16時31分


 ――


 急いで、数学準備室に向かう。場所は旧校舎の奥の奥で、体育館がある新校舎とは対角線上の位置にあるから、かなり遠い。トットコトットコ、早歩きで急ぐ。廊下を走っているのを先生に見つかるとカミナリが飛んでくるから、走ってはいけない。


 旧校舎の階段を3階まで上がる。この校舎は春休みに解体工事が行われるので、ほとんどの教室は新校舎に移動してしまった。もぬけの空になっている校舎を見ると、ちょっと寂しいというか、怖くなってくる。おんぼろで、歩くたびに廊下がギシギシと音を立てるのも、恐怖が高まってくる。旧校舎に残っているのは数学準備室のほかに、解体模型が残ったままの使われていない理科室と、埃の被ったピアノが置いてある音楽室……ひえっ、学校の七不思議じゃん。


「はぁはぁ、遠いって!」


 肩で息をしながら、思わず愚痴がこぼれてしまう。呼び出すにしても、教室とか職員室でもいいじゃん! なんで、こんなところなのよ!


 ―― コンコンコン ――


「失礼します!」


 ノックを3回叩いてから、ドアを開けて――


 あれ、開かない?


 ふん!って力を加えると、ようやくドアが開いた。ちょっと、立て付けが悪すぎる。まあ、どうせ新校舎に引っ越すのだから、直さずに放置しているのかもしれない。


「コーダイ先生、何か用ですか?」


 ドアからひょいと顔を入れて、中の様子を見てみる。けれど、コーダイ先生の姿が確認できない。


「もしもーし、真珠でーす」



 もう一度、呼んでみるが反応がない。変だなと思い、中に入ってみる。


「もしもーし……って、あれれ?」


 準備室の中はガランとしていた。大きい三角定規とかコンパスとかがあるけれど、無造作に積まれていて、使われた形跡が見られない。そういえばコーダイ先生は、こういう道具を使っているところをあまり見たことが無い。繊細っぽい雰囲気な人だけれど、意外と不器用なのかもしれない。いつも、黒板に図を描く代わりに、印刷してきた巨大な紙を持ってきて、それをペタッと貼っている。


 キョロキョロと見渡してみるが、コーダイ先生はどこにもいない。遅かったから職員室にでも帰ってしまったのだろうか。せっかく走って……じゃなくて歩いてきたのに、がっかりだ。


 溜息をつきながら、窓の外に目を移してみた。住宅地に面した新校舎や体育館とは違って、こちら側は街の裏側に位置している。目の前には幅の大きな川が流れており、川を挟んだ向かい側には田畑が広がっている。さらにその奥は雪で覆われた、この地域の最高峰の山の裾野が広がっている。まさに「ザ・日本の原風景」っていう表現がピッタリで、日の出の時にスマホで撮影すれば、年賀状の素材として使えそうだ。


