元気出してください。

 アダムスミスの経済学の人間の概念がすこしわかりにくかったが、僕のような無学な人にも分かりやすく、多くの思想をかいつまんで要約して引用して論を進めるところが興味深かった。しかも、障害者の立場でありながら、植松犯の人権を認める寛容さを持つことは、とても理性的に思えた。
 僕の論を述べておくと、障害者が非生産的などと言われるのは、資本主義と貨幣経済に毒されているからで、お金を稼ぐことが偉いと思っているうちは、まだ貨幣の呪縛で不自由だ。お金は、それを餌に人が動くところの社会を動かすラジカルでしかなく、貨幣などなくても社会を動かすラジカルがほかに存在すれば、人類は成り立つ。生産も貨幣のないときは自給自足でよかった。貨幣の発明は、農耕や貯蔵などの土壌があって起こったものだろうが、そろそろ人類も行き詰まった資本主義から脱するために、貨幣経済を捨てなければならないだろう。
 ともかく、生産できないから障害者というような考え方は、そろそろ脱するべきである。生産とは社会的価値を生み出すことだろうから、資本主義では無用でも、障害者にも生産はできる。障害者は、資本主義的な物質生産に向かないため、芸術的な生産をして、人のこころの需要を満たすといい。
 ハンデというのは、確かに大なり小なりみな持っていて、健常というのは幻想なのだけども、資本主義的ハンデという場合は、社会活動ご制限されるため、ハンデの少ない人から比べて、活動しにくい。そのような人は、個人活動に向く。つまり芸術活動にぴったりである。
 まあ、全体主義が存続のために断種的な切り捨てをしたがるとか、それは遺伝子的に単純化して、却って死滅しやすくなるという話もわかるが、障害は遺伝要素はそんなに多くないので、このような理屈は乱暴に過ぎる気もして、植松犯の犯行は犯人が凶暴であることがもっとも問題であり、このような凶暴な人格を生み出さないようなことを、むしろ遺伝子工学は研究すべきだろうが、犯罪は遺伝子のせいではないだろうから、断種のための殺すというのは、いずれにせよ殺戮の正当化するための無茶苦茶な口実にすぎない。
 生命はなぜ尊いのか? 今流行っているコロナウイルスの命と人命と、どうして価値の差をつけるのか? そのようなことを語りだすと、終わらなくなるので、やめておくが、善悪を決めているのは人間であって、宇宙は人間の小さな善悪を超越しているとも書いておく。
 僕が思うのは、たった一つの一度だけの貴重な人生は大切に生きるべきであるということだ。