱い、時に心の中で嘲笑していた自分を恥じた。こんなことなら、あの日、誘われた飲みにも付き合った方がよかったのではないかとさえ思えた。

『今更遅いっつーの。』

 意気消沈していた透を見かねたのか、闇虚が心の中で突っ込みを入れたが、透は何も返せなかった。全くその通りであったからだ。今更後悔したところで、向島はもう、この世にはいないのだから。

『そろそろ時間だぞ。その資料で裏も取れたことだし、後はもう、トコトンやるだけだ。』

「……そうだな。」

 透はゆっくりと立ち上がると、身支度を整え、目的の場所へと向かった。


 夕闇がうっすらと立ち込める中、目的の場所に着いた男は、怪訝そうに周囲を見渡した。

 年代物のトレンチコートを着込み、目深に帽子を被った、男の姿。その影が、夕日に照らされて、まるで塔のような影を作っていた。

 住所は確かに間違いがなかった。だがそこにあるはずのアパートは影も形もなく、漫然と車が停められた駐車場があるだけであった。

 聞き取らせた住所にミスがあったか、と思った男は、不快そうに溜息をつくと、その場を離れようと踵を返した。

「どうも。初めましてになりますかね。藤堂貴将さん。」

 藤堂、といきなり背後から自分の名前を呼ばれた男は、ぎくりと声の主を見た。

 いつの間にか、彼の背後には、透が立っていた。

「君は……」

「道下透ですよ。貴方の探している。」

 藤堂と呼ばれた男は、ばつが悪そうに目を伏せた。

「俺が住所を移動したとなれば、貴方は必ずもう一度現れる。そう思って、課長には全く別の住所を教えておきました。学生時代に住んでいたアパートで、今は駐車場になっている。」

 透は言い終わると、一歩、藤堂に近づいた。その瞳には、残忍な色が宿っていた。

「びっくりしました? 俺に嵌められたんですよ、貴方。」

 藤堂は何も答えず、目深に被っていた帽子をさらに深く下げ、透から目を逸らした。

「……何を言っているのか分からない。失礼する。」

 絞り出すように言い放ち、藤堂は足早にその場から離れようとした。

「残念だなあ。向島さんから貴方宛てに預かっているものがあるんだけど。」

「……!」

 藤堂が、驚愕した表情で透を見た。馬脚を現した、と心の中でほくそ笑んだ透は、さらに続けた。

「頭のおかしくなったウチの顧客を使って俺を襲わせたのも、多分それが理由ですよね? 向島さんを事故に見せかけて殺したはいいが、肝心の証拠書類の一式がどうしても見つからない。向島さんは独り身の上、会社で直接繋がりがあったのは、俺一人だ。俺が持っているに違いない。じゃあ、俺ごと始末してしまえばいい。そんなところですか?」

「君が、何を言っているのか……」

 明らかに狼狽し、呂律が回っていない口調で、藤堂が反駁しようとする。

「貴方のこと、向島さんからは毎日聞かされていました。水上生命株式会社役員の藤堂貴将。若い頃に向島さんと一緒に保険金詐欺の片棒を担いだりとか、かなり悪どいことをしていたそうですね? そして、最終的には向島さんを切り捨てて、役員の座まで上り詰めた。でも向島さんは、裏切られた時の保険として、貴方が不正を行っていた証拠書類一式を全て持ち出していた。貴方は向島さんに弱みを握られ、時折金を無心されていた。そして、それに耐えきれなくなった貴方は、あの日、向島さんを事故に見せかけて殺した……。」

 藤堂の顔が紅潮し、唇が震えていた。自分の人生の恥部を赤の他人に暴露されている羞恥心に耐えかねている様子であった。

 対する透は、自分を追い詰めていた主犯を逆に罠に嵌め、甚振っているこの状況に嗜虐心が激烈に刺激されていた。その昏い心の影に、闇虚が忍び寄っていることも知らずに。

「……何の証拠もない。全て君の妄想に過ぎない。馬鹿馬鹿しい!」

 耐えきれなくなった藤堂が、吐き捨てるように言う。

「そうですね。事件を調べるのは警察の仕事で、罪を裁くのは裁判所の仕事ですから。俺は向島さんから預かった資料一式を警察に提出し、捜査の結果を待つだけです。向島さんから頂いた資料には、俺を襲ったウチの顧客のデータもありますから、警察の捜査に非常に役立つことでしょう。ああ、それからついでに、貴方が俺の周りを何度もうろついていたことも併せて報告しておきますよ。」

 それだけ言い終えると、もう用はないとばかりに透は藤堂に背を向け、歩き出した。

「待て、待つんだ!」

 藤堂が、去り行く透の背に向けて叫んだ。

「……いくら欲しい? 君が希望するのであれば、向島に渡していた金の倍でも構わないぞ。いや、それだけじゃない。君を追い出し部屋から救い出し、昇進させることだって……。」

『何勘違いしてんだ? オッサン。』

 突然、口を突いて出てきた闇虚の言葉に、透は吃驚して思わず口を手で塞いでしまった。

『金? 昇進? 人一人殺しかけといてよくそんなことが言えるな。ええ?』

 透の抵抗は無駄であった。透の身体は、今や完全に闇虚に支配されていた。

「頼む。私が君にしてしまったことに関しては、心から謝罪するし、私の命が続く限り、可能な限り賠償もする。だから向島から預かった書類は、どうか見なかったことにしてくれないか。私と君だけの秘密にしてくれないか。」

 狼狽していた藤堂は、透の変化には気づかず、ひたすら哀願を続けていた。

『警察にアンタを売る気はないよ、オッサン。』

 闇虚の言葉に、一瞬、藤堂の顔が綻んだ。

『アンタのせいで2度も殺されかけたんだ。警察に捕まってハイ終わりなんて納得できる訳ねえだろ!』

 言い終わるや否や激昂した猫の如く飛び掛かってきた闇虚に、完全に虚を突かれた藤堂は仰向けに押し倒された。

『血をよこせ。お前の生き血だ!』

 闇虚は、そのまま藤堂の首筋に食らい付き、力任せに皮膚も肉も食い千切った。

 藤堂は悲鳴を上げ、渾身の力で闇虚を振り払うと、そのまま雑踏の中へ駆けていった。

『マッズ。』

 口の中に残った藤堂の首筋の肉片を、闇虚は反吐と一緒に吐き出した。

「お前、何考えてんだ!」

 頭の中で、透が咎めるように叫んだ。

『何って?』

「俺らの目的は、あいつにゲロさせて、裏をとることだろうが! 喧嘩吹っ掛けてどうする⁉」

 透は、胸ポケットに忍ばせたICレコーダーを確認した。録音自体は問題ないようであったが、闇虚(実質的には透)が藤堂を傷つけた所まで録音されたのは、どう考えても透にとってはマイナスであった。

『最初に言ったじゃん。犯人を見つけたらブチのめすって。』

「本当にやる奴があるか! というかお前、いつの間に自由に出てこられるようになったんだ?」

 透は今更ながらの疑問に思い当たった。考えてみればおかしなことであった。今まで、闇虚が自分の表に出てきて、身体まで動かしたのは、透の心理状態が限界に近い状態であった時だけであった。小瀬川の時も、前の襲撃事件の時もそうだった。今回のように、透が普通の状態であった時に、体の主導権を奪われたことなど、今まで一度もなかった。

『ん~とね、やってみたら、意外と簡単にできた。ほら、この前、あんたが部屋で襲われた時。あの時に、なんとなくコツを掴んだって感じ。』

「なんてこった……。」

 透は、頭の中で頭を抱えた。事件についてようやく解決の目途が立ったと思ったら、また別の問題が出てきてしまったのだ。しかもそれは彼自身と切っても切れない、ある意味でより深刻な問題であった。

