ep7.すりおろし林檎のヨーグルト②

 登校して高森の席が空席なのを一応目で確かめてから、僕は自分の席に着いた。だいたいいつも高森のほうが早く登校している。だからふだんは僕が教室に入るころには高森はもう自分の席に座って、授業の準備をしたりしているのだ。僕はいつも来るのはわりとぎりぎりだった。そんなに早くから教室にいたくない。

 僕とは無関係の教室内の喧噪にまぎれながら、鞄から教科書や筆記用具を取りだす。時間割を確認すると、一限目は数学だった。僕は教科書の束のなかから数学の教科書を探す。

 SHRを終え、短い休憩を挟んですぐに数学の授業が始まった。今日の欠席は高森だけだった。高森の席は窓際寄りの、少し後ろ側だ。僕は廊下側の最後列なので、少し左に視線をやれば高森の席は確認できる。教室内の様子も見渡せた。

 授業を流して聞きながら教室内の様子をちらりと確認すると、机に向かった生徒たちが真剣に板書をしているなか、高森の席だけがぽっかりと空いていた。それをしばらく眺めてから、僕も前に向き直って板書を写し、出題された数学の問題を解いていった。

 今日の日付から導きだされた出席番号の生徒が問題を当てられ、数式の答えを解答していく。幸い僕は当たらなかったので、ただ黙々とノートをとってひたすら問題を解いた。

 いつもと何ら変わりのない朝だった。

 二限目も三限目も、特に何ごともなく過ぎていった。高森の不在は僕にたいした影響を与えなかった。休憩時間に邪魔が入らないぶん、むしろ静かで快適だとさえ思った。

 いつもは休憩時間になるたび、僕の席に決まって高森がやってくる。そうして何かと僕に話しかけてくるので僕もしょうがなくそれに付き合うのだが、今日はその高森がいない。

 僕は授業の合間の休憩時間を余すところなく読書に充てた。昨日から新しく読みはじめた小説がちょうど面白くなってきたところだった。別に高森が疎ましいわけではないのだが、やはりこうして一人で過ごす時間もいいものだと改めて思う。

 読書に集中しはじめると、教室内の喧噪も一気にすっと遠くなる。自分だけの時間が流れる。その空間のなかで、僕は悠々と活字を追った。

 何だか久しぶりに開放的な気分だった。たまにはこんな日があっても悪くないなと思った。


 僕が一人であることに気がついたのは、昼休みになってからだった。もちろん僕は朝からずっと一人だったわけだが、改めてそれを自覚した。

 チャイムが鳴って午前の授業が終わると、教室内はにわかに騒がしくなった。がたがたと机を寄せて弁当を広げはじめたり、人気の商品を求めて購買に駆けていったりと、忙しない。僕は取り敢えず財布とスマホと、それから食後に読むつもりの文庫本を持って教室を出た。廊下を行き交う人の波に混じってゆっくりと購買に向かう。

 高森はいない。購買に行くのも一人だし、どこで食べるかを決めるのも一人だ。今日は何を食べようかと相談する相手もいない。

 思えば僕は今日、学校でまだひと言も発していなかった。けっきょく午前の授業では指名されることがなかったので、喋る機会は一度もなかった。購買に向かう途中の廊下で楽しげに話しながら歩く佐宗とすれ違ったが、僕から話しかけることはなかったし、もちろん向こうから声をかけてくることもなかった。

 佐宗はもう購買に行って昼を購入して戻ってきたところのようだ。いつもどおり自身のグループの男子と一緒だった。おそらく話に夢中になっていて僕には気がついていなかった。そもそも気がついたところで、高森が一緒ならばともかく僕一人相手では喋りにくいだろう。

 購買は相変わらず混雑していて、何度も人の波に揉まれて辟易した。ようやく昼を購入してその波を抜けたころには、まだ昼を食べるのはこれからだというのにひどく疲れきっていた。しかしその疲れを共有する相手はいない。自動販売機でお茶を購入し、その場で開けて半分くらい飲んだ。

