保健室で

 目を開けると、白い天井があった。

 涼しい……クーラーが効いている。

 仕切りのカーテン。薬品のにおい。


 どうやらここは保健室のようだ。

 そっか、私は……体育のランニングで、倒れてしまって。


 時計は、四時間目の後半となった時間を指している。グラウンドからは、体育の先生と私のクラスメイトたちの声。そう長いこと気を失っていたわけではなさそうだ。

 私の服装は体育着のまま。

 起き上がると後頭部が少し痛くて、めまいがしたけれど、たいしたことはないだろう。後頭部は倒れたときに軽く打ったのだろうし、めまいはいつものことだ。

 それより、とりあえずグラウンドに戻らなくては。体育の先生に申し訳ないことをしてしまった。

 だれかが揃えて置いてくれたのであろう上履きに、両足を突っ込んだとき――。


「目、覚めた?」


 カーテンの向こうから、声がした。

 この声は。ううん。……まさか。


「まだ、起きてきちゃ駄目だよ。――秋ノ瀬れいさん」


 カーテン、開けていい、とかの言葉もなしに、その声の主は勢いよくカーテンを開けた――まさかって思ったけれど、やっぱり。

 そこにいたのは、体育着姿の――わがクラスのスター、柊木くんだった。


「……な、なんで」

「水分と塩分を摂って様子を見て、大丈夫だろうけど頭を打ってるから念のため病院に行ったほうがいいから、今日は早退になるだろうってさ。でも保健室の先生がいま、いないんだって。ちょっとしたら戻るっぽいんだけど。とりあえず、はい、これ」


 話しながら、柊木くんはごく自然な流れのごとく、円形の椅子を持ってきてベッドのわきに座る。スポーツドリンクのペットボトルを差し出してくれる。

 私は戸惑いながらも、ありがとう、とお礼を言って、スポーツドリンクを受け取って飲んだ。身体はカラカラなはずなのに、少しずつしか飲めない。


 柊木くんはそんな私を、どこかあたたかい目で見ていた。

 ベッドに座る私と、すぐそばの椅子に座る柊木くん。ひとつのベッドごとにカーテンで区切られたスペースはそう広いわけではない。近くで向き合うようなかたちになってしまって、私の肩には変な力が入った。


「体育の赤羽先生もしばらくいてくれたんだけれど、授業中だし、とりあえず戻らなくちゃいけなさそうだったから。だから俺が見てますよ、保健室の藤代先生が戻ってきたら、体育の授業に戻ります、って」

「そ、そうじゃなくて、なんで……」


 なんで、柊木くんが――って、ことなんだけれど。


「秋ノ瀬さんを保健室に連れていくの、だれか手伝ってー、って赤羽先生が言っててさ。俺がついてくことにした。で、その流れで、俺がここにいる。秋ノ瀬さん軽いし、手伝い要らなかったと思うんだけどなー」

「……そっか、なるほど」


 ある意味、納得ではある。

 秋ノ瀬さんを運ぶのを手伝って、と言われたとき、クラスはなんとなく戸惑ったのだろう。べつにだれかがやってもいいけれど、特別だれがやるべきという相手もいない、友達のいない秋ノ瀬さん。

 優しいクラスメイトたちはだれかが立候補してくれるだろうけれど、でも、一瞬の間が空いたことは想像に難くない。

 その瞬間、人たらしの柊木くんがすかさず手を挙げる――うん、容易に想像できる流れだ。

 ……でも、柊木くん。

 私には――これまで話しかけてこなかったのに。

 無関心だったはずなのに。


「……ありがとう。もう、戻っていいよ」

「駄目だよ、俺が見てるって約束したんだから」

「うん、でも、柊木くんも授業に戻ったほうが楽しいだろうし……私なんかといるよりも」


 私は、必死で苦手な愛想笑いをつくったのに――。


 柊木くんは。

 じっ、と私を見た。

 そのまま、射貫かれてしまうような――見透かされてしまうような。

 透き通っていて、強い意志が感じられて、それでいて濡れている……不思議な、瞳だった。


「……相変わらずだね」

「えっ、なあに――」

「下手な愛想笑いで、誤魔化そうとするところ。……他人のことばっかり気にするところ」


 私の、ことを、なにか知っているの。

 そう言おうとしたけれど、言えなかった。心臓が、ばくばくして――うるさい。


「なんの、こと……」

「ほんとうに、気づいてないんだ」


 柊木くんは、笑った。

 でもそれは、いつもの明るくて人懐こい笑顔ではない。

 どこか冷たい感情を孕んだ――野蛮さすら感じさせる、暗い笑みだった。


 柊木くんは、椅子からそっと下りた。

 なにをするのかと思えば――床にそのままひざまずいて、ベッドに座る私を見上げて、両手をくるんと丸めて、ちょんと、私の両膝に置いてくる。


「……えっ、あ、あの、柊木くん、なにを……」

「名前も言ったし、この一週間、ずっと見ていたのに。――怜さん。俺、シュウタだよ。ずっと、怜さんたちの家で飼われていた、……犬のシュウタだよ」


 切なそうに、どこかおどけるように笑う彼――。


 ――フラッシュバックが、強烈に襲いかかってきた。

 さっきのめまいなんて、比じゃない。世界、世界がぐるぐるする。心臓が暴れている。呼吸ひとつひとつが刃物となって胸を刺す。

 よみがえってくる。クリアに。事実が。……私の、呪いが。


 そう、私は人殺しで。

 異常な家庭に育って。

 異常な家庭では、犬を飼っていた。

 シュウタという名の……オス犬を、飼っていた。


「……うそ。あなたは」


 柊木くんは。

 目の前の、このひとは……。


「……シュウタ、なの」

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