「とにかく、これから向かう先では大人しくしていろよ。分かったな!」

 体の主導権を取り戻した透が、闇虚に厳命した。

『はい了解です、隊長!』

 全く了解などしていない様子で、闇虚が答える。

『でもその前に口を拭いた方がよろしいかと思います、隊長!』

 透は、自分の口元が藤堂の血で汚れていることに気付き、慌てて袖で拭うと、マスクで口元を隠した。


 夕闇の町を歩きながら、透は自分の中の闇虚に細心の注意を払っていた。次の目的地で、また先程のように暴れられては叶わないからだ。何しろそこは、透の職場なのだから。

 元々、透が藤堂に目を付けたのは、加納に襲われ、警察の事情聴取を受けたその日、会社で加納の顧客資料を確認していた時であった。加納の顧客資料が綴られたファイルには、水上生命の担当者として、向島と並び、藤堂貴将の名前があったのだ。

 藤堂の名前に、透は心当たりがあった。向島が毎日のように聞かせていた、自分の武勇伝と会社に対する愚痴の数々。その中には、必ずと言っていいほど「役員の藤堂貴将」の名前が出て来ていた。向島は彼のことを余程腹に据えかねていたのか、「アイツが今の地位にあるのは俺のおかげ。」「アイツは色々と知りすぎた俺が怖くなって、罠に嵌めて出世コースから外した。」「アイツの弱みを俺は握っている。だから会社は俺を首にできない。」というようなことをしきりに言っていた。そのため透も、一度の面識もないにもかかわらず「役員の藤堂貴将」の名前をいつの間にか憶えていた。

 透はいつだったか、ふとした興味から、向島に尋ねたことがあった。「その藤堂さんと、いったいどんなことをしていたんですか?」と。向島はしたり顔でにんまりと笑いながら「それは言えないよ。でも、僕がいつも言っていることさ。」と煙に巻いた。話半分で聞いていた透はそれ以上突っ込まなかったが、向島がいつも言っていたことといえば……

「会社で出世している奴なんて、全員詐欺師か悪人みたいなもんだ。」

 詐欺師。悪人。弱み。加納の保険金詐欺疑惑。不審死を遂げた向島。

 藤堂と向島は、顧客とグルになって保険金詐欺を行っていたのではないか。だが、出世に伴い、藤堂は自分の犯罪の片棒を担いでいた向島が邪魔になり、彼を追い出し部屋送りにした。その見返りとして、向島に金銭的な援助を行っていたのではないか。だが時間が経つにつれて、その関係も拗れた……。

 透のこの推測は、向島から透に送られてきた資料一式で、凡そ正しいことが裏付けられた。向島は、自分の立場が危うくなる可能性を察知し、藤堂の詐欺や不正の証拠となる資料やデータを秘かに社外に持ち出していた。彼は、それを盾に藤堂を半ば脅迫し、口止め料として定期的に藤堂から金銭を巻き上げていたのだ。

 向島から送られてきた資料の中には、加納のほか、先日透を襲撃した男のデータもあった。男もまた、藤堂、向島とグルになって保険金詐欺を働いた顧客の一人であった。資料によると、男は多額の保険金を得たものの、投資詐欺にあって殆ど文無しとなり、今は精神を病んで生活保護受給者となっている旨が記載されていた。男の写真には、向島のメモで「人間のクズ」と書き添えられていた。

 会社役員の藤堂が、今回の事件の裏にいる主犯だとすると、透の口座が加納に漏洩した経緯も、大体推測できた。いったい藤堂が加納をどう誑かして、3000万円もの金額を入金させたうえ、透を襲わせたのかは分からないが、少なくとも、透の口座を藤堂に教えた犯人は、凡そ見当がついている。ついているのだが……

「繰り返しになるが、くれぐれもさっきみたいなことはするなよ。」

 透は再度、闇虚に厳命した。先ほどのような騒ぎをまた起こされたのでは、今度こそ本当に警察に逮捕されてしまいかねない。透は闇虚の予測不可能な行動を、本気で懸念していた。

『は~い。』

 わざとらしく口笛を吹きながら、闇虚が答えた。真面目に言いつけを守るつもりなどないのは明らかであった。

 透は、闇虚の動向に注意を払いながら、目的の場所である水上生命本社ビルの地下駐車場にそっと入り込んだ。


 水上生命株式会社社員の市川恵一はその日の業務を終え、帰宅の準備を始めていた。時計を見ると、時刻は既に午後の10時を回っていた。市川が担当している経理給与の仕事は、給与支給日が近くなる時には午前様が当然なので、そう考えればまだまだ早い帰宅時刻であった。

 勤怠管理システムに終業時刻を入力し、仕事部屋の施錠を済ませた市川は、鍵を守衛室に返却すると、車を停めてある地下駐車場へと向かった。

 市川が車のロックを解除すると、不意に彼の背後から声をかける者があった。

「お疲れ様です。市川さん。」

 市川が驚いて振り向くと、そこには自宅待機中であるはずの透が立っていた。

 市川は透とは直接的な業務上の繋がりはなかったが、社内でも悪い意味で有名人である透のことは、顔や素性も含めてそれなりに知っていた。

「経理給与の仕事ってやっぱり大変なんですね。いつもこんな時間に帰ってるんですか?」

 透に関する良からぬ噂や、何らかの事件に巻き込まれたことは聞いていたし、何よりその口調が明らかに異様であったため、市川は透の問いかけには答えず、ゆっくり後ずさりした。

「お帰りのところ申し訳ないんですけど、少し話に付き合ってもらっていいですか?」

「申し訳ないんだが、疲れているんだ。また今度……」

 市川は警戒しながら車のドアを開け、半ば逃げるようにして運転席に滑り込もうとした。そんな市川の頭部を、いつの間にか距離を詰めていた透が鷲掴みにし、ドアの縁に重いきり叩きつけると、そのまま助手席に投げつけるように押し込んだ。

「痛っ!」

『痛いじゃねーよ。』

 まずい、と透が思った時にはもう遅かった。いつの間にか、再び透の主導権を奪った闇虚が、市川に暴行を働いたのだ。

 透は、半ば無理矢理、肉体の主導権を闇虚から取り戻すと、不自然な挙動で運転席に乗り込んだ。

「あ、ああ、すみませんね。ホント悪いです……」

 頭の中ではまだ闇虚が猛り狂っていることに加え、無理に身体を取り戻した影響か頭が酩酊したような状態になっていたため、呂律が回らないまま、透は市川に一応詫びた。

「お、お前、何を……」

 いきなり暴行を振るわれ、訳が分からない様子の市川が、怯えたように聞いた。

「い、いえね。ちょっと市川さんに聞きたいことがあってね。」

 必死に落ち着きを取り戻しながら、透が可能な限り冷静な口調で市川に語りかける。頭の中で『そいつをブチのめせ。』と喚きたてる闇虚を強引に押さえつけながら、透は話をつづけた。

「私の給与振込先の口座、誰に教えたんです?」

 さっと、市川の顔色が変わったのを、透は見逃さなかった。

「もうご存じかと思いますが、変な事件に巻き込まれてしまいましてね。ウチの顧客が、私の銀行口座に3000万円もの大金を振り込んだんです。私の給与振込先の口座情報、知っているのはウチの給与担当くらいだ。市川さん、当然あなたなら何か知ってますよね?」

 答えは、もう分かっている。後はどうやって、当事者の証言を引き出すかであった。透はじっと、市川の顔を見据えた。

「し、知らない……」

 顔を背けながら、市川が答える。嘘が下手な男だ、そう思いながら、透は続けた。

「そっすか。まあ、別にいいです。ウチの顧客が関係している事件である以上、水上生命に警察の立ち入りがあるのも時間の問題だ。被害者も加害者も、両方水上生命の関係者ですからね。当然、私の口座情報漏洩の一件も詰められるでしょう。事実上、私を殺そうとした殺人犯の共犯な訳ですからね。」

