ep4.だし巻き卵①

 午前の授業が終わって昼休憩に入るのと同時に、多くの生徒が足早に教室を出ていった。購買に向かうのだ。購買には日替わりの目玉商品があり、毎日それを楽しみにしている生徒も多い。

 今日の目玉は特製クリームパンだった。クリームパンは定番商品としても存在するのだが、目玉商品のクリームパンは特製と冠するだけあってひと味違う。まず、カスタードクリームの量が桁違いだ。ずっしりと重量を感じるほど贅沢に入ったカスタードクリームは、しかし甘すぎず、パン生地ともほどよく調和している。パン生地も軽やかで、口当たりがよい。それでいてお値段は定番のクリームパンと変わらないから、お得感が半端ない。特に女生徒に人気の商品だが、かくいう僕もこのクリームパンは好きだった。

 もしかすると高森も今日、特製クリームパンを買うつもりでいたのかもしれない。今にも教室を出て、購買に向かおうとしている。

「高森」

 僕はその背中に声をかけて呼びとめる。呼ばれた高森は教室を出る直前で立ち止まると、振り返って僕を見た。

「今日は購買には行かない」

 そう言うと少し意外そうな顔をして小首を傾げた。僕も高森もふだんは弁当ではないから、昼になるとまず購買に行くのが常だった。

「持ってきてるの?」

「まあ、そんなところ」

「珍しいな。じゃあ、おれだけ買ってくるよ」

 高森は僕から離れて再び教室の外に向かおうとする。僕はすぐさまその腕を引っ張った。話がうまく伝わっていないようだ。

「いや。違う。高森も行かなくていい」

「でもおれ、お昼持ってきてないんだけど」

 怪訝そうに眉根を寄せる。僕は高森に事情を説明するために口を開きかけた。そのあいだにもまた多くの生徒が談笑しながら僕たちの脇をすり抜け、教室から廊下へと流れていった。購買に向かう生徒のほか、教室以外の場所で食べるグループもあるだろう。

 出入り口付近で立ち止まっていたせいで、向こうからやってきた男子生徒数人のグループのうちの一人と高森がぶつかりそうになった。男子生徒ははしゃいだ様子でバラエティ番組か何かの話題に夢中になっていて、よそ見をしていたためにそこに立つ高森に気がつかなかったのだろう。接触する寸前で、高森が慌てて体を横にずらして何とか避けた。

「あ、わりぃ」

 ぶつかりそうになった男子生徒がようやく気がついて、片手を顔の前で手刀のかたちに挙げて謝る。高森もひらひらと手を振ってそれに応じた。

 佐宗さそうという名前の男子生徒だった。

 硬そうな髪の毛を短く刈っていて、いかにもスポーツマン然としている。上背もある。サッカー部か野球部だったと思う。クラスのなかでも目立つ部類の生徒だ。佐宗は足早に廊下に出ると、少し先を歩いていた自身のグループの男子と合流してそのまま歩き去った。購買に向かったのだろう。

 高森は佐宗の後ろ姿をしばらく目で追っていたが、やがてその視線は廊下を行き交うほかの生徒の波に移った。目玉の特製クリームパンに限らず、人気の商品は早めに行かなければすぐに売り切れてしまう。おそらくそれを気にしているのだろう。それでも僕を振りきって出ていかないあたりが高森らしい。

 購買の事情はもちろん僕も承知しているが、何も意地悪で高森を呼びとめたわけではない。今日は事情が違うのだ。

「いいから。飲み物だけ用意しろよ」

 僕は自分の席から通学鞄を持ってきて肩にかけた。ずしりと重い。

「……帰るの、」

 ふだんは昼に鞄まで持っていくことはないからだろう。高森はいよいよ不審そうな顔になった。僕は首を振ってそれを否定し、それからここでこれ以上の説明をするのが急激に億劫になる。とにかく一刻も早く教室から離れたい。

 僕は高森の腕を掴むと、無理遣り引っ張ってそのまま教室を出た。手を引いたまま、廊下を歩く生徒のあいだを縫ってずんずんと進む。

 急に腕を引っ張られた高森は足を縺れさせて転びそうになっていた。それでも僕は立ち止まらなかったし、高森を気にかけることもしない。高森は何度か転びそうになりながらも、何とか不安定な体勢を立て直した。

「織部。ちょ、ちょっと待って、」

 背後から抗議の声を上げてくるが、それも無視する。僕の意識は、肩から提げた通学鞄に向けられていた。鞄のなかにあるものの存在が、朝からずっと気懸かりでしかたがなかった。万が一にも誰かに見られたりしたら面倒だ。

 廊下を歩いている途中で、飲み物を調達していないことに今さらながら気がついた。ちょうど隅のほうにある自動販売機が目に入って思いだした。僕は一度立ち止まって財布から小銭を取りだすと、自動販売機でペットボトルのお茶を買った。

「高森も買ったら? 飲み物」

 僕の少し後ろに困惑顔で立っている高森を振り返る。高森は無言でポケットから財布を取りだすと、小銭を入れて僕と同じお茶を購入した。機械的に僕と同じものを選んだあたり、もはや考えることを放棄したのかもしれない。何の説明もしない僕におとなしくただ従っている。

 購入したペットボトルのお茶を鞄にしまい、僕は再び歩きだした。高森もあとからついてくる。行き場のない感情を僕の代わりにペットボトルにぶつけているのか、手にしたお茶を緩く上下に振っている。お茶が盛大に泡立っているがいいのだろうか。僕のお茶ではないので、僕はいっこうにかまわないのだが。

 校舎から中庭に出る。

 そのあいだも、通学鞄はしっかりと肩にかけたままだ。ときどき中身を確かめるように外側から触れた。布越しに固い手触りがある。

 中庭もまた、昼食をとる生徒たちで賑わっていた。ふだんなら僕もこのあたりの空いている場所に混じるところだが、今日は楽しそうな彼らを尻目にそのまま通りすぎる。できるだけひと気のない場所を探していた。しかし昼休憩ということもあり、どこもかしこも人が多い。

 人目を避けて最終的にたどり着いたのは、校舎裏だった。

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