第19話 ……綺麗だな
『姉貴は絶対に入ってくるなよ』
そう言って駆流が菜緒を追い出してから数時間、二人は大音量でサントラが流れる中、黙々とそれぞれの作業をこなしていた。
もちろん駆流はペン入れ担当である。そして駆流から受け取ったインクの乾いた原稿に消しゴムをかけ、ベタを塗り、トーンを貼るのが春果の担当だった。
会話はほとんどなかったが、そんなことは今の二人にとってはどうでもいいことだ。目の前にある自分の仕事をただひたすらにこなす、それだけである。
大音量の音楽すらほとんど頭に入ってこないくらい、本当に集中していた。
そんな中、部屋の外からドアをノックする音が聞こえ、
「ここにお茶とお菓子置いてくからね!」
菜緒の大きな声が響いた。
その声を合図に、ようやく二人の手が止まる。
「……少し休憩にしよう」
疲れた声で言いながら駆流が立ち上がり、ドアの方へと向かう。そのままドアを開けると、外に置いてあったトレイを手に戻ってきた。
菜緒が部屋の外にお茶とお菓子を置いていってくれたのである。
やはり菜緒はよく気が利くし、それになんだかんだ言っても本当に仲の良い姉弟だ。
一人っ子の春果にはそれがとても羨ましく思えた。
「お疲れ様」
テーブルの向かい側に腰を下ろした駆流に、春果がにこやかな笑顔を向けると、
「東条もお疲れ様」
同じように労いの言葉が返ってくる。
そのやつれた顔はいつも学校で見るものとはまったく違っていたが、普段は見られない顔を見られたことは春果にとってご褒美とも言えるものだった。
(これはレアな篠村くんだ……! 最高レアと言ってもいいかもしれない!)
もちろん今の駆流には申し訳ないので、心の中だけで歓喜しておくことにした。
「いただきます」
冷たい麦茶の入ったグラスを手に取ると、二人は声を揃え、一気に飲み干す。それは乾いた喉や身体の隅々まで、みるみるうちに染み渡っていくような気がした。
「あー、やっぱ水分大事だなー」
生き返った、とばかりに駆流が声を上げる。その額には相変わらずしっかりと冷却シートが貼られていた。
「集中しすぎて、喉が乾いてることすらすっかり忘れてたよ」
これじゃ熱中症になっちゃうね、と春果が苦笑交じりに言う。
すると、
「いや、無事に入稿するまでは熱中症になんてなってられない!」
途端に駆流は声を張り上げ、カッと目を見開いた。
※※※
休憩しながら二人で談笑していると、それまで笑顔を見せていた駆流がふと真顔になり、俯きがちに一言発した。
「……綺麗だな」
「えっ!?」
突然の思いもよらなかった言葉に、春果の心臓が大きく跳ねる。こんなにドキドキするのはオンリーイベントで頭に手を乗せられた時以来だった。
(綺麗って、え、なに、何のこと!?)
まさか自分のことを言っているのか、と頬を染めながら緊張していると、駆流がさらに続ける。
「ベタもトーンもすごく綺麗にできてる。とても初心者には見えないけど、漫画とか描いてないのか?」
そして春果が仕上げた原稿の一枚を手に取り、感動したような眼差しでじっくりと眺めた。
(あ、そっちのことかぁ)
頭の片隅でちょっとがっかりしながらも、少しでも役に立てているようでよかった、と褒められたことを嬉しく思う。
これで自分まで菜緒と同じだったら、地獄再来どころか駆流が過労死してしまう。
「えっと、漫画やイラストは少しだけ描いたりしてるけど、まだ誰にも見せたことはないんだ。もちろん朝陽にも」
春果がはにかみながらも素直にそう答えると、
「せっかく描いたものを世に出さないなんてもったいない!」
駆流はテーブルに両手をついて、ずい、と身を乗り出してきた。
「だ、だって下手だし、何となく恥ずかしくて人に見せる勇気だってないし……」
春果は駆流の勢いに少々たじろぎながら、口ごもってしまう。
駆流の絵はプロ並みに上手いし、ストーリーだって面白い。それに比べると、自分の描いたものなんて足元にも及ばない。いや、比べることすらおこがましいと思った。
しかし。
「上手いとか下手だとか関係なく、漫画や小説は愛を伝える手段なんだよ!!」
駆流は声高に主張しながら、テーブルをバンバンと叩く。
「……愛?」
「そう! そしてそこに上手いや下手は関係ない!! 大事なことだから二度言っておく!!」
言われてみれば、愛を伝えるのに上手いも下手もないのかもしれない。
口で伝えるのだって、上手く言える人とそうでない人がいるし、上手く言えなければならない決まりはない。
そう考えると、何だか納得できるような気がした。
きっと、駆流は作品への愛を漫画という形で沢山の人たちに伝えているのだろう。
それでも本人の口から直接聞いてみたくて、春果はあえて問い掛ける。
「篠村くんはどうして漫画を描いてるの?」
「答えは一つ! そこに推しがいるから!!」
駆流はぐっと拳を握り、即答した。
思っていた通りの返答が何だかおかしくて、春果は小さく肩を震わせながら笑みを零す。
「な、何でそこで笑うんだよ」
「だって、予想通りの答えだったんだもん」
長時間の作業で、テンションがおかしくなっていたのかもしれない。
春果はさらに笑みを深めると、涙が溢れてきた目尻を指で軽く拭った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます