ep4.だし巻き卵④

 スマホをしまい、僕たちは昼食を再開した。高森は置いていた箸を手に取って弁当に向き直り、僕もようやく割り箸を袋から出す。箸はいっぽうに偏って少しいびつに割れた。指で触れるとささくれだった繊維が指の腹をちくちくと刺す。こういうのは不得手だ。

「織部のお母さん、さっきの写真で満足してくれるかな」

 おかずをつまみ、お茶を飲みながら高森が言う。

「見るのは仕事の合間か終わってからだろうから、すぐには反応がわからないな。でもまあ大丈夫なんじゃないか。やるだけのことはやったし」

「何だか重要任務を終えたみたいな言い回しだな」

 高森はそう言っておかしそうに肩を揺らしたが、僕にとっては実際そのとおりだった。全身を覆っているのはひと仕事終えたあとのじわじわとした疲労感だ。まさかこれほど高難易度になるとは思わなかった。母親には高森の写真を適当に何枚か撮って送りつけるつもりでいたのだ。高森から一緒に撮ろうと提案されるのは、僕にとってだいぶ想定外だった。

 高森は重箱のなかのおかずを均等に食べていった。その様子を眺めながら、やはり箸の使いかたがきれいだなと感じる。つい眺めてしまう。

「織部? どうかした?」

 僕がろくに手も動かさずあまりに高森の手元を見ていたせいだろう。不思議そうな様子でそう訊ねられる。何ごとか考えてぼうっとしていると思われたのかもしれない。

 少し時間を気にするそぶりを見せた。僕もスマホで時刻を確認する。昼休憩が終わるまで残り二十分くらいといったところだ。早く食べなければ時間がなくなってしまう。重箱を片づけ、校舎裏から教室まで戻る時間も勘定に入れる必要がある。

 僕は慌てて手を動かして唐揚げを頬張ると、ごくりと喉を鳴らしてお茶を飲んだ。それからウインナーを口に放り、プチトマトを食べる。どんどん咀嚼する。食べながら、高森の質問にも答える。

「いや。この前うちでごはん食べていったときも思ったけど、食べかたがきれいだなと思って」

「ああ」

 高森は得心がいったように小さく何度か頷いた。

「そういうのは、小さいころにわりと厳しく躾けられたから」

 僕が予想していたとおりの答えが返ってくる。

「特にお母さんがね。作法には全般厳しかったと思うけど、箸の使いかたはとりわけ厳しかったかな」

「へえ」

「確か家にそういう作法の本がいっぱいあった。それ熟読しておれに教えてたんだ。必死だったんだと思う。もちろん知ったのはある程度大きくなってからだけど」

「そうなのか」

「織部のところはそうでもなかった?」

「どうだろうな。まったく注意されなかったわけじゃないけど、そんなに口を酸っぱくして言われた覚えはないかもな」

 外に出て恥ずかしくない範囲でできていればそれでいい、という程度だろうか。少なくとも作法の本はうちにはないだろう。

「ふうん。まあたいていはそれくらいなんだろうな。おれのところは事情が違うだけで」

 高森はきれいな箸使いで重箱のなかのだし巻き卵をつまみ、口に入れた。ぱっと表情を明るくする。

「このだし巻き卵、すごくおいしい」

 それから続けざまにもうひとつつまんだ。

「おれ、甘くないやつのほうが好きなんだ。織部んちの味付けすごく好みだな」

「そうか。それはよかったな」

 僕もつられてだし巻き卵を食べる。食べ慣れた味なので、高森のような感動はない。ただ僕も、だし巻き卵は甘くないほうが好みだ。

 確か昔は母親も甘いだし巻き卵を作っていたのだ。単純に、子供の口ならばそちらのほうが好きだろうと思っていたのかもしれない。甘いものは好きだが、おかずに関してはそうではない。子供といえどやはり好みは千差万別なのだ。

 僕が甘くないほうが好みだと言ったら、母親は「そうなの?」と意外そうに目を見開いた。それから我が家のだし巻き卵はずっとこの味だ。

「お母さんに伝えておいてよ」

「連絡先教えてやる」

「それはまた別で」

「……まあいいけど、また調子に乗って晩ごはん食べていけとか言われるぞ」

「いいよ。織部がかまわないんだったら、おれはまた一緒に食べたいし」

「そうかよ」

 僕は高森の言葉が冗談なのか本気なのか慎重に見極めようとしたが、けっきょくわからずに諦めた。高森はふだん明朗にしているが、掴みどころのない部分も多い。ただ誰かを傷つける嘘を言うようなやつではないとは思っている。

 そうこうしているうちにあれだけあった重箱の中身はすぐに空になった。重箱が嵩張ることに変わりはないが、中身がなくなって軽くなったぶん持ち帰るのも少し楽だ。

 僕は晴れ晴れとした気持ちで空になった重箱を風呂敷で包み直し、通学鞄にしまった。これで本当に今日の僕の任務は終了した。まだ午後の授業が残っているが、もはや今の僕にとってはどうでもよかった。適当にやりすごすだけだ。

「ご馳走さま」

 高森はそう言って両手を合わせた。

「何かこのあいだから織部のお母さんにご馳走になってばかりだな」

「母さんが好きでやってるんだから、別に遠慮する必要はないだろう。この前も言ったけど、素直に受け取っておけよ」

「うん。ありがとう」

 高森は嬉しそうに笑った。昼休憩も残り少なくなってきたので、僕は高森と並んで少し足早に教室に戻った。高森は立ち上がったあと制服のズボンを念入りにはたいていた。やっぱり気にしていたんじゃないか。


 それからその日の夜、仕事から帰ってきた母親に「送ってくれたあの高森くんとのツーショット写真、待ち受けにしちゃった」といかにも浮かれた調子で報告されて、僕は送ったことをとても後悔する羽目になるのだった。

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