13話 溶け出した心の氷

【13-1】 初めて書いた名前

<帰りたくない夜>




 バスに乗り換える駅に着いた時、和人とあたしは顔を見合わせた。


「気づいてたんでしょ?」


「千佳だって分かってたんだろ?」


「えへへ……」


 お互いの顔から苦笑いが漏れる。


 そう、ここからのバスはつい5分前に最終が出てしまっているから。


 もちろん、バスの時刻のことは二人ともちゃんと頭には入っていたのに。


「どうする? 戻るか?」


 まだ時間は午後10時前。一駅戻って、電車を乗り継げば帰ることは出来る。


「……なんだかね、今日は帰りたくない……」


「そうか……。よし、そうしよう」


 和人は頷いて、あたしの手を引きながらバスターミナルから離れた。


 少し歩いたところにあるビジネスホテルに着いて、フロントで聞いてみる。


 ダブルベッドの部屋が空いているという。


「うん、いいよ」


 宿泊者の名前を書くとき、あたしは思い切って初めてのことをした。


『斉藤千佳』


 和人の欄の下に、自分の名前をそう書いた。


 和人の目が見開かれる。そう、これならあたしたちは家族だもん。ダブルベッドの部屋だとしても怪しまれることもない。


 部屋に入って、ようやく大きく息をついた。


「あー、緊張した」


 ドアのロックをかけて、大きくのびをして笑う。


「なにもあそこまでしなくてもよかったじゃん」


「だってフロントの人、あたしたちどういう関係なんだろうって視線だったし。夫婦に見えたかな、でもやっぱり兄妹かな?」


 突然のことだったから、泊まりの準備など何もないし、あたしたちのような恋人同士の成り行きだとしたら、こういうビジネスホテルよりも、もう少し別の選択肢を選ぶ方が自然だろう。


 着替えも持ってきていなかったから、シャワーを浴びて、備え付けのガウンに着替えた。仕方ない、下着は明日帰って取り替えればいい。


 部屋を暗くして外を眺める。街の明かりが広がって、遠くには真っ暗な空間が広がる。あそこから先は海だから。


「千佳……」


「ごめんね、わがまま言って。まだ帰れたのに」


「ううん、なんか千佳があの名前を書いたときに、なんかハッと思ってさ」


 テーブルをはさんだソファに座る和人も外を見ていた。


「今日ね、菜都実さんに次はあたしたちって言われて、ドキッとしちゃったんだ。そうか、あたしたち、もうそこまで来ているんだって……」


「そうだね。いつの間にか、もうそこまで来ちゃってるのか」


「だからね、初めて書いてみたの。意外にサラッと書けちゃったけど。凄いね、結花はもう3年も前にそれを経験してるんだよ。あたしは結局、時間を引きのばしただけじゃないかって思うようになったんだ」


 比べちゃいけないと思っていても、やっぱり親友はあたしの一歩先を歩いている気がしていた。

 

「俺には無駄な時間を過ごしたようには思えないんだよな。千佳だって、出会った頃に比べたら本当に大人になってきたと思う。ずっと一緒にいてそう思うんだから、自信持っていいと思うけど、それでも自覚ない?」


 和人があたしの手を握ってくれた。

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