(2)

 既に限界だった。

 息が上がった。呼吸がままならなかった。

 体が重く、片膝立ちの状態を保つことすら難しかった。

 地面に両手を付く。その手が震えた。支えきれずにうつ伏せに倒れる。

 完全に限界だった。

 もっとやれると思っていた。出来ると思っていた。やらなければならないと思っていた。

 いや、やりたかった。

 見忘れるはずのない空色の鞘。

 兄が扱っていた――兄と共に戦ってくれていた【沈根しずね】。

 なんとしても取り戻したかった。自分の手で絶対に取り戻したかった。

 故に無理をした。意地を張った。

 妖斬妃にすべてを任せれば容易に片はついたかもしれないと解かっていても、椿は自分の手で取り戻したかった。かつて慕った兄と同じ顔をした相手から。同じ顔をしながら、決して浮かべるはずのなかった相手を蔑むみ馬鹿にした笑みを浮かべ、侮辱した相手から。

 今の自分の実力ではまだまだ満足に戦えないことは分かっていた。

 それでも自分の力で取り戻したかった。

 本来であれば、妖斬妃に自分の体を貸し与えるよりも、妖斬妃自身に戦わせた方が効率も良く疲労もしない。

 だが、それでは何の意味もなかった。

 ただ力を与えて戦ってもらうのでは意味がなかった。

 これまではそれでも構わなかった。【揺り籠刀】は妖斬妃にとって仲間であり子供たち。慕い慕われた者たちが眠っている刀なのだから。それを取り戻す約束だったのだから。

 だが、今回ばかりは違った。

 相手が【沈根】を持っていなかったら。

 相手が兄の顔をしていなかったら。

 こんな無謀極まりなく無意味な意地など張ってはいなかった。

(悔しい)

 とにかく悔しかった。自分の実力のなさが。体力のなさが。

 少し数に押されただけで動けなくなる自分が。

 歳を重ねるにつれ、纏う時間も長くはなっていた。

 動けなくなる限界もそれなりに把握はしていた。

 それでも今回は、どうしても自分の手で取り戻したかった。

 ドクドクドクと全身が脈打っていた。

 呼吸が全く整わない。

 動けない。

 相手にまだ一太刀も与えていないというのに。

 悔しさに涙が滲んだ。

 泣いて堪るかとばかりに力いっぱい目を閉じる。

《無茶をさせたのォ》

 すぐ傍にやって来た妖斬妃が労う。

 未だに妖斬妃の力を受けきれない、役立たずの器の椿を。

 気遣われることが尚更悔しかった。

《じゃが、残念ながら外してしもうた》

 それすら、椿の体が限界を迎え、悲鳴を上げたせいだという自覚が椿にはあった。

 自分がもっと強ければ、妖越しにあの忌々しい男も両断できたはずだった。

 妖斬妃をもってしても操り切れぬほどに椿の肉体は限界に達していた。

《できれば先ほどの一撃で終わらせたかったんじゃがのォ。暫し耐えろよ》

 倒れたまま起き上がることすら出来ない椿の頭を一撫でし、その躰が真紅の刀身へと帰って行く。

 それだけで、たったそれだけで、椿は一向に整わなかった呼吸がだいぶ楽になったことを感じた。心なしか体の重みも軽くなったような気がした。

 普段であればさほど気にならないことすら嫌でも自覚させられてしまうほどに弱った状態で、少しばかりでも体力を回復させようと、気遣われた。

 ただしそれは、絶対的な戦力を手放したことに等しかった。

 残されたのは疲労困憊の満足に動くことも出来ない小娘が一人だけ。

 椿は歯を食いしばって。体を起こした。

 相手は生きているのだから。傷一つ負わずに生きているのだから。

 だが、地面についた手の痺れと震えはまだ取れなかった。

 片膝立ちになることすら難しかった。

「ったく。飛び道具なんてどこまで反則的な力を持ってんだ。だがまあ、その力であっても俺を仕留めることは出来なかったがな」

 勝ち誇った声が降って来る。

 昔々、兄が健在だった頃も同じような口振りで勝ち誇られたことはあった。

 その当時も、十分に椿は不愉快になったし怒りを覚えたが、今感じている怒りに比べたら、どれだけマシか分からない。

 不愉快だった。心から。

 気に入らなかった。心から。

 ただでさえ腹の立つことばかりだというのに、傷口に塩を塗り込むような男の声が。口振りが。存在が。動けぬ椿を動かした。

(絶対に、負けてなるものか)

