(3)

 意味が、分からなかった。

 何をしたのか、分からなかった。

 自分の手に、境土の腹部へ短刀を差し込んだ時の感触が生々と残っていた。

 心が震えていた。信じられなかった。

 意味が分からなかった。

 いつの間にそんな物を隠し持っていたのか分からなかった。

(俺が、叔父さんを、刺した? 何故?)

 頭の中がごちゃごちゃになっていた。

 その一方で、やたらと心が高揚しているのも感じていた。

 まるで、自分の体にもう一つ別の感情が入り込んでいるかのように。

 ゾッとした。血の気が引いて寒気を感じる。

 自分の体が、何者かによって操られていた。

 その紛れもない事実が、さらに柊の感情を、思考を、搔き乱す。

 柊は嗤い声を聞いていた。

 欠け始めた月の下。降って来そうなほどの数多の星々が見下ろす中、柊は民家や商家の屋根の上を飛ぶように駆けていた。

 比喩でもなんでもなく、文字通り、飛ぶように駆けていた。

 本来の柊が出来ることではない。

 それでも、上下する視界が。足の裏に伝わる振動やしなる筋肉が、頬を撫でる風が、音が、感触が、全てが柊の体が感じているものだと告げて来る。

 故に柊は気が付く。自分の耳に届く嗤い声が。ずっとついて来る嗤い声が、自分の声だということに。

 何も楽しいことなどなかった。嗤いたいことなどなかった。

 むしろ泣きたかった。自分の身に起きたことを知って。察してしまって。

 柊は、

(ぼくは――)

 妖憑きとなっていた。

 自分の身に妖が宿っていた。

 一体いつ入り込まれたのか。まったく思い当たる節がなかった。

 妖の感情に乗っ取られ、柊は境土を刺していた。

(叔父さん!)

 自分の体が勝手に動き、心の臓を狙った一撃を咄嗟に腹部に変えられたのは奇跡以外の何物でもない。

 だが、それを最後に体の自由は奪われた。

(一体いつ、どうして心に入り込まれた?!)

 泣きたい気持ちで考える。現実逃避のように考える。

 妖憑きは、心の弱った者に取り憑くもの。

 だとすれば――

(俺は、馬鹿だ……)

 時々おかしなことを考えると思っていた。ふと我に返り、何を考えていたのか分からずに呆然となることがこの数日何度かあった。

 押さえつけられていた感情が理性を喰らい、増長させ、憎ませた。

 他でもない、境土を。

 自分が認めてもらいたいがために、羨んでいた境土を消してしまいたいと望んでいたのだと思い知らされた。

 死にたかった。呪いたかった。

 他の誰でもない、自分自身を。

 顔向けなど出来なかった。二度と顔など合わせられるものではなかった。

 自分が気が付いたのであれば、境土も若草丸も、椿も妖斬妃も、柊の身に起きたことを察していることだろう。

 柊が境土を憎んでいたということを。邪魔だと思っていたということを。

(そんなことはないのに!)

 涙で視界が歪むも、心は締め付けられるどころかますます高揚していった。

 感謝しても、し足りない存在だった。

 柊が強くなるために必要な存在だった。

 生きるために必要な人だった。

 挫けそうになる自分を、時に励まし、時に叱咤し、厳しく優しく育ててくれた。

 目標だった。誰よりも大きな存在。

 泣くと途方に暮れたような顔をした。熱を出して寝込んだ時は、不安そうに付き添ってくれた。大好きだと言えばニヤニヤと嬉しそうにしてくれた。

 走馬灯のように共に過ごした時が蘇った。

 恨む理由などどこにもなかった。憎む理由などどこにもなかった。

 むしろ、思い出したことで思い至ったことがあった。

(あの人は、俺のために戍狩を辞めたんだ)

 戍狩の仕事は危険だった。長く家を開けなければならなかった。自分一人であれば何も気にすることはなかっただろう。だが、子育て経験もろくにない男が子供を引き取り育てるのに、戍狩の仕事をしながらは無理だった。

 いつの頃か、聞いたことがあった。『お仕事は大丈夫なの?』と。

 境土は答えた。「お前がもっと大きくなって手が掛からなくなるまで休んでるんだよ」と。

 そんなことさえ忘れていた。忘れて嫉妬して内心で責め立て腹を立てた。

 頭を力いっぱい殴られたような思いだった。

 絶望すればするほど、柊の中の妖が喜び、存在感を主張する。

 じわじわとじわじわと、闇が柊自身を飲み込んで行くような恐怖心に恐れ戦いた。

 嫌だった。このまま喰われてしまうのは嫌だった。

 何の役にも立たないどころか、叔父まで傷つけて戦力を失わせた。

 長屋に現れた妖たちがどこから現れたものか分からない。

 だが、自分の中の妖の一言で、奴らが雪崩れ込んで来たことは事実。

 妖斬妃と椿の心配はしていない。

 心配するとすれば叔父の境土。そして、同じ長屋に暮らしていた先輩網目衆たち。

(どうか。どうか。無事でいてください。俺は、こいつだけは絶対に許しませんから)

 耳障りな嗤い声を止めるかのように唇を噛む。

 強く強く噛み締める。

 途端に憎悪が膨らむのが分かった。

 一気に魂を喰らい尽くさんとする圧力が柊を襲う。

 負けてはならなかった。闇に呑まれそうになりながらも抗う。

 消されてしまうという恐怖が嫌でも沸き起こる。

 嗤い声の代わりに、何事か囁き声が聞こえて来る。

 意味は聞き取れない。もしかしたら囁き声ですらないのかもしれないが、何かが柊の耳に届いていた。

 とても心がざわめいた。涙が滲み、心が締め付けられた。

 それでも、柊は余計な声を退けるために考えた。考えに考えた。

 思考を途切れさせてはならないということだけは本能的に察していた。

 幸い視界は自分のものだった。体の自由はほぼ完全に奪われてはいるが、目も耳も鼻も、情報は共有出来ていた。

 故に知る。上空から見下ろすことはないが、自分がどこへ向かっているのかということを。

(このまま進めば、先にあるのは金森神社……)

 何故そんなところへ妖は向かっているのか。

 近づくたびに、自分の中で高揚感の中に歓喜の感情が強くなるのを感じていた。

 その感情は柊も知っていた。

 自分の帰りを待ってくれている者に会える喜びを押さえられないときに感じるもの。

(この先に誰かが待っている?)

 柊は屋根の上から降りる。駆ける。地面を風のように、ぐんぐんぐんぐん。景色が背後に流れ行き、やがて柊は見る。

 境内へと続く階段の途中に腰掛ける一人の男を。

 その姿を見た瞬間、柊の胸は……いや、妖の心は高鳴った。

 一方で、柊は驚愕に目を見開く。

 そこにいたのは、柊の見知った男だった。

 顔の左を長い前髪で隠し、膝に肘をついて左の手のひらに乗せている男。

 肩から市松柄の布を纏い、自分目掛けてやって来る柊を見てニヤリと笑った男は、

(何故?)

「よお。意外と早く帰って来たな」

 右手を軽く上げて、実に気安い口調で迎え入れたその男は――

 四之助の証言をもとに金森神社で顎に火傷のある男を捜していた際、唯一の目撃情報をくれた干支の木彫り職人。その人だった。

(何故あなたが?)

 戸惑う柊の心とは別に、柊の体は階段を駆け上り、男の前で片膝を付いて頭を垂れた。

 その頭の上に厚みのない硬い手を乗せると、くしゃくしゃと撫でながら木彫り職人は言った。

「まだ坊の自我は残っているのか?」

 面白がるような声だった。

 お陰で柊は理解した。

(そうか。こいつが犯人だったんだ)

 全身がざわついた。自分の間抜けぶりに、簡単に騙されていた自分に、怒りが瞬時に燃え上がる。

「ぐ!」

「おお。怖い怖い」

 今すぐにでも掴み掛からんと手を伸ばそうとするも、拘束されているかのように動かない。

 それでも木彫り職人は手を引っ込めて怖がって見せた。

 にやにや、にやにやとふざけた笑みを張り付けて。

 怒りで相手を傷つけられるなら、今この瞬間を置いてないほどに、強く強く怒りを覚える。

「その目を見ると、まだ自我はあるみたいだな。さすが網目衆と言うところか? だが、疑うことを知らなさすぎるのも問題だぞ? 知らない奴から変な物を貰っちゃいけないと教わらなかったか?」

 言われた瞬間、柊は鮮明に思い出した。

 頑張れと励まして投げてよこした戌の置物を。

 持っていると良いことがあると言われ、御守りのように後生大事に持ち帰った置物を。

 それが依り代になっているなど思いもしなかった。考えもしなかった。

 何一つ疑いなどしなかった。

 励まされたことが嬉しくて、唯一の情報をくれたことが嬉しくて、願掛けのように戌の置物に弱音を吐いた。

 それがそのまま妖の養分となっているとも知らずに。自分との架け橋となっているとも知らずに、柊は自身を励ますように弱音を吐き出し気持ちを切り替えて来た。

(馬鹿だ! ぼくは馬鹿だ!)