 共犯、という言葉に、市川の身体がびくりと動いた。

「そういう会社の厄介者がどういう扱いになるか、当然あなたなら知っていますよね?」

 市川が、唇を震わせながら、ぽつり、ぽつりと喋り出した。

「課長から、頼まれたんだ。あんたの、口座の、情報……」

「どうして課長が?」

「……」

 それ以上は言えない、とばかりに、市川が口を噤む。

「市川さん、あんたは上司の言うことにただ従うタイプじゃない。従業員の口座情報なんて基本的には絶対に教えちゃいけない個人情報だ。たとえ課長の依頼でも、その理由くらいは聞いているはずだ。」

 市川は、答えない。それ以上言えば、会社の中での自分の立場がなくなると考えているようであった。透は、ふう、とわざとらしく溜息をつくと、とどめの一押しを行った。

「実はね、市川さん。今回の事件、うちの会社の役員が関係しているだろうことはほぼ分かっているんです。私は明日、その人物の実名も含め、一連の関連資料をもって警察に出向くつもりです。その前に、貴方の証言を頂きたかったんですけどね……」

 役員、という言葉に、市川がびくりと反応した。

「でも、何か難しいようなので、ここまでにしますよ。時間をとらせてすみません。それから、さっきは乱暴なことをして本当にすみませんでした。」

 白々しい挨拶をして、透は運転席のドアを開け、そこから去るそぶりを見せた。

「役員の、藤堂貴将だ。そこから、内々に課長のところに、話があったと聞いた。」

 切れ切れに、絞り出すように、市川が透の背中に投げつけるように言った。

「……ありがとう、市川さん。本当に助かりました。」

 透が振り返り、満面の笑みで礼を言った。

 その顔を見た市川は、戦慄に身も心も完全に硬直した。透の顔の半分は能面の如く無表情で、もう半分は抽象画の如く捻じれた嘲笑が浮かんでいた。

 絶句する市川には目もくれず、透は足音だけを残し、夜の街の灯りが射しこむ駐車場の出口へと消えていった。

 闇の中には、市川だけが残された。


 夜の闇とビル街から零れる光芒に彩られた街を、透は一人歩いていた。

「頼むから、もう余計なことはしないでくれ。」

 半ば懇願するように、透は自分の中の闇虚に語りかけていた。

「明日、警察に向島さんから送られた資料一式とICレコーダーに記録した藤堂と市川さんの音声データを提出する。半ば強引なこともしてしまったが、俺たちの仕事はそれで終わりだ。くれぐれも、余計なことはするなよ。」

 なだめ聞かせるような透の言葉に対し、闇虚は不気味に沈黙していた。

「今回の件では、お前の世話になったことも確かだ。俺だけじゃあ、こんな大胆なことはできなかった。でも、だからこそ、引き際はきちんと弁えてくれ。」

『引き際を? 弁える?』

 闇虚が嗤った。

『何度言ったか分かんないけどさ、私はアンタなんだよね。私が引き際を弁えてないとしたら、それはアンタが弁えてないってだけ。』

「ああ、分かっている。だから、自分自身に対する戒めとして言っているんだ。」

 曖昧にするつもりはないとばかりに、毅然とした口調で透が言った。

『戒め、ねえ。それ、意味があると思う? 意味がないから私がいるし、意味がないから、私が行動する。』

「それはどういう意味……」

 言い終わる前に、闇虚が無理矢理、透の身体の主導権を奪った。

『アンタが本気で戒めなんてものを守るつもりなら、私はこうして存在すらしていないって訳! 私はアンタの暗い本音。アンタの中の、獣の本能。アンタが本心では、何もかもぶち壊したいと思っているから、私はここにいる。そしてアンタの心通りに、行動する。』

 行き交う人々の視線などまるで意に介さず、闇虚が透の身体で喚き散らす。透が頭の中で「やめろ、やめろ」と必死に抑え込もうとしても、全く無駄であった。意識としての熱量が、今の闇虚と透では完全に逆転していた。

 闇虚は人目を憚ることなく、今度は踊り始めた。ステップも抑揚も滅茶苦茶な、タコ踊りのような取り留めもないダンス。雑踏の中を、時に車道まではみ出てクラクションを鳴らされながら、闇虚は踊り狂った。

「やめろって言ってんだろ! 本当に、マジでやめろ!」

 耐えきれず、透は頭の中で絶叫した。自分の身体でこんな痴態を繰り広げられるのは耐えられなかった。

『心配しなくても、誰も私たちのことなんて見てないよ。』

 闇虚の言う通りであった。道行く人たちは、ちらりとこちらを見ることはあったが、殆ど無視するように、透たちなど存在しないかのように、皆通り過ぎて行った。

「……」

 透は、自分自身の感情も、道行く人々同様、次第に空虚になっていくのを感じた。

『頭のイカレた人間に目もくれないのは、この街自体が狂っているから。』

 踊りながら、ステップを踏みながら、どこか冷めたように闇虚が言う。

『踊ろうよ、透。この街には、ううん、私たちにはまだカーテンコールは早すぎる。』

 いつの間にか、透は沈黙していた。夜の闇よりも暗く深く、闇虚の存在が透の心を影で飲み込んでいくようであった。

 闇虚と透は、誰に気付かれることもなく、夜の闇に消えていった。


 藤堂貴将は、首の痛みで目を覚ました。

 そっと首筋に手をやると、応急処置を施した包帯越しでも、鋭い痛みが走った。ベッドから身を起こし、シーツを改めると、うっすらと血の跡が残っていた。付け焼刃の応急処置であったため、包帯越しに血が滲み出てしまったのであろう。

 藤堂は、舌打ちすると乱暴にシーツを取り払い、ゴミ箱に無理やり押し込んだ。家族に見られると余計な詮索をされかねないので、後で自分でこっそり処分しなければならない。そのことが、余計に藤堂の気分を暗澹としたものにさせた。

 藤堂の気分とは裏腹に、窓からは、暖かな朝陽が室内を照らしていた。窓の外からは、登校中の小学生のものと思われる朗らかな笑い声が響いてきた。そしてそのことが、余計に藤堂を不愉快な気分にさせた。

 藤堂は、無作法に寝間着を脱ぎ捨てると、タートルネックの部屋着に着替えた。首の傷を上手く隠すには、その恰好しかなかったためだ。藤堂はすぐにリビングに向かうと、体調不良のため、1日休暇をもらう旨、会社に電話を入れた。心配そうに自分を見つめる妻にもその旨を伝え、朝食を軽めにとると、すぐに自室に引きこもった。首の傷のことは、家族にも話していないし、絶対に余計な勘繰りをされるため、藤堂は気づかれることを恐れていた。

 自室の椅子に重い腰を下ろし、藤堂は深く溜息をついた。

 何故、こんなことになってしまったのか。

 自分が、犯罪に関わっていたというのは確かに事実だ。だがそれは、自分にそのやり方を教えてくれた、先輩が、同僚がいたからだ。そして自分が、他の誰よりも手際よく、それを行えるだけの能力があったからだ。そもそもにおいて、一番悪いのは保険金詐欺を働こうとしている顧客である。自分は、様々な事情がある彼らの行為を黙認し、手続きとしては正当なやり方で保険金の支払いを行い、その代価として見返りを得ていただけ。悪事の根幹は、詐欺を行った顧客の側にある。それを、あろうことか自分が親身になって世話していた部下の向島は、保険金詐欺の元締めだ、犯罪者だと喚き出だし、自分に口止め料を要求し始めた。

 藤堂の心には、自分自身の身上に対する被害者意識的な怒りしか湧いてこなかった。自分自身が犯した数々の犯罪行為に対する悔恨の情は皆無であった。

 藤堂は、こめかみを抑えながら、微かに呻いた。彼は、自分をこのような状況に追い込んだ向島に対し、心の奥底からふつふつと湧き上がる憤懣を抑えきれなかったのだ。

 向島の集り行為に対し、藤堂は苦々しく思いながらも、毎月可能な限りの援助はしてきたつもりであった。だが、それにも拘らずあの男は、1週間前に突然「証拠資料をもって警察に出頭する」と言い出してきた。金ならば言い値で払う、と藤堂がいくら宥めても、向島は「自分の人生はもうただ終わっていくだけだ。だからせめて、過去に犯した罪の精算をしたい。」と言って一向に聞く耳を持たなかった。かつての向島からは考えられないような、青臭い台詞。それにも虫唾が走ったが、何よりも藤堂の逆鱗に触れたのは、彼がもうすぐ取締役に昇進するかもしれないというこの時期に、向島がそんなことを言い出したことであった。人生に悲観した向島が、自分を道連れに破滅しようと考えていることは明らかであった。

