応援コメント

すべてのエピソードへの応援コメント

  • 「善悪と脱構築」への応援コメント

    最近、宇宙や死後の世界について思索を巡らせる事が多くなり、その中で九頭龍一鬼さんの宇宙に関するSF小説を読みたいと思ったのですが、タイトルに惹かれて本作を先に拝読しました。

    自分自身、精神障害者という事もあり、すごく興味深く読ませていただきました。(ちなみに自分も植松聖を否定する立場を取ります)

    特に興味深く読ませていただいたのは、障碍者の人権に関しての項目です。B型作業所は雇用形態を結ばないという事で賃金がめちゃくちゃ安いですが、もう少し高かったらいいのにと思います。

    精神障害者の中には自分の障害を隠して、一般企業で働いたり、バイトをする人がいます。

    全ての人たちが、ありのままの姿で自分らしく生きていく事が許される社会であってほしいと思います。

    作者からの返信

    こんばんは。九頭龍一鬼です。
    Unknownさん。コメントありがとうございます。

    『最近、宇宙や死後の世界について思索を巡らせる事が多くなり、その中で九頭龍一鬼さんの宇宙に関するSF小説を読みたいと思ったのですが』とのことで、光栄におもいます。

    たしかに、愚生はSF小説家を目指しているので、宇宙関係の知識には、それなりの自信がありますが、いかんせん、小説などのかたちにすると、それぞれの作品に必要な知識を断片的に提示することしかできません。

    つまり、愚生の作品を御覧いただいて、宇宙についての知識が充分に獲得できるかという自信はないのです。

    そこで、愚生が自信をもっておすすめできる宇宙および素粒子物理学の書籍を紹介させていただこうとおもい、『はじめての〈超ひも理論〉 (講談社現代新書)』を挙げようとおもったのですが、Amazonで調べたかぎりだと、なぜか絶版!

    『はじめての〈超ひも理論〉』は、現代物理学の二大理論であり、おたがい矛盾してしまっている相対性理論と量子力学を統一する、『万物理論』の有力候補である『超ひも理論』についての解説書なのですが、超ひも理論のみならず、宇宙のはじまりから終焉まで、非常にわかりやすく説明されており、愚生がSF小説を書くときには、かならずといってよいほど参照する文献です。

    こんな良書が絶版とは信じられません。

    ですので、すこし遠回りになりますが、WikipediaやYouTubeをはじめとして、ネットで情報を蒐集するのが、安上がりですし、おすすめです。

    また、死後の世界については、最近、ベストセラーにもなった『死は存在しない ― 最先端量子科学が示す新たな仮説 (光文社新書) 』田坂広志著が、それなりに胡散臭いのですが、一応、量子力学的に死後の世界について、かなり納得のできる仮説がたてられているので、お金とお時間がありましたら、おすすめです。

    おおまかにいうと、『宇宙の真空地帯は虚無ではなく、量子真空というエネルギーのかたまりがあり、量子真空のゼロ・ポイント・フィールドとよばれている部分には、宇宙のはじまりから終焉までのすべての情報が網羅されている』ので、人間が死んだ場合、人間のこころも情報のかたまりであるために、『おそらく、量子真空の情報のあつまりに『帰ってゆく』と考えられる』ということです。

    いかにも似非科學的な内容で、Amazonでのカテゴリーも『科学』ではなく『哲学』となっておりますが、量子力学はもちろん、相対性理論や、前述の超ひも理論にも通ずるところがあり、面白い内容となっております。

    おたがい、障害年金を中心に生活しているはずなので、Unknownさんも本を買うお金にこまっているかとおもわれますが、もし、興味をもたれたら、Amazonで立ち読みなどなさってくれるとうれしいです。

    また、『精神障害者の中には自分の障害を隠して、一般企業で働いたり、バイトをする人がいます』とのことですが、Unknownさんの頁を拝見していると、しばしば、アルバイトをなさっているようで、愚生は本統に尊敬します。