 心が折れてなどいないと見せつけるために、椿はビキビキと涙を呼び込むほどの痛みに耐えながら顔を上げ――

「なっ……」

 目に飛び込んで来たものを見て言葉を失った。

 男が、【沈根】を抜いていた。

 ぼろぼろに刃こぼれした空色の刀が、月明かりを受けて鈍く光る前に、《それ》はいた。

「し、沈根……」

 その姿を見た瞬間、止める間もなく椿の両目から涙が溢れた。

 沈根の姿を見たのはあの日の夜だけ。最初で最後。

 それでも、その目の覚めるような姿は椿の脳裏に焼き付いていた。

 兄と同様の、力強く勝気な笑みを浮かべた妖だった。

 これまで見たことのない、晴れ渡った青空のような青い衣を纏った少年。

 白目がなく、全てが黒目で虹彩だけが縦に割けていた。

 兄の後ろに晴れ渡った青空が見えたような気がした。

 気持ちのいい風が吹いて来たような気がした。

 その鮮やかさは、ほんの一瞬の邂逅だったとしても、鮮烈な印象を椿に与えていた。

 恐ろしさよりも親しみが湧いた。また会いたいと思った。会えるのだと思っていた。

 だが、違った。二度と会うことはなかった。

 兄共々、二度と。生きて動く姿を見ることはなかった。

 たった一日で全てが変わった日。

 それ故に、印象に残った【揺り籠刀】。

 それが、今、変わり果てた姿で、立っていた。

 見目鮮やかだった青い衣はボロボロだった。煤けていた。

 浅葱色の頭の上で結わえられた長い髪は煤けた上でざんばら状態。白い肌はくすんでいた。

 晴れやかな空はそこにはなかった。

 居たのは、曇天。

 勝気な笑みに成り代わって浮かんでいるのは、今にも泣きだしそうなもの。

 目頭が熱くなった。喉の奥が痛みを覚え、胸が恐ろしい力で締め付けられた。

 止める間もなく涙が零れた。堪えられなかった。

 晴れやかな空を背にした兄の姿が蘇る。

 どこまでもどこまでも広がる空のような兄だった。

 その兄が持つ刀は、空を現したかのような、恐怖を覚えた子供の心を一時でも虜にするほどに輝かしい妖だった。

 それが、変わり果てていた。

 六年。

 長くて短く、短く長い時が流れていた。

 その間に、兄と共にあった空は穢されていた。

 その姿を見たら、兄は一体何を思っただろう。

 考えただけで涙が溢れた。

《お嬢……》

 と、ひび割れた声が呼び掛けて来た。

 呼びかけるだけで後が続かない悲痛な声。

 見れば、沈根の顔も泣き顔に歪んでいた。

 唇を噛んだ沈根を見た瞬間、椿は察した。

 どうか自分を見ないでくれと恥じているのを。

 悔しかったのは、苦しんで来たのは、自分だけではなかったのだと椿は知った。

 一体どんな暮らしをして来たのだろうかと想いを馳せる。

 刀の身で自由になることはない。よしんば具現化できたとしても、気に入らない持ち主を殺めたとしても、そこから先は何もない。刀の身で自由に動き回ることは出来ない。

 手には具現化した己自身を持つことは出来る。だが、本体そのものを持てるわけではなかった。あくまでも、持ち主がいない限り【揺り籠刀】に封じられた妖は動けない。

 だからこそ、どれだけ悔しく、もどかしく、辛い思いをして来たのだろう。

 故に、椿の胸にさらなる怒りの焔が燃え上がった。

(絶対に、取り戻す)