 藤堂は、努めて冷静を装い、向島の意向を尊重するふりをして、彼と再度話し合いの場を設けることで合意した。そして、あの日、終業後に話し合いの場に向かう向島の後をこっそりとつけた藤堂は、人混みに紛れ、向島を駅のプラットホームから突き落とした。悲鳴と怒号が響き、騒然となるプラットホームを、藤堂は帽子を眼深にかぶり、あくまで野次馬のふりをして立ち去った。彼の本当の目的は、向島のアパートにあるはずの、自分の保険金詐欺の証拠書類であった。向島のアパートの合鍵は、既に作成済みであったため、部屋に入るのは容易であったのだが、肝心の書類がどこを探しても見つからなかった。焦った藤堂は、頭を絞って考えた。向島が、ロッカーや貸金庫の類に書類を保管していたとすれば、特に問題はない。ロッカーに放置されたままの荷物は自動的に処分されるし、貸金庫に保管されていた書類が仮に向島の親族の手に渡ることがあっても、素人目であの書類の意味を理解することはまずできない。念には念を入れて、向島の親族には「向島さんが会社の顧客名簿を社外に持ち出していたようなので、遺品の中にもしそのようなものがあれば返却願います」と伝えておけば盤石である。藤堂にとって一番まずいのは、向島が他の誰かに書類を預けている場合であった。

 藤堂はふと、向島の机の上に無造作に置かれている紙きれに目を止め、それを手に取った。紙切れは、つい昨日発送された、特定記録郵便の受領証であった。宛先は、道下透。

 その文字を見た瞬間、藤堂の頭が、ぐらりと揺れた。恐れていた通りではないのか。向島は、自分に何かあった時の保険として、自分と同室のあの道下とかいう問題社員に、書類一式を託したのだ。まだ確実とはいえないものの、藤堂にはそう思えて仕方がなかった。

 何としても手を打たなければ、と藤堂は焦燥に駆られた。向島と同室の道下とかいう社員は粗暴な性格で、先輩社員に暴行を働き、追い出し部屋送りになったと聞く。そんな男に自分の弱みを握られたら、向島どころの騒ぎではない。下手をすると、自分も家族も破滅してしまうかもしれない。不安が不安を呼び、不安が疑心暗鬼を、疑心暗鬼が、逆上に近い怒りを連鎖的に呼び起こした。

 藤堂は、向島のアパートの室内を丁寧に元に戻すと、誰にも見られぬように気を付けながらその場を後にした。途中、郵便物の有無を確認できないかと、特定記録郵便の受領証に記載された透のアパートを訪れてみたが、ちょうど帰宅してきた透に気付き、慌てて逃げるようにその場を立ち去った。透のアパートの郵便受けはドアに備え付けになっており、外からは郵便物の有無は確認できないようになっていた。

 歩きながら、藤堂はこれからどうするべきか考えていた。道下とかいう男には、消えてもらうほかない。そのためには、どうしたらよいか? 考え抜いた末、藤堂は、自分の人生にとって邪魔なもの同士をぶつけてしまおうと考えた。

 藤堂はすぐに、自分のかつての顧客であり、保険金詐欺の片棒を担いだ加納英寿に連絡した。加納は、多額の保険金を手にしたものの、警察に保険金詐欺の疑いをかけられ、近隣住民にもその噂が広まったことから、事実上の村八分のような状態となり、孤独に過ごしていた。藤堂は、アフターケアと称して時折加納の家を訪ね、話し相手になっていたが、無論これは、加納が血迷って余計なことをしでかさないか監視するためでもあった。実際、近所付き合いなども殆ど無い加納は、加齢により次第に精神的に不安定な状態になることが多くなっていた。

 藤堂はまず、自分の部下であった向島が亡くなり、後任として道下透という者が本件を担当することとなった旨を、加納に告げた。併せて、社内のコンプライアンスが厳しくなり、過去の不適切な取引の有無を確認する内部監査が近日中に行われること、その対策として、一旦、加納の銀行口座に振り込まれた保険金を全て透の銀行口座に移すことを提案した。無論、これは一から十まで藤堂の口から出まかせである。加納は当然困惑したが、藤堂には長年世話になっていたこと、また難しそうな言葉を並べて半ば脅かすように喋る藤堂の口調に不安を感じたことから、透の口座に預金の全額を預けることを承諾した。

 藤堂は、すぐに会社の経理課長に連絡すると、透の給与振込先の口座番号その他の情報を聞き出した。そして加納に対し、本日中に必ず入金手続きを完了するよう念を押した。

 そして、加納が渋々自分の預金を透の銀行口座に移した翌日、藤堂はさも困った風を装って、加納に連絡した。

「道下が、君の保険金を掠め取ろうとしている」と。

 加納は当然困惑し、藤堂に食って掛かった。貴方を信用したのに、一体どういうことなのか、と。藤堂は、さも自分も苦悩しているかのように答えて言った。

「あの金は、事実上、保険金詐欺で得たお金です。その金を取られたからと言って、警察にも相談できないし、そんなことをすれば、自分たちが逮捕される。道下は、そこを理解したうえで君の金を奪い取り、さらに我々を恫喝するつもりなんです。」

 さらに藤堂は、立場的には自分が一番危うい、申し訳ないが、少しの間身を隠したいと思う、と、取り乱す加納を突き放すように言った。

 追い込まれた加納は、縋るように言った。

「その、道下さんという方の電話か住所を教えてください。もうこうなったら、直接掛け合ってみます。」

 今にも泣きだしそうな声で、加納が電話口で叫んだ。

「それは非常に危険だと思います。貴方の身に何があるか分からない。道下は、社内でもかなりの問題児で、顧客への暴力事件も起こしたことがある。」

「自分だって、腕っぷしには多少自信があります。向こうがそういう態度をとるのなら、こちらだって相応の対応をするまでですよ!」

 藤堂は、内心ほくそ笑みながら、電話口の向こうで透への怒りを募らせる加納に、あくまで冷静を装って対応した。

「分かりました。でも、くれぐれも無茶なことはしないでくださいね。」

 藤堂は、加納に透の住所を教えると、満足げに電話を切った。

 自分の生活資金を丸ごと奪われたと思い込んだ加納は、明らかに混乱し、精神的に不安定な状態となっていた。一方の透は、今回の件など知る由もない。加納が透のところへ殴り込んでも、全く話は噛み合わない。そうなれば当然、今の加納であれば、実力行使に出ることであろう。当然、加納は警察に捕まるであろうが、彼の奇行は近隣住民の誰しもが知っていることであるから、何を言ったところで、まともには取り合ってくれまい。仮に自分の名前が出たとしても、白を切り通す自信が藤堂にはあった。後は、向島から透に送られた証拠書類一式をどのタイミングで回収するかだが、それは透さえいなくなれば、後からいくらでもチャンスはある。

 杜撰極まりない考えであったが、その時の藤堂には、最善の策のように思えていた。


 そして、杜撰な計画の当然の帰結として、加納による透の襲撃は、藤堂の予想もしえなかった結果となった。

 加納は透に重傷を負わされて病院送りになり、透の方は殆ど無傷だったのだ。

 藤堂は、予想外の展開に自分の見込みの甘さを悔いた。聞くところによると、加納は喉に大けがを負い、喋ることすらできない状態だという。これ自体は、藤堂にとって不幸中の幸いであった。加納の口から、余計な証言が出ずに済むからだ。