    愚生も障害をもちながら、アルバイトをしたいとよくおもうのですが、なかなか、よい案件がなく、こまってしまいます。

    とにかく、死ぬまでぎりぎり頑張って生きようかとおもっております。

    では、今後ともよろしくおねがいします。

  • 「善悪と脱構築」への応援コメント

    「完全なる他者」という概念はとても面白いですね。おそらく、それは物質的には存在しないのであろうが、思想史上には存在しえたのではないかと考えられる。

    作者からの返信

    へげぞぞさま。
    こんばんは。九頭龍一鬼です。

    毎回、愚生の拙作を御劉覧いただいて、コメントまで頂戴し、まことに感謝しております。

    『「完全なる他者」という概念はとても面白いですね。』とのことですが、もしかしたら、愚生の表現の間違いによって、へげぞぞさまに勘違いさせてしまったかもしれませんので、ねんのため、此処に追記させていただきます。

    デリダの哲学のくだりについてのはずですが、此処は、『完全なる他者』を肯定するという文脈ではなく、『いかなる他者も完全に』肯定する、というながれで『完全なる他者の肯定』と書きたかったわけでございます。

    つまり、『完全なる他者』とは、へげぞぞさまの御指摘どおり、『それは物質的には存在しないのであろう』ということになります。

    愚生としては、『他者(自分もふくめて)はだれもが未完成』だとおもっておりますので、『いかに未完成な人間でも完全に肯定する』という思想のもとに、本稿を執筆した(かった)わけです。

    さらに敷衍すれば、『それならば凶悪犯罪者という他者も肯定するのか』といわれるかもしれませんが、『そもそもその犯罪者自身が他者を肯定していれば、犯罪者にならなかったはず』という理窟になります。

    愚生の筆力不足のために、怜悧なるへげぞぞさまにまで誤解させてしまったかもしれず、まことにもうしわけございません。

    今後も、文章修行にはげんでゆきたいと存じあげます。

    ありがとうございました。

    今後ともよろしくおねがいいたします。

  • 「障碍者と人権否定」への応援コメント

     僭越ながら指摘申し上げます。
     明治憲法の制定、施行はww1の終戦後のワイマール憲法よりも先です。明治憲法の下敷きとなるものはプロイセン憲法です。

     しかし、確かに配慮の名のもとに基本的人権に良かれ悪かれ超越した措置が障がい者にとられているとの貴公の考えには感じるものがありました。

    作者からの返信

    こんばんは。九頭龍一鬼です。
    ひきつづき、貴重なる御意見、なによりも、愚生の無知による誤記の御指摘、まことにありがとうございます。

    『明治憲法の制定、施行はww1の終戦後のワイマール憲法よりも先です。明治憲法の下敷きとなるものはプロイセン憲法です。』とのことですが、まことに愚生の記憶違いによる誤謬であり、一盃口様の仰有るとおりであります。恐縮ながら、一盃口様の御指摘として、本文を修正いたしたく存じあげます。本原稿はフリーハンド(レファレンス・ブックの頼りなし)で、いささか、感情的に乱筆した虞がございますので、一盃口様の御指摘以外にも、多数の誤解にもとづいているとおもわれます。一盃口様および読者諸賢の氣氛を害するかもしれませんので、御容赦いただきたく存じあげます。

    『しかし、確かに配慮の名のもとに基本的人権に良かれ悪かれ超越した措置が障がい者にとられているとの貴公の考えには感じるものがありました。』との御理解、まことにありがたく存じあげます。一盃口様のような慧眼のもちぬしに、一文でも御役に立てたのならば、うれしくおもいます。

    なによりも、愚生の拙文を真摯に瀏覧いただき、愚生ごときのために、コメントまでいただいて、まことに感謝しております。ありがとうございました。


  • 編集済

     少し思考の整理がつかなかったので言い換えて僕の貴公の文の解釈をしますね。
     つまり、生物は種族全体の繁栄よりも個体それぞれの利己を優先することができ、その生存は集団の損害となっても維持されるように自分が自身に強制するもの(前話)であり、
     かつ、今話で示されたように人間に行動をさせる動機、インセンティブに経済が変化したのは近代以降の話なので、経済の損益は一貫して人間の行動原理ではないので、

    経済の利損で人間の価値無価値は定められない
    で合っているでしょうか?