 とはいえ、外を眺めていてもしょうがない。戻るか、ここで待つか――


 ―― ガコン ――


「えっ?」


 突然、ドアの辺りから音が聞こえてきた。コーダイ先生が来たのかと思って振り返ったが、そこには誰もいない。


 今の音は何だろう? ドア開けて確認――


 ドアが開かない。


 来た時と同様に、フンって力を加えてみるが、それでもドアは開かない。


「あれ?」


 もう一度、せーので体重をかけてドアを開けようとするけれど、ピクリとも動かない。


「うっそ、開かない?」


 ぐいぐいと、押したり引いたり、持ち挙げたりしてみるけれど、全然だめだ。


「え、どうして!? ちょっと!?」


 ドンドンとドアを蹴ったり叩いたりしたが、効果がない。


「もぅ……。なんなの、これ。一体どうなっているの?」


 手が赤くはれて痛くなってきた。ドアを開けるのをあきらめて、代わりに助けを呼んでみる。


「誰かいませんかー!?」


 シーンと、何の反応もない。もう一度だ。


「ドアが開かなくなっちゃいましたー」


 やっぱり反応が無い。誰もいないのかな、と思った時――


 ―― コツ コツ コツ ――


 足音がこちらに近づいてくる。おそらく革靴で、女子のような気がする。


「あ、ちょっとすみませんー! 助けてくださーい! ドアが開かないでーす!」


 気づいてとばかりに、大声で呼びかける。


 ―― コツ ――


 ドアの手前で、足音が止まった。どうやら、私の声が届いたようだ。開けてくれるのを待っていたが、足をとめたまま、動く気配が無い。


「聞こえていますかー!」

「もしもーし、誰ですかー?」


 ドアの向かいの相手に呼びかけるが、無言を貫いている。


「コーダイ先生ですかー?」


 いや、コーダイ先生なら、とっとと助けてくれるでしょ、コーダイ先生――


「あ……」


 嫌な予感がする。私がこんなに叫んでいるのに、無視をして立ち止まったままなんて。こんなことをするのは――


「もしかして……美春?」

「……」


 ちょっとした沈黙。


「……フフッ……ピンポーン! だーいせぇーーーかい! 足音だけで分かるって、すごくない? アハハ!」


 ドアの向こうには、悪魔がいた。昨日のしおらしさはどこに無くしてしまったのだろうか、いつもの、人を馬鹿にしたような口調に戻っていた。


「ちょっと、変なこと言ってないでさ、助けてよ。ドアが開かなくなっちゃたんだ」

「ふーん、そうなんだー」


 美春に向かってお願いしてみるが、クスクス笑って、何もしてくれない。


「そうなんだ、じゃなくて! ドアを開けるの手伝ってよ!」

「へえー」


 いっこうに手伝ってくれないどころか、この状況を楽しんでいるような感じだ。この状況を――


 まさか――


「……美春……美春がやったの!?」

「アハハ! あたりでーす。このドア、立て付けが悪くてさぁ、下のほうを蹴ると中から開かなくなっちゃうんだよね」


 下のほうを蹴る? 開かなくなる? なんで? なにを言っているの?


「何でそんな事を知っているの?」

「それを聞くかなぁ……。アンタ、乙女のヒミツを知っているじゃん。察してよね」


 ヒミツ――ああ、コーダイ先生のことか。


「何でこんなことをするの!?」


 美春にはクギを刺したはずだ。もう私にかかわるなって。


「アンタ、私の事を脅したでしょ。あれ、完全にキョーハクじゃん? 私、すっごいショックだったんだよ。だから痛い目に合わせてあげようかなって」


 どういうこと!? こっちのほうが立場が上なんだんだよ!?


「こんな事をして! 分かっているの!? 美春のこと、ホントにばらしちゃうんだからね!」


 美春に忠告をしたが、効いていないどころかゲラゲラと笑いだした。


「アハハ! 言えば! どうぞどうぞ!」

「え……どういう事なの?」

「昨日の夜さ、コーダイと会ってさ……別れたんだよね。私のほうからスッパリと切ったって感じ?」


 頭が真っ白になった。


「うそ……好きだったんじゃないの?」

「いやー、そこまででもなかったのかなー。ていうか、アンタの口からスキって単語、マジうける」


 人を小ばかにした口調だが、ところどころから強烈な敵意を感じる。


「でも、どうして」

「どうしてって、アンタに脅されながら生きるくらいなら、さっさと別れたほうがマシっていうか」

「そ、そんなことで……」

「そんなことでじゃねーよ!!」

「!?」


 美春が大声をあげる。いきなりの態度の変化に、思わず声を失ってしまった。


「昨日はよくもコケにしてくれたな! 内心、勝ったとでも思ったんだろ! ふざけやがって! でも残念だったな!」


 言葉の拳が、私の心を何度を殴りつける。そのたびに、どんどんと全身の力が抜けていくのが分かる。足が震えて、立っていられなくなる。


「……お願い、開けて……」


 美春に懇願する。


「いやでーす」


 助けてくれない。


「……お願い! 追試があるの! 遅れちゃうじゃん!」


 もう一度、懇願する。


「知ってまーす」

「え?……あっ……」


 やられた! 美春は私が追試を受けられないように、取り巻きを使って呼び出して罠にはめたんだ。A子が莉奈の様子をうかがいながらコソコソしていたのは、聞かれないようにするためだったのか……


「このまま追試をすっぽかしてさぁ、真珠は2年生をやり直すのかぁ」


 絶対ダメ! このために何日も頑張ってきたのに、こんな奴のせいでなんて……


「うそ! 開けて! 開けてよ! 誰か! 誰かいませんか!」


 ドンドンとドアを叩きながら、辺りに響くように大声で叫んでみるけれど、反応が無い。


「アハハ、無理無理。ここって旧校舎の端っこじゃん。先生以外は誰も来ないよ」


 先生――そうだ、ここは数学準備室だから、コーダイ先生が向かってくるかもしれない。


「誰か! 先生! 先生!」

「残念! 職員会議でみんな出払っているから、先生も来ないよ。アハハ! 可笑しくて涙が出そう」


 ゲラゲラという絶望の笑い声が響き渡る。


 スマホで莉奈と――と思ったが、体操服のまま来たから教室に置いたままだ。ああ、詰んだ。もう、誰にも助けてもらえない。


「お願い! お願い、お願い……」


 わずかな可能性にかけて、ドアの向こうの悪魔に最後のお願いをしてみるが、向こうから聞こえるのはクスクスという笑い声だけだ。


「フフフ、じゃあね、真珠。運が良ければ誰かが通りがかるかもね」


 美春がドアから離れていくのを感じた。コツコツという革靴の音がどんどんと小さくなっていく。


 そして、ついには完全な静寂に包まれた。


「……うっ……ぅぅぅ……」


 声をあげることもできず、ドアを叩くこともできず、私はただうずくまって泣くことしかできなくなった。


 そして、時間だけがいたずらに過ぎていった。

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