 だが、警察が透を今回の重要参考人と見なしているという情報は、藤堂の不安な気持ちを掻き立てた。警察が、透と加納の間に何らかの諍いがあったと見るのは、まあいい。だが、そうなると必然的に、警察は透の身辺の洗い出しを行うだろうし、場合によっては、向島から透に送付された書類一式が警察の手に渡ることにもなる。そうなれば、もう何もかも終わりである。状況は、藤堂が思っていたよりも最悪の状況に向かいつつあった。

 藤堂は、矢も楯もたまらず、総務課長に透の自宅待機を命じると、秘かに、透の動向を探ることに決めた。あの男がもし本当に向島の書類を読んだのだとすれば、もう悠長なことはしていられない。藤堂は、場合によっては強硬手段も辞さないつもりでいた。

 だが藤堂の思惑は、またしても外れた。藤堂が透のアパートに向かう途中、総務課長から「自宅待機を命じた道下透ですが、私物を取りに一時的に出社し、先程帰宅しました。念のためご報告します。」というショートメールが届いた。藤堂は、自分の判断ミスを悔いた。社史編纂室には過去の顧客名簿が保管されている。当然、加納やその他の保険金詐欺の共犯達のデータもその中に含まれている。透はひょっとして、向島から送られた書類の裏付けを得るため、私物を回収する名目で出社したのではないか? 

 藤堂は眩暈がし、思わず総務課長に怒りの電話をしようとしたが、ぐっと堪えた。そんなことをすれば、きっと余計な勘繰りをされて、今後会社に警察の立ち入りなどがあった際、何を言われるか分からない。

 焦りに駆られた藤堂は、急いで会社の方に戻り、その道すがら、透の姿を見つけた。以前一度透の自宅アパート前で鉢合わせしていたため、透の顔は見間違えようがなかった。藤堂は意を決し、そっと、気付かれないように、その後を追った。

 透は、藤堂が向島を殺害した駅の構内へと入っていった。藤堂は、一瞬躊躇したが、焦りと不安が後押しし、透の背を追って駅の構内に入った。

「何をするつもりなんだ、あの男……」

 苛立ちと不安から、疑問がつい藤堂の口を突いて出る。

 透は、向島が転落した駅のホームに立つと、無言で手を合わせていた。

「……」

 取りこし苦労だったか、という安堵と、曲がりなりにも同僚の死に手を合わせる透と、犯行の露見を恐れる犯罪者である自分との対比による羞恥心が、藤堂の心の中で渦を巻き、彼の心を居た堪れない気持ちにさせた。そして、そんな場違いな感情が、藤堂の心に隙を生じさせた。

 藤堂が顔を上げると、自分の方を凝視する透と目が合った。まずい、と思った藤堂は踵を返し、人混みを掻き分けて必死にその場を逃げ去った。

 背後をちらりと見ると、透の方も人混みを掻き分け、藤堂を追ってきているのが分かった。透が、自分を怪しんでいるのは明らかであった。その時、藤堂は今更ながら、向島が死んだ日、透に自分の姿を見られたことを後悔した。藤堂はもはや恥も外聞も無く、行き交う人々に滅茶苦茶にぶつかりながら、脱兎のごとく駅を飛び出すと、小さな小路に逃げ込んで何とか透を巻いた。

 壁にもたれかかり、荒く息をつきながら、藤堂は「何故自分がこんな目に」と自分の運命を呪った。もう少しで取締役に就任し、引退後は静かに余生を過ごすだけというところで、何故こんな不幸ばかりが自分を襲うのか。なぜ自分が、こんな犯罪者まがいのことをして、怯えて暮らしていかなければならないのか。それというのも全て、あの向島が余計なことをしたからだ。加納が不甲斐なくて、道下透を殺し損ねたせいだ。そうだ、あの道下透とかいう奴を、これ以上のさばらせておくわけにはいかない。

 事ここに至っても、藤堂の心に改悛の情などは皆無であった。


 被害妄想に近い怒りに駆られた藤堂は、既に正常な判断ができなくなっていた。藤堂は、かつての保険金詐欺の共犯で、今も藤堂とつながりがある者のうち、とりわけ反社会的気質の人物を選び、その人物に透の殺害を依頼した。

 そして、その人物も透に重傷を負わされ、殺害に失敗した。

 藤堂の心は、ここにきて不安や焦燥よりも、恐怖に苛まれることが多くなっていた。道下透という人物、本来の藤堂の立場であれば歯牙にもかけないようなクズ社員。それが今や、藤堂の生殺与奪の権利を完全に握っている。藤堂の浅知恵による抵抗など全く無意味で、真綿で首を締めるように、じりじりと藤堂を追い込み、破滅の縁に立たせようとしている。確たる証拠はないが、藤堂にはもうそれが既成事実であるかのように感じられた。

 自分は、一体どうなってしまうのか。

 藤堂に考えられることは、自分の身を守ること、ただそれだけになっていた。いっそのこと、土下座でも何でもして透に許しを請おうとさえ考えた。だが――自分を2度も殺そうとした人物を許せる人間が、どれだけいるだろうか。ましてあの道下透という人間は、すぐにカッとなって目上の人間にも暴力を振るう男なのだ。自分を殺そうとした男たちを、2度も返り討ちにしたような、極めて暴力的な男なのだ。許してもらえる可能性など、万に一つもありそうになかった。

「だが、他に手があるのか?」

 藤堂は、思わず口に出して自問した。そう。他に手はない。透の殺害は2度も失敗して、もう動かせそうな駒は無いし、何よりこれ以上はリスクの方が大きい。さりとて警察に相談すれば、自分は犯罪者として処罰される。

 自分は、もう詰んだのだ。あの道下という男に、頭を下げて許しを請う以外に、道は無いのだ。

 真っ白な諦観が、藤堂の心を埋めた。藤堂は総務課長に電話すると、透の事件について、会社として把握していることを聞き出した。総務課長には、今回の事件について、社として透の動向を把握しておくよう命じていたため、課長は既に事件後の透の状況について確認済みであった。透は現在、仮住まいとして別のアパートに住んでいるとのことだったので、藤堂はそれとなく住所を聞き出すと、忘れないようにメモに認めた。

 死ぬ気で土下座して、何とか許してもらおう。藤堂は、腹を括った。我ながら甘い考えだと思いながらも、藤堂にはもう他に残された手段など無かった。


 そしてやはり、見込みの甘い願望は無残にも打ち砕かれた。

 透は藤堂の裏をかき、偽の住所に彼を誘き出したのだ。虚を突かれた藤堂は完全に混乱し、相手のペースに乗せられるまま翻弄され、そして、殺されかけた。

『金? 昇進? 人一人殺しかけといてよくそんなことが言えるな。ええ?』

『血をよこせ。お前の生き血だ!』

 悪鬼のような形相で襲い掛かる透の貌が、血も凍るような刺々しい言葉が、決して消すことが出来ない傷跡として、藤堂の心に刻み込まれた。首筋の傷を手で押さえ、一人孤独に夜の街を逃げ去る藤堂の心には、最早周囲を行き交う人々も、街の灯りも映ってはいなかった。どこまでも、どこまでも、道下透という恐怖の象徴が、彼の心を囲繞し、逃げ場のない真っ黒な袋小路へと追い込んでいくようであった。

 自宅に逃げ込み、家族にも殆ど声をかけることなく自室に閉じこもった藤堂は、布団を頭から被ると、まるで子供のように朝方近くまで震えていた。心配した妻がドアの向こうから声をかけたが「気分が悪いだけだ」と答えるだけで精一杯であった。

 そして今、藤堂はただ自室で、呆然と中空を見上げることしかできなかった。自分が為すべきことも、取るべき行動も全く浮かんでこない、白紙のような心理状態であった。

 ちらり、と壁に目をやると、年代物のトレンチコートと帽子が藤堂の目に留まった。確かあれは、水上生命に入社して、最初のボーナスで購入したものであった。藤堂にとっては思い出の品であったが、今はもう見たくなかった。コートと帽子は、昨日透に押し倒された際、泥と土に汚れ、至る所が擦り切れてボロボロであった。まるで、今の藤堂自身のようであった。よく見ると、コートの首筋には、血痕が付着していた。あれもすぐに捨てなければならないな、と、藤堂は何の感慨もなく思った。

 昼過ぎに、妻がトレイに乗せた昼食を持ってきた。妻は「無理なさらないでくださいね」とだけ言うと、トレイに乗せた昼食と、自分宛だという郵便を机の上に置き、静かに部屋を出て行った。

 漫然と昼食をとり始めた藤堂は、ふと、自分宛だという郵便物に目を向けた。茶封筒に入った郵便物だが、宛名以外、差出人の名前も無ければ、切手も貼っていない。直接投函されたものであることは明らかであった。

 藤堂は、嫌な予感がして、茶封筒を手に取ると乱暴に封を破った。

 中には、写真が入っていた。通学途中の長男と長女を写した写真。近所の主婦と雑談する妻を写した写真。ベランダで洗濯物を干す妻を写した写真。そして、望遠レンズで撮ったと思われる、自室で呆然と座りつくす、まさについ先ほどまでの自分の姿を写した写真――

 真っ白で何も浮かんでこなかった藤堂の空虚な心が、深海の汚泥よりも真っ黒に染め上げられた。送り主は、考えるまでもない。道下透である。奴以外には考えられない。一体如何なる意図で送りつけたのかも明白である。奴は、自分の私生活を完全に監視しており、いつでも手を下せる、という脅迫だ。それ以外には考えられない。

 写真の間に挟まるように、1通のメモが入っていた。メモには、荒川沿いの公園駐車場の住所と、日付が記載されていた。日付は、今日の20時。

「この時間に、ここに来いということか……」

 金銭の要求か、あるいは別の何かの要求か。メモにはそれ以上何も書かれていないため、藤堂には推し量ることしかできない。だが、先の透の態度からして、ただ金銭や他の何かを要求されるだけでは済まないのは明白である。

 藤堂は、頭を抱えて考え込んだ。一体、これから先どうすればよいのか。警察に助けを求めれば、自分も犯罪者として処罰され、家族の人生もまた破滅してしまう。かといって、あの道下透という男には、命乞いや金銭による取引など通用しない。それは、昨日のやり取りではっきりとした。あの男は、ただ自分を甚振り、その人生を破滅させることを喜びとしているのだ。なぜ自分が、あんな男の毒牙にかからなければならないのか。自分でなくとも、水上生命の中だけでも、もっと悪どい奴などいくらでもいるはずではないか。どうして、どうして自分だけが……

 どす黒く淀んだ藤堂の心の底に、逆上に近い怒りの火がふつふつと燃え上がり始めた。

「そうだ。何も難しいことなんかない。殺してしまえばいいんだ、あんな男は。」

 他人を暴行し、脅迫し、その人生を脅かそうとする者など、生きている資格のない社会のクズだ。そんな人間一人片付けることを、何故躊躇する必要があるというのか。

「殺してやる。殺してやるんだ。」

 怒りに沸騰する藤堂の頭は、既に正常な判断などできない状態になっていた。藤堂は、以前登山用として購入していたサバイバルナイフをクローゼットから取り出すと、鞄の中にしまい込んだ。


 藤堂は車を走らせ、指定された時間に荒川沿いの公園駐車場へやって来た。

 駐車場には、藤堂の車の他には1台の軽自動車しか駐車されていなかった。もともとこの公園は街灯なども無いため、夜間に立ち入りする人間はほぼいないのだから、当然と言えば当然であった。そして、ヘッドライトに照らされたその軽自動車の傍らに、人影が見えた。

「あれか……!」

 藤堂は、怒りに震える心を落ち着けると、鞄の中に隠したサバイバルナイフを改めた。ここに来るまで、何度もシミュレーションは済ませたし、実際に部屋の中で何度も練習した。やるべきことはただ一つ、あの道下透とかいう奴を殺すことであった。幸いと言っていいか、この公園は灯りも殆どなく、確認した限り人目も全くない。殺すには、絶好のロケーションであるように、藤堂には思えた。

 藤堂は、努めて平静を装いながら、車から降りた。ヘッドライトの光輪の中に、透の姿が浮かんで空いた。一度殺されたのだから間違えようがない。憎むべき男の姿であった。

「約束通り来たぞ。用件は何だ。」

 怒りで叫び出したい気持ちを押さえつけながら、藤堂が透に語りかけた。

 透は、何も答えずに、ゆっくりと藤堂の方へ歩み寄る。

 藤堂は、身構えた。後少しでも近づけば、鞄からナイフを取り出し、刺し貫いてやるつもりであった。

 透は、藤堂が立っている場所から数メートルの位置まで来ると、不意に足を止め、ヘッドライトの光の外側へ身体をずらした。

 暗がりに逃げるつもりか。透の突然の行動に焦った藤堂が鞄からナイフを取り出そうとした刹那、殺虫剤を噴霧するような音が周囲に響いた。

 一瞬、藤堂は困惑したが、その困惑は長くは続かなかった。奇妙な噴霧音が鳴り響いてすぐに、目が、口が、喉が、皮膚が、炎で焼き焦がされるような激痛に襲われた。藤堂は、最早何を見ることも、何を叫ぶことも、何をすることもできず、文字通り殺虫剤を受けた虫の如く、地面に転がった。

『オイオイ、こんな物騒なモン持ってたのかよ。正当防衛して正解だったな。』

 透が、正確には透の身体を借りた闇虚が、藤堂の手から転がったサバイバルナイフを足蹴にしながら、白々しいような口調で言う。最も、当の藤堂には、その言葉を聞いていられるような余裕はなかった。それも無理からぬことであった。闇虚が暗がりから藤堂に浴びせかけたのは、熊避けスプレー。10m以上の射程を持ち、猛獣すら撃退するほどの強烈な催涙ガスであったからだ。

 闇虚は、手に持ったスプレー缶を放り捨てると、ゆっくりと藤堂に近づいた。その手には、細身の鉄パイプが握られていた。

 薄っすらと取り戻しつつある意識の中で、藤堂はまたしても自分の見込みの甘さを悔いた。そう、暗がりで、人目も無いという殺人にとって格好の条件は、相手にとっても同じなのだ。怒りと焦りに駆られ、藤堂はそんな単純なことすら見落としていたのだ。だが、そんな悔恨の念は、次の闇虚の行動によって強制的に断ち切られた。

 闇虚は鉄パイプを振りかぶると、一片の容赦もなく、藤堂の身体を滅多打ちにした。藤堂は、かろうじて残る意識で身を守ろうとして身体を丸めたが、それが命取りとなった。呼吸困難となった状態で、背中を思い切り打ち据えられ、藤堂は内臓が口から飛び出るようなショックを受けると、そのまま意識を失った。

 透は、闇虚の中で、ただその様子を見ていた。止めるべきだ、と思ってはいたが、どういう訳か、そういう気分にはなれなかった。どのような破滅が待ち受けていようと、闇虚のしたいようにさせよう。諦観とも達観ともつかない、そんな気分であった。

 闇虚は、意識を失った藤堂の身体を引きずると、車の助手席に放り込み、予め用意していた手錠で後ろ手に拘束した。さらにその首にチェーンを巻き付けると、ヘッドレストに括りつけてこちらも固定した。

『さてと、最後のドライブに参りましょうか。役員殿。』

 運転席に乗り込んだ闇虚が、鼻歌を歌いながら、車のエンジンをかける。

 哀れな犯罪者と狂乱の犯罪者を乗せた車が、破滅の淵に向けて走り出した。


 右足を吹き飛ばされるような激痛で、藤堂は飛び起きた。

 視界が開け、次第に意識も覚醒してくるが、彼は自分が置かれている状況が、すぐには理解できなかった。

 藤堂は、首を回して周囲の状況を確かめようとした。だが、首はチェーンで固定されてピクリとも動かなかった。腕を動かそうとしたが、後ろ手に縛られて動かなかった。拘束されている、ということを理解した瞬間に、隣から声をかけられた。