    追記:イニシアチブ→インセンティブと己の文に誤植があり、誤解させてしまいました。申し訳ありません。
     しかし、いえいえ、貴公の文を拝見して、自分の無知に責められたものですから。フーコーも、マルクスも読んでいない身ですので。文章に関しては、特段非難すべきことがらはありませんでしたよ。

     齢18の青二才として申し上げれば、貴公の地位はむしろ幸いであるとも思うのです。平生では学舎の内の馴れ合いのうちに好奇心を消耗して、読書の努力を自然と怠るようになるものですから。

     これもまた僕の胸を張った知ったかぶりの駄文になりますが。

    作者からの返信

    こんばんは。九頭龍一鬼です。
    拙文へのコメント、まことにありがとうございます。

    一盃口様の論旨が、拙文への同感なのか、反感なのか、愚生には峻別できませんが、まず、愚生は中卒で、各専門領域については、まったくの独学にすぎないために、おおくの誤謬が夾雑しているとおもわれることをお詫び申し上げます。

    そのために、一盃口様はじめ、おおくの読者諸賢を不愉快にさせてしまったとすれば、まったく、愚生の責任ですので、此処に陳謝いたしたく存じあげます。

    そのうえで、(さらに誤謬を重ねることになるかもしれませんが)愚生なりに、できるかぎりの返信をさせていただきたく存じあげます。

    『つまり、生物は種族全体の繁栄よりも個体それぞれの利己を優先することができ、その生存は集団の損害となっても維持されるように自分が自身に強制するもの(前話)であり、』とのことですが、愚生の論旨が恙無く御理解いただけたかはともかく、然様な御理解で間違いはないと存じあげます。一盃口様の怜悧さに感謝いたします。

    『かつ、今話で示されたように人間に行動をさせる動機、イニシアチブに経済が変化したのは近代以降の話なので、経済の損益は一貫して人間の行動原理ではないので、/経済の利損で人間の価値無価値は定められない/で合っているでしょうか?』とのことですが、無論、前述のとおり、愚生は中卒で、一般社会人並の経済学の知識、および、高校倫理以上の哲学の知識は皆無なのですが、あくまでも、独学による現代思想の視座から、返信させていただきます。

    本話での論旨を、無知蒙昧ながら、ふたたび要約させていただくと、『人間に行動をさせるイニシアチブに経済が変化したのが近代以降』というわけではなく、『近代まで労働者という概念が経済から度外視されていたのが、近代になって、ようやく経済のなかに人間という概念が輻輳された』と申し上げればよいでしょうか。

    その典型的な例が、(共産主義をすすめるわけではありませんが、あくまでも参考として)マルクス経済学における『労働賃金は労働力の再生産のために規定される』という理窟です。

    つまり、『労働賃金は労働者がつぎの日も労働ができて、さらには、恋愛や結婚も可能とし、つぎなる労働者が生まれるために充分なだけあたえられる』というのが、マルクスのひとつの資本主義における発見だったはずです。

    裏返して申し上げれば、近代以前の経済活動では、この資本主義の基本である『労働力の再生産』という概念がなかった、つまり、『労働者が経済の勘定に入れられていなかった』のであって、その労働者としての人間が発見されたのが、近代経済学以降ではないか、とフーコーは標榜したわけです。

    畢竟、逆説的な表現かもしれませんが、『人間に行動をさせるイニシアチブに経済が変化したのが近代以降』なのではなく、『経済を成立させるイニシアチブが人間に変化したのが近代以降』といえばよろしいでしょうか。

    ですので、『経済の損益は一貫して人間の行動原理ではないので、/経済の利損で人間の価値無価値は定められない/で合っているでしょうか?』という慧眼による御指摘も勿論かもしれませんが、無知蒙昧ながら、愚生が申し上げたかったのは、『人間の主導権をにぎるのが経済であった時代から、経済の主導権をにぎるのが人間である時代へと移行』したために、一盃口様の仰有るとおり、『経済の利損で人間の価値無価値は定められない』と申し上げればよかったかもしれない、と存じあげます。

    愚生の無知と、乱文のために、一盃口様はじめ、読者諸賢を混乱させてしまっていたら、まことに申し訳ございません。

    一盃口様の御意見、とても参考になりました。ありがとうございます。