 中庭を覗くと空いているベンチがあったので、今日はそこで昼食をとることにする。購買で買ったサンドイッチの包みを開いた。少し遅れをとったせいでいちばん買いたかったカツサンドはすでに売り切れていた。しょうがなく選んだ、照り焼きチキンと野菜のサンドイッチだった。これは高森がよく食べているのを見るのだが、僕は初めて購入した。何となくチキンよりもカツサンドなどボリュームのあるほうを選んでしまう。おいしかったら、あとで高森に感想を伝えてやろうと考える。

 中庭には、いつかも見かけた女生徒のグループがいた。スマホを見せ合いながら楽しそうにお喋りに興じているのも変わらない。僕はそれを尻目に一人でサンドイッチを頬張り、お茶を飲んだ。何だかお茶が少し苦い。

 食事を終えると、余った時間は読書に充てた。話す相手もなくひたすら咀嚼するだけだったため、昼休憩の時間はじゅうぶんに余っていた。

 高森がいるときであっても、僕はかまわずに読書をしていることがある。そんなとき高森は特に文句も言わず、ただ僕の隣で気儘にスマホをいじっていたりする。そうやって互いに一人の時間を過ごすのだった。

 本を読み進めながら、何だか少し肌寒く感じて僕は洟を啜った。天気はいいし、風もそこまで冷たくはないのだが。女生徒のグループは今日も楽しそうに話に花を咲かせている。それが少し耳障りで、読書に集中できない。僕は小さく溜息をついて本を閉じた。それからスマホを取りだしてネットのニュースを読んだりしていたが、何だかそれにもすぐに飽きてしまう。けっきょく、中庭を行き交う生徒や木にとまった小鳥をぼーっと眺めて残りの時間をやりすごした。

 誰かが隣にいる一人と、完全に一人であることはこんなにも違うものだったろうか。調子が狂う。


 午後に体育の授業があることをすっかり失念していた。昼に食べたサンドイッチはだいぶこなれてきたところで腹痛などの心配はなかったのだが、問題は別のところにあった。

 今日の授業の内容は何だろうか。ジャージに着替えて体育館に向かいながら、僕は内心ハラハラとしていた。二人組を組め、などと言われたら面倒だ。

 いつもは高森がいるので二人組を組まされてもあぶれることはない。三人以上で組めと言われたら、高森が誰かに声をかけて誘う。僕はいつも高森に任せきりで、ただそこにいるだけだった。

 幸いにも今日の授業の内容はバスケの対抗戦だった。四チームをつくってのリーグ戦だったが、メンバーは出席番号順に機械的に振り分けられた。バスケ部員だけはばらけるように先生が最初に振り分けた。僕は佐宗と同じ組だった。

 佐宗は体験入部のときに見たのと同じ華麗なシュートを何本も決め、結果的に試合は僕たちのチームが勝った。佐宗がいるんじゃなあ、と相手チームの誰かが苦々しい声で言うのがどこからか聞こえた。

 シュートを決めるたびに同じチームの仲のよいクラスメイトとハイタッチを交わす佐宗の様子を僕は遠目からぼんやり見ていた。試合中は一応ボールを追って体育館の向こうとこちらを行ったり来たりした。ときどき僕にもボールがまわってきたが、目についた誰かにすぐにパスをした。一秒でも早く手放してしまいたかった。ドリブルはできるだけ避けた。そうしてただ時間が過ぎるのを息をひそめてひっそりと待った。

 午後の残りの授業も僕はそうやって黙々とこなし、休憩時間になればまた読書をした。その繰り返しだった。

 この段階になって、僕はおおいに戸惑っていた。

 高森と関わるようになる前はずっと一人だったはずなのに、僕はもう、そのとき自分がどうやって過ごしていたのかがまるでわからなくなっている。

 高森の不在は、僕に多大な影響を及ぼしていた。

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