―― 2 ――

「ただいま」

 家の灯りが付いていなかったから、返事がないことはわかっていた。

 オートロックの錠が落ちる音を確認して中に入る。真っ暗な家中の部屋の電気を一つ一つつけて回って、リビングのテーブルに置かれたいつもの紙切れを手に取った。

 ―― 冷蔵庫にご飯用意してあるから、温めて食べてね。

    今日は流花るかの大好物。             ――

 丸めてポケットに入れた。わかるように捨てると、ママ気にするから。

 一応冷蔵庫を開けて、それから閉める。

 形の悪いオムライス。

 どうして親というのは、子供に対する知識をアップデートできないんだろう。そんなものが好きだったのはずっと昔の話だ。それに温めなおしたケチャップっておいしくない。

 食欲もなかったから、ちょうどいいけど。

 脱いだソックスと首元から外したスカーフを洗濯籠せんたくかごに放って、スマホを取り出しながら二階に上がる。

 メールなし。

 チャットもなし。

 紗香那がいないのだから、まぁそうか。

 自室の扉を開けて、閉めるのも面倒になってベッドに飛び込んだ。

 みしっときしんだ音がして、失礼なベッドに少しイラっとする。

 パンチしてみた。ぽふっとへんてこな音と、少しへこんでそれだけ。

 気分が悪い。

 それはきっとあの旧校舎での会話から続いている。

 水月、というあの女。

 見た目は小綺麗にしているけれど、中身はお化けのような人だった。

 こちらの考えを見透かしているような態度が鼻につく。私を見ているようで見ていない目、共感しているようで演技臭い言葉、すべてがかんに障った。

 あれ以上会話を続けていたら、矛先を向けてしまっていたかもしれない。

 ただでさえ今日は奇異きいの目を向けられたことにイライラしていたのに。

 お昼休み。

 私が死体を抱えて紗香那と呼びかけるのを、周りの誰もがまるでおぞましいものを眺めるように見つめていたのが脳裏のうりに焼き付いている。

 まぶたを閉じても消えてはくれない。

 酷い目だった。

 あれは、紗香那だったのに。

 スマホの画面に目を戻して、ブックマークしている一番下のサイトを選ぶ。一瞬の間があって、液晶が少し眩しいピンクの背景に変わった。


 、の文字と先輩の写真。


 時が止まったような気がした。

 それだけの間、ただその画像を見つめていた。

 何度も何度も見ているのに、まるで魔法だ。そうに違いない。

 二本の指で画面をズームする。

 小さなスマホの中で、先輩がちょっと大きくなる。

 ギリギリまで広げると、先輩に見つめ返されている気になれた。

 整った眉をほんのりひそめて、凛々しい瞳が私を覗いている。

 顔を背けそうになるのを必死でこらえた。

 頬が熱くなる。

 思わずキスをした。

「…………」

 わかっている。液晶は冷たくて硬いだけ。

 そんなの構わなかった。

 目を開くとそこには先輩が映っている。

 それだけでひどくいやらしく、甘美な気持ちで脳が溶けそうになる。


 せんぱい。

 せんぱい。

 かいせんぱい。


 わたしあなたのためにひとをころしました。

 ほめて、くれますか?


