第三章

第33話 ナル、最大のピンチ1

 ナルが俺の家に来て一年以上が過ぎた。俺も飼い主レベル20ぐらいにはなっただろうか。

 そんなある日、ナルが黒い虫を口にくわえて俺の前にやって来た。そう、あのGの名を持つ黒い虫だ。ナルは得意げに、そのGの名を持つ虫を俺に差し出す。まだ六本の足がピクピクとうごめいている。


「もうそんな季節になったか……」


 ぽつりと呟く。床に置かれた虫をチラシで包んでゴミ袋に放り込んでから、よしよしとナルの頭を撫でてやる。


 去年は出て来なかったが、いくら退治しても何処からともなくやって来る。この昭和の香りのする古いマンションは床や天井など他の部屋と繋がっているようで、この部屋だけ退治しても毎年のように出現してくる。

 家の中で一匹見かけたら三十匹はいるという虫だ。早い目に退治しておいた方がいいかもしれんな。


 いつもなら害虫駆除用の煙を焚くのだが、今はナルがいる。煙を焚いている間の三、四時間は部屋を閉め切る必要があるが、そこにナルを置いておく訳にはいかない。

 キャリーバッグに入れて一緒に外に避難するか? だが、あの大きなバッグを持ったままウロウロするのも手間だし、ナルはキャリーバッグに入るのを嫌がるだろうからな……。

 そうだ、風呂場にナルを避難させて入り口をガムテープで塞ぐのはどうだ。あそこは気密性が高い。しっかりとガムテープで塞げば煙が入って来る事もないだろう。早速今度の休みの日にでもやってみるか。


 日曜日の昼過ぎ、害虫駆除を実行する。まずは家の中の食料やパソコンにビニール袋をかぶせて煙が入らないようにしておく。そして押し入れなどの扉を全開して、部屋中に煙が行き届くようにすれば準備は整う。


「よし、後はナルだけだな」


 ナルのトイレに煙の臭いが付くと後で嫌がるだろう、トイレと餌も風呂場の中に入れておこう。そしてナルを抱き上げて風呂場の中に入ろうとしたが、様子が変だと嫌がって腕の中で暴れる。シャンプーをする時はこれほど激しく暴れたりしないんだがな。

 肩にまで登ってきて逃げようとしているナルを捕まえたまま、なんとか風呂場の中に入った。


「おい、おい。そんなに暴れ回るなよ」


 飛び跳ねるナルを風呂の浴槽の底に誘導して、急いで外に出て扉を閉める。ナルは浴槽を飛び出して風呂のガラス扉の向こう側で扉を引っ掻きながらミャーミャーと鳴いている。すまないな、ナル。そこには餌も水もある、数時間の辛抱だから我慢してくれ。

 そのガラス扉の四辺をしっかりとガムテープで塞ぐ。よし、これで完璧だな。


 俺も出かける準備をして二ヵ所に置いた害虫駆除薬に火をつけて、煙が出てきたのを確認してから外に出た。

 この後は電車に乗り、四駅向こうにあるショッピングモールに行って時間を潰すつもりだ。ナルの事は心配だが、ほんの三時間だけだ。いつもは会社に行って何時間も家にいないんだから、これぐらいなら我慢してくれるだろう。


 三時間後、家に戻るとまだ煙の臭いがするな。ベランダ側の窓も開けて換気扇を回して煙を追い出す。この程度ならナルを出しても大丈夫だろうと、風呂場のガムテープを剥して中に入る。中の空気は全く煙の臭いがしない。煙は侵入していなかったようだな。


「ナル、すまなかったな」


 風呂場の浴槽の中を覗き込んだがナルが居ない!! トイレも餌もそのままなのにナルだけが居なくなっている。

 なぜだ! なぜナルが居ないんだ! 扉は密閉されていたんだぞ!


 風呂場の側面、空気取り入れ用の窓が開いている。小さな窓で全開できない構造になっていて外側に斜めに開く窓だ。その窓が開いて下側に隙間ができている。ナルが通れるほどの隙間には見えないが、埃の被った窓枠を見るとそこにナルの足跡があるじゃないか。こんな高い場所にある小さな窓にナルが飛びついたのか。するとナルはここから外の廊下に!!


「ナル!!」


 俺は焦りながら玄関を飛び出して、廊下を探したがナルは居ない。この廊下はナルがいつも行き来している廊下だ。どこかに隠れているかもしれない。だが見つからない。上の階はどうだ。三階、四階、五階と見て回ったがナルは見つからなかった。


 一階に降りて外に出てしまったのか! ナルは外を怖がっていたから外には出ないと思っていたが、パニックになって一階に降りたのかもしれない。一階の廊下やマンションの周りを見て回る。


「ナル、ナル!」


 名前を呼びながら、辺り一帯を探す。駄目だ、何処にもいない。俺があんな事をしなければ……ちゃんと窓を確かめていれば……。後悔の言葉ばかりが頭の中を繰り返し通り過ぎる。

 もう、外も暗くなってきた。もしかしたら部屋に帰って来てるかもしれない。マンションに戻ったが廊下にナルの姿は無い。全ての階を見て回ったがナルは帰って来ていない。


 夜になれば夜行性の猫だ、どこかの隙間から顔を出すんじゃないのか。マンションの周りの小さな路地や隣りのマンションとの隙間には、人が入れない狭い場所が沢山ある。駐輪場の奥や花壇の隙間など暗くて狭い場所を探してみる。こんな狭い所はナルが好きそうな場所だ。


 表通りから救急車の音がした。まさか駅前の道路にまで出て事故に合ったんじゃないだろうな! 急に不安になって自転車に乗り車の走っている道を探して回る。車に跳ねられた猫の姿は無い。いやもう少し遠くまで行ったかもしれない。もっと遠くまで道路沿いを探したがナルの姿はない。大丈夫だ、ナルはまだ生きている。


 もう、夜中になってしまった。明日は仕事がある。このまま探し続ける事はできない。俺が、俺がしっかりしていれば……ナル、すまない。飼い主として完全に失格だ。こんな俺のせいで……。


 翌朝。まだナルがこのマンションの近くにいるのなら、腹を空かしているだろう。一階の駐輪場の隅にナルの餌を入れた小鉢を置いて出勤する。

 ナル、生きていてくれ。

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