『お目覚めか、オッサン。』

 藤堂は、動かない首の代わりに眼球だけを無理矢理動かし、自分の隣を見やった。道下透が、自分を殺そうとした男が、ハンドルを握っていた。ここにきて、藤堂は自分が車の助手席に拘束されているという事実に気付いた。

『しっかしアンタもひどい男だな。コレで私を殺そうとしたんだろ?』

 透の身体を借りた闇虚が、左手で藤堂のサバイバルナイフを弄ぶ。

 藤堂は、眼球を下に向け、先程激痛が走った右足を見た。黒のスーツの上からでも分かるほど、鮮血が滲んでいる。よく見ると、スーツには細長い切れ目が生じている。

 この男が、ナイフで突き刺したのだ。

 藤堂は今更ながら、自分の置かれている状況に恐怖した。

『だからまあ、その傷は自業自得ってことで。それにアンタに気絶されたままだと話ができない。』

 滅茶苦茶な論理であったが、今の藤堂には反駁する気力も、激昂する勇気も無かった。

 藤堂は、必死に叫び、助けを求めようとした。だが口から洩れるのは、まるで欠伸のような呻き声だけであった。呼吸をするたび、声を出そうとするたびに、先程鉄パイプで殴られた傷と喉に食い込むチェーンが、藤堂の体を苛み、大声を出すことすら叶わなかったのだ。

『そんな焦んなよオッサン。まだまだドライブは続くんだよ?』

 闇虚たちを乗せた車は、草の生い茂る堤防を駆け上り、車の侵入が禁止されているはずの歩道を猛スピードで駆け抜け、進入禁止のバリケードを突き破り、そのまま市街地を突き抜けていく。

 この男は、正気ではない。何度そう思ったかは知らないが、命の危機に晒された今、藤堂は改めて、そんな男に関わってしまった自分の非運を呪った。そして、そんな男に、自分は今、生殺与奪の権利を完全に握られている。恐怖が、生きることへの執着が、藤堂の身体全身に湧き上がってきた。

『アンタと話したいことはただ一つ。本音だ。アンタが今感じていること、話したいこと、全部率直に話せ。』

 淀みなく、闇虚が言う。いずれにせよ、藤堂に選択の権利などなかった。

「た、たすけて、助けて、助けてっ!」

 身も世もなく、藤堂は自分の助命を嘆願した。実際、今の藤堂にはそれ以上望むものは何一つなかった。

『助けて、か。でもさ、仮に私がアンタを今ここで開放しても、それでアンタは助かるの?』

「……?」

 闇虚の言わんとすることが全く呑み込めず、藤堂は沈黙した。

『向島から送られてきた、アンタがやらかした保険金詐欺その他の証拠書類一式。この前の駐車場でのアンタとの会話記録。ついでに経理給与担当の市川がゲロった『役員の藤堂貴将が課長経由で道下透の銀行口座番号を聞き出した』っていう証言記録。ぜ~んぶ、今日のうちに警察に提出してきたわ。』

 藤堂は、自分の心が、闇黒よりも暗い闇の内に堕ちていくのを感じた。

 無駄だった。全部無駄だった。向島を殺したことも、杜撰な策を弄して透を2度も殺そうとしたことも、今まで自分が守り続けてきたものも、これからの自分の人生も、水上生命に入社してから、いや、この世に生れ落ちてからの、自分の全てが、全て無駄になったのだ。

 藤堂は、虚空を見つめたまま、死んだように固まった。実際、最早社会的には死んだも同然であった。

『お、意外と早いな。もう嗅ぎつけたのか。』

 呆然自失となる藤堂には目もくれず、闇虚は、サイドミラーに明滅する赤色灯を可笑しげに見つめた。藤堂も、バックミラーに移る赤色灯と、それが持つ意味に、愕然として意識を取り戻した。夜の街を切り裂くような赤い明滅が、ミラーの中で次第に大きく、その数を増す。それと共に、聞き覚えのあるサイレンが獣の咆哮のように、彼等の乗る車を揺すった。

 背後から、何台ものパトカーが、闇虚と藤堂が乗った車を追跡していた。

 

 苦々しげにパトカーのハンドルを握りながら、その刑事は挑発するように前方を蛇行する車を睨みつけた。

「山形さん、応援を頼みますか?」

 無線機から、困惑した様子の部下の声が社内に響く。

「ああ。付近を警邏中のパトカーも、来れる奴は可能な限りこっちに回してくれ。」

 山形と呼ばれた刑事は、苛ついた口調でそう命じた。

 山形寿人は、透が襲われた2件の殺人未遂事件の担当刑事であった。先の2度の取り調べで、山形は透に対して不審な印象を得ていたが、事件の全容も見えなければ、被害者と加害者の間に確たる繋がりも見えないことから、捜査は若干難航していた。そんな中、今日の昼過ぎ、透が警察署に表れ、受付に山形宛の荷物を預けるとすぐに立ち去ったという連絡を受けた。外出中であった山形は急いで所に戻り、その荷物を開封した。その中身は驚くべきもので、水上生命において過去に行われていた保険金詐欺の証拠書類一式と、その首謀者である藤堂貴将という男が、今回の事件に関しても関与しているという音声データ、そして一連の経緯を詳しく書き記した、透の手紙であった。山形はすぐに藤堂の家を訪ね、「主人は外出中です」と困惑する藤堂の妻を半ば押し切るように、藤堂の部屋の中に立ち入った。そして机の上に散らばる写真の中に、件のメモを見つけた。

 山形は、嫌な予感がしてすぐに透に連絡した。だが透は電話には出ず、宿泊先のホテルにも問い合わせたが、今日は午前中から出かけていてまだ戻っていないという回答であった。もしやと思い、メモに書かれた住所に急行したところ、山形が恐れていた通りのことが起こっていた。

 放置された藤堂の車と、その周囲に残る血痕、引きずったような跡。そして、現場から急発進していった車。山形は、すぐに警察本部に照会し、その車のナンバーが透の借りたレンタカーであることを突き止めると、すぐに追跡を開始した。

「もっとあの道下という男に注意を払うべきだった!」

 舌打ちしながら、山形は自分の判断の甘さを悔いた。道下透のことは、最初の取り調べの時から、理由は分からないが不審な印象を受けていた。何かを隠し、何かから目を逸らさせようとしている、決して信用してはいけない人間。刑事の嗅覚で、山形は透の中にある残虐な本性を感じ取っていた。山形は透に監視を付けることも提案したが、まだ現時点での透は「被害者」の身分であるため、それは署内で却下された。あの時、もっと頑強に押し通していれば……。悔やんでも悔やみきれない事態に、山形は歯噛みした。

「あの男、一体何をするつもりだ……?」

 遠目で確認する限り、車を運転しているのは透らしい。そして、助手席にも何やら人影らしきものが見える。生きているのか死んでいるのか分からないが、恐らく藤堂貴将であろう。

「何としてでも、絶対に生きて逮捕しろ! あの二人は今回の事件の重要参考人だ!」

 無線機越しに、山形は部下たちに檄を飛ばした。そう、二人とも今回の事件の重要参考人なのだ。死なれたりなどしたら、事件の全容は不明なままになる。警察の面目は丸つぶれだし、何より山形の刑事としてのプライドが許さない。

「逃げられると思うなよ!」

 制限速度などどこ吹く風で街中を疾走する透の車を追いながら、山形は獲物を追い詰める猛獣の如く吠えた。


 スピードに酔い、まるでゲームに興じるかのようにハンドルを操り、警察とカーチェイスを繰り広げる闇虚の隣で、藤堂は最早自分がいる場所が現実なのか、それとも彼の妄想なのかの判別がつかなくなっていた。

 これは、一体なんだ?