 画面から唇を離すと、興奮していた気持ちが少しだけ落ち着いた。

 ごめんね紗香那さかな。そう思った。

「でもあなたが悪いの」これは口に出した。

 スマホを枕元に放って体を起こす。伸びをして、それからゆっくり立ち上がった。

 顔が自然とほころぶ。


 私が紗香那を殺した。


 私が紗香那を殺した。


 私が紗香那を殺した。


 そう確信できたことが、あの気味悪い旧校舎の部屋で水月と話した収穫の全てだった。

 学習机のライトをつけて、大きさの違う三段の棚の一番上の引き出しに手をかけた。

 つけっぱなしの小さなカギを回して、勢いがつかないように慎重に引く。

 薄い引き出しの中にはペラペラの紙が入っている。

 簡単で、質素しっそで、出来の悪いおまじない。

 いびつな人型をかたどった線は、半端に太くてにじんでいた。

 これでも頑張ったほうだと思う。

 手首の静脈じょうみゃくから滴る血液を指先で伸ばして描いたわりには。

 人型。

 それを引き裂くように何度も何度も何度も何度も引いた直線が重なっていてもまだそれとわかる。だから上出来だ。


 ――呪いは大きく二つの構成要素を持ちます。


 あの女の言葉を思い返す。


 ――一つは『目的』、


 私は紗香那を殺すつもりだった。


 ――もう一つは『犠牲』です。


 人型の真ん中、つぶれた文字で紗香那と書かれた上に置いていたソレを手に取る。

 昨日まで、私自身だったモノ。

 不器用にちぎれて形の歪んだ

 まだ、ピアスをつけたままだ。


「あは、あはは」

 私のおまじないで、紗香那は死んだ。

 私がこの手で紗香那を殺したのと一緒だ。

 笑いが止まらない。緩んだ頬をつねってみたけど、今はどうにもできなかった。

 可笑しくてたまらない。こんなに簡単なことだったなんて悩んでいたことが馬鹿みたいだ。

「あはは、ひひ」

 笑い声が苦しくて、喉がひきつるような音をあげる。

「ごふっ、ひひ、くっ」

 咳をしながら、それでも笑わずにはいられない。焼けるような痛みを発する喉を抑えて、ティッシュで涙を拭う。耳のあった場所がじくじくと痒くて、掻くと右手が真っ赤に染まった。

 生きたものの流す血の色。

 私は生きている。

 紗香那は死んだ。

「あなたが悪いんだよ」

 もう一度言った。だってそうでしょ?

 せんぱいはみんなのモノだった。私以外にもたくさんのファンがいて、その素敵な笑顔を共有してきたはずだった。誰も独り占めなんてできない。誰にも抜け駆けなんてさせない。

 暗黙あんもくの了解の中で、私たちは一定の秩序ちつじょを保ってきたはずだった。

 せんぱいはみんなのもの。

 せんぱいは私のモノでもあって、

 だけど誰かのモノじゃない。

「紗香那、私あなたがかいせんぱいと屋上で何度も会ってたこと知ってるんだよ」

 紗香那はかわいい。

 だけどおしゃれや化粧に無頓着むとんちゃくで、私みたいに努力したことなんてちっともなくて、あんまり無理して笑わない。

 ただ顔が整っていただけ。その顔もどっか行っちゃったね。

「似合わないよ、かいせんぱいには」

 だからみんなのものに戻した。

 かいせんぱいを。

 紗香那は殺した。

 引き出しを戻して、明日からのことを考える。また、友達作らなきゃなぁ。


 と、


 微かな音が背後で聞こえた。

 小さな小さな振動音。澄ました片耳に集中していなければ見失ってしまいそうなほどに弱々しく、けれど確かに空気を震わせている。ベッドに投げたスマホが何かの通知を受け取ったみたいだった。

 真っ赤になった右手をティッシュで拭って布団に腰掛ける。手を指の先まで伸ばして枕元のスマホを拾った。少し取るのが遅かったらしく画面はもう真っ暗になっていたから、横についている電源ボタンを軽く押し込む。

 液晶がぼうっと輝き始めた。

 チャット一件。

 気が抜けて弛緩しかんしていた体が硬直する。


「…………っ!」


 なにかの間違いが、手のひらの中で起こっていた。

 そんなはずない。

 そんなはずない。

 頭が事象を否定しているのに、目は画面に映し出された文字を追っている。

 そんなはず、ない。

 送信元の名前。

 昨日までは普通のことだった目の前の異常に身がすくむ。


 


 ありえない。

 紗香那は死んだ。

 じゃあこれはなに?

