14時48分


 藁にもすがる思いで、教室の奥に座っている一人の女子に目配せをした。答案を右手に教科書を左手に持って、間違えたところをチェックしている、真面目な同級生。ショートカットが似合う、キリっと吊り上がった彼女の目には、残念ながら視線が届かなかったみたいだ。


 もう一度、お願いとばかりに彼女――莉奈りなに目配せをしてみる……。すると、ようやく目が合った。


 莉奈はヤレヤレといった表情を浮かべながら教科書を閉じた。


 ユックリと立ち上がり、空にした両手を持ちあげて、


 ――バン!!!!!!――


 力一杯に机を叩きつけると、教室一面に爆音が響く。ストップボタンを押したがごとく、美春たちの笑い声がピタリと止んだ。


「ああ、もう!! うっさい、うっさい!!」


 鬼の形相でこちらにツカツカと歩いてきた莉奈は、豆鉄砲をくらったような表情で固まったままの美春の、制服の胸元をグイっとつかんで顔を寄せる。


「黙って聞いてれば、下らないことをペラペラ、ペラペラと」

「莉奈、ウザ。いきなり入ってこないでほしいんだけど」

「真珠のことを馬鹿にして、何が楽しいの?」

「余計なお世話っつーか、アンタも体外、馬鹿じゃね? 馬鹿コンビかよ」

「馬鹿で何か迷惑をかけた?」

「別にぃ。で? アンタ、何? 真珠の保護者か何か? それともアッチ系?」

「は? 喧嘩を売ってんの!?」


 莉奈の馬鹿でかい声がクラス中に響く。正直、ちょっとうるさいって。


 美春の悪口を何度もくらっても、莉奈は一歩もひるむことはない。顔を近づけてはいるけれど、莉奈はクラスの中で一番身長が高いから、美春とは頭一つ分は違っている。それでいてガタイもいいから、まるで大人と子供が言い争いしているみたいに見えた。


 莉奈は正義感の塊みたいな女子だ。友達として、とても頼もしく誇らしい。少し感情的になることがあるけれど、それも込みで彼女をあらわす色は、赤。例えるなら情熱的で一途な、深紅。嘘か真か、中学の頃に男子同士で起こった学校間の決闘を一人で止めにいったと噂されていたりする。眉唾まゆつばな話だけれど、そのまっすぐな瞳を見ると、説得力のある逸話に思えてしまうのだ。


「ふん……暴力女……」


 美春も悪口が途切れず出てくるけれど、その語気は私に投げかけられたものとはちょっと違う。強がりっぽさを隠し切れないような。


 でも、このままだと喧嘩になる雰囲気がプンプンするから、慌てて二人の間に割って入る。


「ちょっと、莉奈。もういいから」

「いや、美春が悪いんじゃん! 止めなくていいって」

「でも、みんな見ているから……ね」


 気が付けば、クラス中の女子の視線が、こちらに注がれている。莉奈……君は声が大きすぎだよ。


 そこまで言ってもなお莉奈は制服を掴んだままだったが、美春はとうとう観念したようで、両手を挙げて降参のポーズを取る。


「はいはい、ごめんごめん。分かったから、これ放してよ」


 莉奈も少しは落ち着いたようで、呆れたような様子で肩をすぼめてから、美春を掴んでいる手をぱっと開いて彼女を解放した。


「ったく、ボタンが取れたら弁償してもらうからね…… あー、白けた。アンタたちつまんなすぎ。私は帰るね。バイバーイ」


 勝手に絡んでおきながら、つまらないって言われるのも変な話だけど。とりあえず、厄介者の美春が教室から去っていく。


「あ、美春! 待ってよ! 帰りに何か食べようよ」

「えー、何がいい?」

「私、タピオカ飲みたい!」

「ふるー! この辺りだと絶滅したくさくね?」

「アハハ!」


 取り巻きたちも慌てて彼女についていった。


 莉奈はヤレヤレといった表情で、仁王立ちになって美春が出ていくのを見届けていた。やがて教室に漂う緊張感が取り除かれて平穏に包まれていくと、今度は私に向かって、


「もう。真珠、勘弁してよ」


 と愚痴をこぼす。


「あ……ごめん。ありがとう。美春は口が悪いから、気分悪くしちゃったよね」

「いや、そんなのどうでもいいっていうか。真珠は――」


 はぁ、とため息を一つ入れてから、彼女は言い直した。


「真珠はさ、ちゃんと態度に示さなきゃダメだって。嫌だ!って言わないと。じゃないと、いつまでたっても絡まれたままだよ?」

「え……そんなこと、できないよ」


 言えないよ。


「大丈夫だって。怒るぞ!って雰囲気を見せれば何とかなるから」


 それは、君だけだよ。


 莉奈が持つ赤色がちょっとでも私にあればいいのだけれど、あいにくその絵具を持ち合わせていないのが現実だ。もっと勇気が、正義が、気概があれば確かにいじめられていないのかもしれない。でも、私は君にはなれない。だって、真っ白だから。


「ああ、もう! いいよいいよ! 顔が暗いって!」


 莉奈は私の両えくぼを握ると、ほら笑えとばかりにグリグリと引っ張る。私のネガ成分が強いとみるやポジ成分を加えてきて、プラマイゼロにしようとする。そんなやさしさに触れて、胸の奥の曇天どんてんの空に少しだけ太陽の光がさしてきたような感じがした。


「イテテ……莉奈、痛いって」

「あ! ごめん」

「もう、頬がのびちゃうじゃん。リス見たいにびよーんって」

「ハハハ、悪いって。てか、追試は大丈夫? 来週でしょ? 勉強しなきゃじゃん」


 そう、美春の事はさておき、私の目下最大の不安材料は「追試に合格できるか?」なのだ。


「まあ、頑張るしかないって感じ。でも、英語は全然わからないから、莉奈もちょっと教えてくれない?」

「え、無理無理! 私だって馬鹿だもん!」


 そう言いながら莉奈は机の上にあった答案をヒラヒラさせて、にっこりと笑顔を作る。答案に書かれている点数は……21だ。


 こういう時、莉奈は全く頼りにならないな。

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