第11話(魔法なき日々④)11歳
ソフィアと仲良くなって、レイン家での日々は俄然にぎやかになった。
世界の見え方が変わった、といっても言い過ぎではない。白黒だった絵画に色が入ったように、わたしはソフィアとともに様々な体験をした。
「アイカさま、顔色がずいぶんよくなりましたね」
ヨハンナがホッとした様子でわたしに言った。このところ寝つきも良くなったし、食欲も出てきた。
少し前であれば、そんな風に幸せな自分に後ろめたさを感じたかもしれない。もちろん、あの事件のことは忘れたことはない。
だが、わたしは少しずつ前を向けるようになってきた。もしかしたら、わたしはこのままレイン家で、心穏やかに暮らしていけるかもしれない。そんな期待を感じるようにもなってきた。
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そんなある日のことだ。
わたしの心に強烈な印象を残す出来事が起きた。
そう、昔話などによく出てくる、あのゴブリンだ。
おまけに、わたしはゴブリンに声をかけられたのだ。こんな風に。
「●●●●●●●●●●●?」
ノール帝国にもゴブリンは生息している。ただし、物語のそれとはイメージが異なるかもしれない。
現実のゴブリンは鎧を着たり、武器を持ったりはしない。集落も作らないし、迷宮に潜むこともない。
山奥に生息していて、ごくたまに人里に出てきて家畜を奪う。野生の猿に近い感じだ。物語ほどの害悪はないが、かといって、人間が気を許せる相手ではない。
さてレイン家の領内には中心部に街があった。店や市場、教会などが集まった一角だ。
わたしとソフィアは連れ立って街に出かけるようになった。
さすがに二人きりで出かけることはなかったが。少数の護衛とどちらかの侍女のみで、ぶらりと遊びにいくのだ。
「けっこう賑わっているのよ」
ソフィアの言葉に、わたしは感心してうなずいた。レピスト家の領内にはこれほどの規模の街はなかった。
「ほんと、たくさんの人がいるね」
「広場には露店もあるわ。一緒に見て回ろう」
露店の店頭には果物や野菜のほか、工芸品や布地、雑貨などもあった。ソフィアと一緒に店先を覗き、たまにちょっとした物を買うのはとても楽しかった。
ソフィアは領主の妹だから、領内のどこに行っても顔と名前を知られている。わたしは顔も名前も知られていないが、念のためマントを頭から被り、レイン家の使用人のふりをして付いて行った。
その日、街がいつになく騒がしかった。
わたしとソフィアは例によって露店を眺めながら、不穏な空気を感じていた。かたわらで護衛二人とエリナが見張っていたが、少し不安になる。
「いったい何だろうね」
ソフィアとささやき合っていると、通りかかった男性が声をかけてきた。白い髭を生やした老人だ。
「おや、ごきげんよう。ソフィアさま」
「サムエルさま。こんにちは」
老人は教会の司祭で、魔法使いだった。
前に言った通り、レイン家には魔法使いがいない。しかし、領内に魔法使いが一人もいない訳ではない。
サムエルはレイン家とは長年の付き合いがある人物だった。レイン家の屋敷で何か魔法を使う必要がある場合は、街からサムエルに来てもらうことが多いようだ。
ソフィアいわく、「子供のときから知っていて、魔法使いの中では唯一信頼できる人物」だという。
サムエルはY字の紋章が入ったベージュ色のローブを着て、杖を持っている。司祭らしい威厳と落ち着きがあった。
わたしはこのときソフィアの後ろに控えていた。そして、ソフィアの肩越しに、何気なくサムエルと視線をかわしたのだが、サムエルが目を見開いて動揺したのを見た。
「失礼ながら、そちらは、どなた様ですか」
サムエルが私を見て言う。ソフィアがわたしに目配せして「言ってもいいか?」とたずねたので、私は頷いた。
「わたしの従妹です」
