18話 難しくても、やらなくちゃ分からない




 病院に向かうタクシーの中で話を聞いた。


 どうやら、夜の分の仕込み中に目眩がすると倒れてしまったらしく、すぐに救急車で病院に運ばれたとの事だった。


 お兄ちゃんは私の事を任されて、学校からの帰りを待っていてくれたとのこと。



 病院ではお母さんが待っていてくれた。


「お母さん!」


「桜、呼び出してごめんなさいね」


 通報も早かったから命に関わる深刻な事態には至らなかったと聞いて、私の膝から力が抜けていく。


 でも、問題はその先の部分。


 もし麻痺が残ったら、調理場には立てないかもしれない。


 つまり、『さくら』の存続そのものに関わることになる。


「桜もこれからだって言うのに…。こんなことになってごめんなさい」


 その晩、一度帰宅してお兄ちゃんを入れて三人での夕食。


 本当は二人でも良かったんだけどね。


「俺が何か作ります」


 お母さんも私も疲れきっていたし、お兄ちゃんが用意をしてくれた。


「桜、秀一さん。桜が落ち着いたらいつか話そうとお父さんと考えていたのだけど、私たちもそろそろ歳だし、引退して田舎に戻ろうかなって思っているの」


 テーブルを囲みながら、お母さんがぽつりと話し始めた。


「えっ……」


「ずいぶん前から少しずつ話してはいたのよ。二人とも実家は近所だったから、昔の場所で野菜を作ったり、小さなパン屋さんでもやろうかって。そのお金も少しずつ貯めていたわ」


「このお店はどうするの?」


「どうしようかしらね。お父さんがどのくらいで復帰できるかよね。もしかしたら今の形では難しいかもしれないわ」


「うん……」


「桜はあと半年、どうしたい? 一緒に行く? それとも……」


 お母さんはお兄ちゃんの方を向いた。


「秀一くん、その時は桜をお願い出来るかしら。桜の気持ちが決まってからのことになるけど」


「分かりました。ただ、『さくら』を閉めることはちょっと待ってくれませんか?」


 お兄ちゃんは少し考えてから、こう答えた。


「どうしたの?」


「この『さくら』は俺にとっても自分の家と同じです。そして桜の家です。なんとか残してやりたいんです」


「もちろん、そうしたいけど……。でも大変よ?」


 お母さんは、だんだんお兄ちゃんの言いたいことが分かってきたようだった。暗いお店の厨房からメモ用紙を持ってきて私たちの前に広げる。


「……秀一くん、これ、今度の学校祭で出すレシピよ。桜と完成させてみなさい」


「はいっ!」


「桜は、それでいいの?」


 お母さんは私の顔を覗きこんだ。


「お兄ちゃんと一緒にいるよ」


「分かったわ」


 お母さんは、決心したようだった。


「とにかく、その学校祭を無事に乗り越えましょう。その後でここをどうするか決めましょう」





 次の日から、お兄ちゃんと私の修行が始まった。


 二人とも学校や仕事が終わってから、お店の厨房での勉強と実習。


 それに加えて、お母さんは私にお店のパンの作り方を教えてくれた。


 もちろん体力も気持ちも大変だったし、最初は失敗作だらけ。


「桜と秀一くんを見ていると、私たちの若い頃を見ているようだわ」


 時間がないと焦っては失敗して落ち込む私。夜の後片付けをしているとき、お母さんは手を止めないで懐かしそうに話してくれた。


「お父さんも下積みの時があったし、私だってそう。でも若いってそういう時も楽しめちゃうのよね」


 本格的にやると決心したのはつい先日のこと。真剣にやっても失敗することだってある。でも、そのさりげない会話の中で笑いが出る。お母さんはそんな私たちを見守っていてくれた。

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