epizoda 1 ボギティ マトゥラ  2

 

 

 

 どれほどのあいだ聖句を唱えつづけただろう。声も出しづらくなり香炉と聖水容器とを掲げつづける手も、ともすれば下がりそうになる。しびれた片方の手だけで聖水容器の蓋を跳ね上げて水を撒くのも、限界だった。 

 何より有限の聖水はそろそろ底をつきそうである。 

 神父は香炉から手を離し、ポケットカプサから短剣を取り出した。 

 手を一振りして鞘を外す。 

 銀の刀身が灯火の朧な光をまとわりつかせた。 

 こどもたちの前で化け物ネトゥーヴァとはいえかつてはひとであったものを、神の御技みわざなどではなく、直接ひとの手で殺す。既に死んではいるが、もう一度殺すのだ。そんなところなど、正直、見せたくはなかった。己の慢心ゆえに、この仕儀を招いてしまったのだと、臍を噛んでも遅い。 

 にじり寄ってくる化け物ネトゥーヴァに短剣を構え突き出す。勢いのついた刀身がまるで水分の多いチーズシールを貫くかの感触を手に伝えてくる。 

 大きな逆毛立つほどの悲鳴を上げて、化け物が断末魔の舞踏タネクを踊る。短剣が傷つけたところから熾るドゥレ ヴィエネウヒリの赤黒さが広がり、膝から砕け落ちた。 

 火をまとったズヴェダー二オブラクポペラがたつ。 

 短剣に用いられている聖銀の力でいける−−−と、神父は心で快哉をあげた。 

 しかし、メルトゥーラにも仲間ストレチェ意識ノストがあるものか、ただの偶然に過ぎないものか、一旦動きを止めたと思えば、一斉に襲いかかってきたのだ。 

 十体は越える歩くボキィディマトゥラの群である。 

 これにはこどもたちが身も世もなく泣き叫びながら駆け出した。 

 神父が止める暇もあらばこそだった。 

 こどもたちは、大木の背後に回り込んでいた奴らに掴みかかられ、逃げることもできずに捕まった。 

 捕まってしまえばほどなくこどもたちは奴らに食らわれる。神父の焦りが注意を逸らす。こどもたちに意識が向かった途端、灰色の手が彼に伸ばされる。酷くボロボロに硬質化した爪が、彼のカソッククレリカを切り裂き、肉を掠った。 

 わずかばかりの血の臭いが、歩く屍たちの動きをより活性化させる。 

 泣き喚くこどもたちに神父は己の愚かさを痛感していた。 

 こどもたちに伸ばした手を、他の歩く屍が掴む。 

 手加減知らずの握力に、骨が軋む音が聞こえたような気がした。 

 音もなく蛆が歩く屍のあちらこちらから転がり落ちては爆ぜる。趣味の悪い演劇の一幕ででもあるかのように、神父は見ていた。 

 自分とこどもたちのどちらが先にこれらの餌食となってしまうのか−−−などと、己が考えているということさえ他人事のように実感がなかった。 

 一際大きなこどもの叫びに、己が聖句を唱えつづけていることも意識してはいなかった。 

 汚らしく黄ばみ尖った歯列を剥き出しにして今にも食らいつこうとする歩く屍の臭気が鼻腔を鼻孔を射る。 

 己の終了を目の前に見たその時、大きな音とともに何かが彼を捕らえる歩く屍の頭に当たり、その衝撃に首から上がもげ落ちた。 

 地面でなおも歯を鳴らすそれに吐き気がこみ上げてくるのを無理やり飲み込み、緩んだ握力に乗じて短剣を振るう。聖別された銀の刃が次々と歩く屍を屠ってゆく。 

 

 

 

 それを見た時、旅人は懐からそれを取り出し構えた。 

 彼の能力があれば、一足スィーニーム飛びスヴァーザニームに移動することもできるが、他人、特に聖職者に見られるのはあまり得策ではない。 

 お守り代りの回転式拳銃レボルベールを使う羽目になるとは、思いもしなかった男であるが、こどもたちの姿を見咎め躊躇はしなかった。 

 生憎銀の弾丸を込めてはいないが、頭を飛ばすことくらいはできる。 

 忙しないとひとりごちながら、着弾を確認することもなく、こどもたちを歩く屍からもぎ取るように助け出す。そのまま石畳に連れてゆき、 

「動かないでくださいね」 

と言いおき、眉間を指で軽く突いた。 

 これで、勝手な行動はしないし、できない。 

 またぞろ這い出してくる屍たちを拳銃で撃ち抜きながら、弾切れに舌打ちをしつつ懐に手を入れナイフノウシュを引きずり出す。ついでとばかりに神父の取り逃したものを足蹴にする。 