「それはそれは、ようこそお出でくださった」
「はじめまして、アイカといいます」
あいさつはそれで終わり、それ以上は何も聞かれなかった。
わたしは内心、サムエルがわたしの何に驚いたのかが気になった。アルマ・レインに似ているからだろうか。それとも、わたしから何かを感じたのだろうか。
「サムエルさま、なんだか街が騒がしいようですね」
「それはゴブリンのせいですな」
「ゴブリン?」
聞けば、早朝からゴブリンが一匹現れ、街中をうろついたのだという。犬や鶏がゴブリンを見て鳴き叫び、子供たちは逃げまどい、大騒ぎになったそうだ。
「ゴブリンが街に現れるなんて、珍しいですね。それで、どうなったのですか」
「街の若者が総出で、ようやく捕まえました。いまは
「まぁ」
「アイカ、あなたはゴブリンを見たことがある?」
「生きているゴブリンは見たことがないわ」
小さいころ、屋敷の衛兵が仕留めたゴブリンの死骸を、遠巻きに見たことはあった。
サムエルが我々に言った。
「一緒に見に行きますか」
わたしは、ちょっとだけ見てみたくなった。何しろ物語に登場する、あのゴブリンの実物なのだ。生きて動いているものは、こんな街中でそうそう見られないだろう。
「ねぇ、行ってみない?」
「わたしは、嫌だわ」
ソフィアは青ざめた表情で首を振った。
そこで、わたしと護衛一人がサムエルと共に見物に行き、ソフィアとエリナともう一人の護衛がこの場で待つことになった。
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「それじゃあ、案内しましょう」
広場は街の中心部にあり、円形で石畳が敷かれている。
檻はもとは家畜を入れるための箱で、二メートル四方くらいある。広場の真ん中に据えられ、大勢の人が取り囲んでいた。
わたしも檻に近づき、おそるおそるのぞきこんだ。
ゴブリンは檻の中で座っていた。
背丈は大人の半分くらい。緑がかった肌で、手足が細長い。頭頂部と耳が尖り、大きく開いた口から歯がのぞく。下半身は針金のような体毛で覆われていた。
ゾッとするような外見だ。
ソフィアが見たら、卒倒したかもしれない。
食い入るように眺めていると、突然、ゴブリンが落ち着きを失い、あたりをうかがい始めた。鼻をひくひく動かし、格子の間からこちらを見る。そして、身を震わせると、唸り声をあげた。
広場の人たちはゴブリンの変化に驚き、後ずさりした。
ゴブリンの興奮は収まらない。よだれを垂らし、跳ね回り、繰り返し唸り声をあげる。
やはりゴブリンは魔獣だ。そう思わせる迫力があった。
わたしは愕然とした。
わたしと目が合った途端に、ゴブリンが豹変したからだ。怒りのせいなのか、恐れのせいなのか、理由はよくわからない。
そのときだ。
ゴブリンがわたしに向かって叫んだのは。
「●●●●●●●●●●●?」
ゴブリンにはどれくらい知性があるのか。
その問題は昔から議論されているが、答えが出ていない。
物語と違って、実際のゴブリンは道具を使わないし、集落も作らない。ゴブリン同士でどんなコミュニケーションをしているのかも判然としないのだ。
さっきのゴブリンの叫びを、街の人たちは単なる魔獣の咆哮だと受け止めただろう。
だが、わたしにはわかった。わたしにはゴブリンの言葉が理解できてしまった。
ゴブリンはこう叫んだのだ。
「オマエハニンゲンナノカ?」
「お前は人間なのか?」
何だそれは。
どうしてゴブリンにそんなことを言われるのか。
わたしは人間に決まっている。人間じゃなければ、何だっていうのか。
だけど、だけど、ゴブリンから見たら、
わたしは、まさか、人間に見えないのだろうか。
背筋が寒くなる。
わたしは恐怖で叫び声を上げそうになったが、歯を食いしばって耐えた。
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