 怒りは力を生み出した。

 もう限界を迎えていたはずだった。

 それでも椿は、足に力を込めた。

 自分の体ではないかのように重くままならないながらも、やっとの思いで片膝立ちになったとき、

《逃げろ! お嬢!》

 切羽詰まった沈根の声がした。

 自分でも奇跡だと思った。

 まるで後ろから妖斬妃にでも引っ張られたかのように仰け反ると、その鼻先スレスレを刃こぼれしたくすんだ空色が通り過ぎて行った。

 ヒュッと心の臓目がけて悪寒が走り抜ける。

 全身が激しい鼓動に合わせて震えた。その首を、がっしりと掴まれる。

 一瞬で椿までの距離を縮めた男の手だった。

 気道がものの見事に塞がれた。

「かっ……は……」

 息が、出来なかった。

 本来、腕を上げることすら出来なくなっていた椿に、その拘束から逃れる術はなく。

「苦しいか? 苦しいよな?」

 男は、兄の顔のまま、兄の声のままに椿へ問い掛けた。

「人間の体は本当に脆いからな。嬢みたいな細い首は片手で楽々折れる自信はあるぜ?」

 実際、疑いようがなかった。

 掴まれたままに、じわじわと持ち上げられて行く。

《やめろ! お嬢から手を放せ!》

 耳鳴りすら始まる耳に、焦った沈根の声が聞こえて来た。

 姿はもう見えなかった。

 むしろ、あれだけボロボロの状態で姿を現せたこと自体が奇跡だったのだと今更のように気が付いて、涙がポロポロと零れ落ちれば、

「おお、おお。あれだけ大暴れしていた嬢でも泣くと年相応だな」

 揶揄する言葉が椿の自尊心をズタズタにした。

 見せたくはなかった。見られたくはなかった。

 どんなに苦しくとも、負けを認めたくはなかった。

「……まぁだ、そんな目が出来るのか」

 苦しい中でも意地になって睨み付ければ、恐ろしく冷めた笑みを浮かべて感心される。

「だからと言って、今更何が出来る? もう妖斬妃を具現化するだけの力もないんだろ?」

 違う! とは言えなかった。

 もしも次に無理矢理具現化させれば、おそらく椿の心の臓は鼓動を止める。

 それが解かったからこそ、妖斬妃は姿を消した。

 だが、簡単には認めることなど出来なかった。

 椿は睨んだ。完全に無抵抗だと思っている男の顔を。

 兄に似ているだけの男の顔を。

 男は兄ではない。兄と同じ顔をしているが兄ではないと言い聞かせ、椿は――

「ふ、ざけるな!」

 渾身の力を込めて男の顎を蹴り上げた。

「ぐっ」

 まさか、蹴り上げるだけの力が残っているとは思っていなかった男は、ものの見事にその一撃を喰らい、大きく仰け反ってよろめいた。

 お陰で締め上げていた手が離れ、椿は落下。咳き込みながらも肺腑に空気を送り込む。

 負けたくはなかった。絶対に負けたくはなかった。

 体は思うように動かない。頼みの綱の妖斬妃はあえて刀に戻って椿の疲労を回復させようとしている。腕が重かった。足が重かった。手に力が入っていない。握っているはずの刀の感覚がまるでない。

 それでも、椿は負けたくはなかった。

『世の中最後は根性がものを言うんだよ』

 にやりと笑いながら言い切った兄の言葉を思い出す。

『諦めた奴から終わりは来る。諦めなくたって終わりは来るけど、それでも、死ぬまでは生きてるんだ。粘れば粘っただけ何かが起きる――かもしれない。だから、辛い時ほど根性見せなきゃならねんだよ』

 度重なる言いつけを破って罰を与えられていた時の兄の言葉を思い出す。

 その時は、一体何が兄をそこまで逆らわせるのだろうかと思ったものだった。幼心に黙って言いつけを守っていれば、罰をこなすまで屋敷にも入れず食事も与えないなどと辛い思いをせずに済むのに……と理解不能だった。

 だが、今は。今のこの状況では、その言葉が何よりも椿の力となった。

「何がおかしい」

 顎をさすりつつ、男が不機嫌も露わに問い掛けた。

 その意味が、一瞬椿には分からなかった。何故なら、自分が笑っていることに気が付いていなかったのだから。

 一体誰が笑っているのかと問い返しそうになって、ふと気が付き、更に笑いたい衝動が込み上げて来た。

『笑いたいときは笑え。到底笑い時じゃなかったとしても、笑いたくなったら笑えばいい。笑えば大抵悪い状況も良く見えて来る』

 無責任極まりなく思えた言葉が思い出される。

 不思議と心が軽くなった。

 暗く沈んだ心に小さな光が灯るように、体の芯から暖かくなる。

 だから、椿は笑った。ニッコリと。

 男は訝しげに顔を顰めた。

「何がおかしい? 嬢? あんたはもう動けないはずだ」

「そうか? お前の顎に一発入れてやったと思うが?」

 やせ我慢だろうが意地だろうが何でもよかった。

 脂汗が滲もうと、血の気が引いて頭が痛もうと、吐き気がしようと、椿は笑った。

 引き攣っていることは百も承知。それすらも相手に筒抜けだということも承知。

 それでも笑うと、不思議と力が漲って来るようだった。

 一方で、男の顔が不快気に歪む。

 椿は、その顔が見たくなかった。

 腹が立った。

 だから、椿は当然のように一歩を踏み込んだ。

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