 満身創痍の自分を乗せて、狂気に駆られた処刑人が、夜の街を疾走している。その後ろを、また別の処刑人達が群れを成し、ぎらつく光と警報を猛り狂わせ、追い縋っている。そう、どちらも処刑人。藤堂を追い詰め、殺す者だ。どちらが勝っても、藤堂は殺される。そして今の藤堂には、逃げる術はおろか、命乞いの余地すらない。

 これは、本当に現実なのか。現実であっていいのか。こんな現実を、受け入れていいのか。否、現実であれ妄想であれ、こんな訳の分からない状況を、受け入れていいはずがない……

 心の彼方に消え去っていた怒りが、藤堂の心の中に再び燃え上がった。

 藤堂は、ありったけの力を振り絞り、肉体だけではなく心の内側すら削り取る勢いで自身の縛めを振りほどこうと暴れまわり、体を揺すった。首を拘束したチェーンと、両腕を拘束した手錠が皮膚に食い込み、鮮血が車内に飛び散ったが、それでも藤堂は暴れ続け、声帯をズタズタにする勢いで呪いの言葉を吐き散らした。

「クソ野郎がっ! 何でテメエみたいなガキのせいで俺が……。死ねっ! テメエも向島も、警察も他の奴らもみんな、みんなくたばって死ね!」

 恥も外聞も、最早何の意味もないとばかりに喚き散らす藤堂を、闇虚は楽し気に横目で見た。

『ずいぶん元気になったじゃん、オッサン。そうだよ、その意気だ。』

 急ハンドルを切って車を小路に突っ込ませ、そのままスピードを落とすことなく走り抜けながら、闇虚は笑った。当の藤堂は、闇虚が急ハンドルを切ったため、そのままの勢いで首を拘束するチェーンがさらに食い込み、悶絶していた。

 虚を突かれた背後のパトカーが、まごつきながら旋回し、小路に入ってくるのが、バックミラー越しに闇虚の瞳に映った。まだ少し、藤堂と話す時間は有りそうだった。

『ちょっと話は変わるけどさ、さっきアンタを待っている間、堤防の向こうにアレが見えたんだよね。ほら、東京拘置所ってやつ。』

「な、何……?」

 闇虚の言わんとしていることが理解できず、思わず藤堂は聞き返した。

『ほら、アレ。死刑囚とかがブチ込まれている監獄。凄いよねぇ、日本の法律に基づきこれから確実に殺されますって奴等が市街地の近くにいるんだよ? でもだーれも気にしない。目を向けることも無い。ひょっとしたら、死刑囚がいるってこと自体、知らないのかもしれない。』

「……」

 藤堂には、闇虚の言わんとしていることの意味が、全く分からなかった。だが、言葉の端々から感じ取れる邪悪な意図が、じわじわと藤堂の心を不安に塗りつぶしていくのを感じた。

『私たちも同じ。街の人はみんな、ただの迷惑で運転が下手な車としか思ってない。その中に誰がいるのか、何をしているのか、だ~れも興味がない。』

「う……」

 藤堂は、改めて車外の風景を見た。夜の街には、まだ人々や車が行き交っているが、藤堂達に目を向けるものは誰もいない。たまにちらりと見やる者もいるが、その殆どは「迷惑な車」に対する視線であり、命の危機に瀕した藤堂を見るものは、誰もいない。

「俺は、今、殺されそうになっているんだぞ……?」

 憐れみを請う様に、助けを求めるように、藤堂は首を振り動かし、必死に車外の人々に気付いてもらおうと悲鳴のような絶叫を上げ続けた。

 目を向けるものは、誰もいない。

 藤堂の目から、いつの間にか涙が零れ落ちていた。涙は止めどなく流れ落ち、やがて藤堂は、子供のように嗚咽し始めた。それでも、彼に視線を向けるものは、誰もいなかった。

『ああ、そうそう、最初の話だった。私に死ねってことだよね? うんうん、OKOK。』

 赤子のように泣き叫ぶ藤堂には目もくれず、闇虚が再び話題を変えた。藤堂の慟哭など意識の外にすらない様子であった。

『ただねえ、この状況だとちょっと……』

 闇虚は再び急ハンドルを切ると、市街地を通り抜け、港湾の倉庫が立ち並ぶ区画へと突入した。

「⁉ お、お前、何を……?」

 闇虚の無軌道としか思えない行動に、藤堂は今日もう何度目になるかも分からない驚愕の声を上げた。

『私に死ねってことはさ、オッサンも助からないってことなんだよねぇ。』

 倉庫の間を縫うように、闇虚と藤堂を乗せた車は突き進んでいく。その背後を追うパトカーの中で、山形は得体の知れない焦燥感に駆られていた。

「あいつ、何をするつもりだ? まさか……」

 自分の悪い予感が当たらぬように祈りながら、山形はアクセルを踏み込み、何とか闇虚達の乗る車の前に回り込もうとした。だが、倉庫だけでなく各種コンテナや搬出用のクレーンなどが立ち並び、照明すらも満足にない状況では、前の車に追いつくことはおろか、事故を起こさぬように走るだけでも精一杯であった。

「あ、ああ、止め……」

 自身の運命を悟った藤堂は、最後に残った希望を絞り上げるように、助命を懇願した。

『残念賞。もう選択を取り消すことはできませ~ん。』

 冷酷に、嗜虐的に、最後通告のように言い放つと、闇虚はもうすぐ目と鼻の先まで迫った東京湾に向けて、アクセルを全開に踏み込んだ。

 車止めを突き抜け、闇虚と藤堂を乗せた車は宙を飛び、そのまま放物線を描いて海面に叩きつけられた。

「しまった!」

 恐れていた事態が目の前で起こってしまった。山形はパトカーを止めると、闇虚達の車が飛び込んだ海縁へ駆け寄った。

 山形は、懐中電灯を取り出すと、海面を照らした。水面には泡がまるで沸騰した湯のように沸き立っている。人影のようなものは、見えない。

 山形は舌打ちすると、すぐにパトカーに戻り、容疑者を乗せた車が海に飛び込んだこと、引き上げのための手配を早急に行ってほしい旨を伝えた。


 透は、どこまでも冷静に、沈みゆく車を、闇虚の中から見ていた。

 海水が一気に流入し、車内は数秒と待たず、塩辛く不潔な東京湾の水で満たされた。

 落水の衝撃と、車内が海水で満たされたことによる呼吸困難は想像していたよりも凄まじく、もうすぐ、自分の命が消えてなくなるという根源的な恐怖を、透の身体に惹起した。

 いや、惹起していることが、透には分かった。身体の主導権を闇虚に譲っている今の彼には、自分の身体の状態すら客観的な観察対象でしかなかった。

 透は、ふと、隣に縛り付けられていた藤堂を見た。希望も何もかも粉々に打ち砕かれたせいであろうか。藤堂は焦点の定まらない眼で、既に事切れていた。最早何の興味も無かった透は、闇虚の方に目を戻すと、二度と藤堂の方には目を向けなかった。

『あは、死ぬ、のかな。私たち……』

 海面に叩きつけられたショックはやはり大きかったようで、闇虚は酩酊したような呂律の回らない口調で、透に語りかけた。

「死にたいのか?」

 透は、わざと突き放したように話した。

『さあ……。透は、どうしたい?』

 弱弱しい様子で、闇虚が訊く。

「お前と同じだよ。」

 ゆっくりと、身体の主導権を取り戻した透は、藤堂が透を殺すべく持ち込み、そして闇虚が奪い取ったサバイバルナイフを握った。

「俺達にはまだ、カーテンコールは早すぎる。」

 裂帛の気合を込め、透はフロントガラスに向け、サバイバルナイフを振り下ろした。

 砕け散ったガラスが海中で雪のように舞い、透と闇虚は誘われるように、車外へと飛び出た。透は、目指すべき水面に向かって、暗い水を蹴って進んだ。闇の帳を思わせる水面には、街の光であろうか、幾つもの輝きが交錯し、まるで万華鏡を思わせる美しさであった。

 水の底から見る夜空は、こんなに綺麗だったんだな。

 不思議な感動を覚えながら、透はその光を掴み取るように、水面へと昇った。

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