 無骨な己の動きと比べるとはるかに洗煉されて流麗な男の動きに、余裕があれば神父は見とれていたかもしれない。しかし、神父の聖別された武器とは違い、男の武器で屠られたものたちは、灰に還ることはなかった。 

 十体ほどであった歩く屍も、元仲間であったモノたちのながした血の臭いに惹かれたものたちが現れることで増えに増え、最終的に何体になったのか。まるでどこかの村が襲われ放置されて幾月も経ったかのような有様に、男は肩を竦めた。 

 

 

 

 累々と倒れる死体の数々に、深い息を吐いた神父が短剣を一振りし、放った鞘を探す。 

「これですか?」 

 息の乱れも感じさせない落ち着いた声とともに差し出されたのは、彼が探す鞘である。 

「ああ」 

 抜身を鞘に戻して我に返った神父が声の主を顧みる。 

「すまない。助けてもらったというのに礼が遅れた」 

 とっぷりと暮れた宵闇の中、少し離れた場所にある琥珀の輝きを背に立つ男に、頭を下げる。 

 こどもたちは既に石畳の上に蹲りしゃくりあげている。それでも生きているのだ。あれだけの歩く屍を自分だけで排除できるわけもない。この男がいなければ、今頃自分たちは、奴らの裂けた腹の中から顔を覗かす肉片であったかもしれないのだ。 

「どういたしまして」 

 軽く返されて、 

「それにしても、すごい身のこなしだな」 

 なにか体術を身につけているのだろう。余裕があれば、じっくりと見たかったものだ。神父にあるまじき考えを打ち消しながら、それでも、口にせずにはいられなかった。 

「あんたは命の恩人だ。助かった。あの子たちの分も心から感謝をするよ」 

 指差す先では、いつの間にかこどもたちが気を失ったのか眠っているのか、身を寄せ合って石畳に倒れている。 

「見捨ててゆくのは、夢見も悪くなりそうでしたから。お気になることはありませんよ」 

 返された言葉に、何故なのか神父は苛立ちを覚えた。しかし、灯火の元で改めて見返した男の顔の秀麗さにそれも霧散する。 

 相手は男であるというのに。男であってさえ、その容貌の出来不出来で容易く悪感情を消し去ることもできるのだと、神父は初めて知ったのだ。 

 灯火に揺らぐ陰影すらもが邪魔になることのない美貌は、艶やかな黒髪に縁取られ、一際白さを印象付ける。過ぎる赤を宿した薄いくちびるが空気を震わせたものが先ほどのことばであるのだと知ってなお、その魅惑的な赤に目を奪われずにはいられないのだ。 

 ふと翻り、ひとならざるもののような−−−身の内の深くからこみ上げてくる怖気にも似た目眩に全身が震えた。 

 ここは人里離れた森なのだ。 

 山、川、と同じく、森の中は、異界であるとよく言われる。 

 いかな聖なる灯火に守られた道であろうとも、たったひとりで夜のこの道を怖じけるではなく歩くなど。ましてや歩く屍に襲われる危険を犯して他人を救うなど。 

 神父の頭の中に、とある疑惑が芽生えた。 

 まさか−−−とは思う。しかし、この世にはひとならざるものもまた間違いなく存在しているのだ。歩く屍よりもはるかに高次の、ひとをさえ凌駕する化け物が、確かに。 

 まみえたことはない。それでも、まるで御伽噺ポハートゥキの中から現れたかのような、人知を超えた恐るべき存在は間違いなくいるのだ。 

 恩を承知してなおのこと、神父は我に立ち戻った心地で恐怖した。 

 そんな神父の思考や感情を敏感に感じ取ったのだろう男は、ゆっくりとその口角を皮肉気に吊り上げていった。弓張の月のような弧を描いたくちびるが、 

「それでは、僕は失礼しますよ」 

 正反対のやわらかな別れのことばを紡いだ。 

「待ってください」 

 背を向けた男を引き止めようとしたのは何故なのか。 

 男が歩みを止めて振り返ったのは。 

「まだなにか?」 

 皮肉げな口調だった。 

 それに、魅せられる−−−と、神父は怖じ気を止めることができなかった。 

 

 

 

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