「まあ、そんなに自分を責めるな、坊。普通は気が付くもんじゃない。気が付かない方法を時間をかけて見つけて来たんだからな」

 慰めるように馴れ馴れしく肩を叩かれるも、柊に振り払うことは出来なかった。

 せっかく妖憑きを増やした方法が分かったというのに、それを伝えることが出来なかった。

 せっかく妖憑きを生み出していた犯人を見つけたというのに、それを伝えることが出来なかった。

 椿が探し求めていた【揺り籠刀】を持っているかもしれない妖刀使いがここにいた。

 ギリギリと奥歯を噛み締める。

 体よ動けと自身に命じる。

 捕らえなければならなかった。教えなければならなかった。

 目の前の男から、取り戻さねばならなかった。

 妖斬妃が捜していた【揺り籠刀】を。

 椿が探し求めていた兄の形見である【沈根】を。

 それが、許されるはずもない裏切り行為を結果的に働いてしまった柊が出来ること。

 許しを乞うためではない。

 自分の命を二度も救ってくれた妖斬妃と椿のために。

 二人が探し求めていた刀を取り戻す。

 何が何でも取り戻す。

 その一点だけに集中する。

 どうすれば妖を喰らえるのか。

 方法など分からない。

 それでも、

(負けてなるものか!)

 持てる力を持って、力の限り睨み付ける。

 木彫り職人の男は、そんな柊に同情するかのような笑みを浮かべて言った。

「ま。どれだけ抵抗できるか見ものだな」

 揺るぎない余裕に怒りが燃え上がる。

 奪われた体ごと燃やし尽くせとばかりに怒りが込み上げる。

 だが、柊の怒りに呼応するように、妖の力が膨れ上がるのが解っていた。

 生まれた怒りが、端から喰われる。

 燃え盛る焔が、熱が、奪われる。

 ひやりとした冷たさが、恐怖を伴ってやって来る。

 無視できないほどの恐怖がやって来る。

 発狂しそうなほどの恐怖と闇が、容赦なくやって来る。

 一瞬でも気を抜けば、一飲みされそうな圧力が押し寄せて。

 木彫り職人の男は、柊を見て嗤っていた。無駄な抵抗を試みると。

「どうせ帰る場所もないんだ。下手な抵抗なんて試みずに、俺の元へ下れ。その方が坊もきっと幸せに過ごせるぞ」

 痛いところを優しい声音で突かれて、大きく動揺した時だった。

「それ以上、そいつの心を弄ぶな」

 静かな怒りを滲ませた聞き覚えのある声が背後で上がった。

(何故?!)

 聞こえるはずのない声だった。

(何故?!)

 いるはずのない声だった。

「案内人にする相手を間違えたな」

 刹那、怒りで目の前が赤く染まった。

 弾かれたように振り返った柊の視線の先で、真紅に輝く抜き身の太刀を手にした娘が一人。

 長屋にいるはずの、椿がそこに、立っていた。

 歓喜に胸が打ち震えた。

 捜しに来てくれたことに、辿り着いてくれたことに感謝した半面。

「あれ? もう追い付いて来たのかい? そんなに長屋に送り込んでおいた手駒は弱かったかな?」

 さして気にした様子もなく、警戒する様子もなく問い掛ける木彫り職人の男。

 実際、どうしたのかと柊は思った。

 だが、疑問に思っている時間はなかった。

「ま。たった一人でどこまでやれるか。君を殺せば君の持つ《妖斬妃》は俺のもの。精々無駄な努力をしてみるがいいさ。こんな時が来ること見越して、手塩にかけて育てた手駒と、人間相手には効果絶大の相手を君に送るよ。さあ、行け!」

 刹那。空気が震えた。震えるほどの殺意と妖気が一体に広がり、その場を埋め尽くさんばかりの妖の群れが椿を取り囲むように出現していた。


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