 死体を抱えた時、私は紗香那の携帯を確認なんかしなかった。誰かが拾って、イタズラを仕掛けてきたのだろうか。

 ある、かもしれない。

 誰も私が紗香那を殺したことなんて知らないはず。

 でも、悪意のある誰かが仲の良かった私をおどろかそうとして、メッセージを送ってきたのかもしれない。

 死人に成りすまして。趣味が悪い。気味が悪い。

 鳥肌が立つ不快な気分を自覚しながら、通知に触れた。

 トーク画面の一番下に、新着の文字が浮いている。

 絵文字や顔文字を使わないところまで、紗香那を真似ている。

 ぞわ、っと嫌な感触が背筋をなぞった。

『流花ちゃん、逃げて、今すぐ』

 逃げる? なにから?

「ひゃ!」

 突然、震えだしたスマホが手から滑って、硬い音を立てながら床に落ちた。

 画面はこちらを向いている。振動はまだ止まない。


 


 そんなはず、ない。紗香那じゃない。

 それならなんなの?

 バツっ、と聞き覚えのない音がして私は顔をあげた。

 鼓動こどうが早くなる、それがあせる自分を自覚させる。頭と心が、あるいは体と感覚がズレて眩暈めまいのするような気持ち悪さが体を支配していた。吐き気がする。

 気が付いた。

 開きっぱなしの扉の向こう、通路の先の階段のあたりが暗く影を落としている。

 電気は全てつけたはず。あそこを通ってここまで来たはず。

 停電じゃない、それなら頭上の灯りも消えている。

 理解できない状況に頭が追い付かない。

 否定したい気持ちがから回って体が動かない。

 必死に耳を澄ます。今も震えているスマホの音とは別の不規則な音がする。


 タンッ、タン、タ、タン。


 ボールか何かがバウンドしているように聞こえた。けど、違うこれは、

 バツっ。

 通路の電気が消える。この部屋を残して、扉から覗けるのは暗闇だけになった。

 その向こうから、


 タン、タ、タッ、タ、タン。


 それはリズムも何もあったものじゃない不器用で気色の悪いステップ。できるだけ前に進まないように小さく刻まれた足音。けれど確かにこの部屋に向かっている。

 何かが、近づいてくる。

 後ずさった。ベッドの端へ体を寄せる。それ以外に逃げ場なんてなかった。

 

 タン、タ、


 気持ち悪いタイミングで、音が途切れた。

 不気味な静寂。

 スマホもいつの間にか画面を暗くしている。

 暗闇の先へ、目を凝らす。けど何も見えない。真っ黒の空間が揺らめくことすらなく、ただ部屋の内と外を分断している。

 何もなければいい、と思った。

 でも、もう何もないなんて思えなかった。


「失敗しちゃったね」


 耳元で、囁くような声がした。

 右の、耳元。髪で隠れているはずの傷口に、微かな吐息がかかる。

 振り向くなんて、出来ない。だって、だってもう見なくてもわかる。

 横に、いる。

 私を見てる。


「失敗しちゃったね」


 何を? とは聞かなかった。まだ、否定したい自分が残っている。けどそう思えば思うほど、もうわかってしまっていた。

 私は紗香那を、殺せなかったんだ。

 気づいたら、涙を堪えられなくなっていた。

 恐怖に支配されていたはずの体が、悔しさで塗りつぶされる。

 私は失敗した。

 私は失敗した。

 私は失敗した。

 何が悪かったのかわからない。うまくやったはずだった。

 あの女も言っていた。目的と犠牲があれば、紗香那を殺せるはずだった。

 それなのに、紗香那は生きてるの?

 許せなかった。だって、

「……痛かったのに」

 今もじくじくと痒みのある右耳に触れる。

「うぅ、痛かった。すっごく痛かったよぉ」

 どうして、死んでくれなかったの?

 ピアスだってお気に入りだったのに。

 くすくすとそばで何かが笑った。

 ソレが、音を殺して私に伝える。


「失敗しちゃったね」

「失敗しちゃいけなかった」

「失敗は自分に返ってくるから」

「だけど悲しまないで」

「運が悪かっただけ」

「あなたの殺意はちゃんと届いてた」

「残念」

「次があったらよかったのに」


 グチャ、と湿った音が頭に響いて、部屋の明かりが消えた。

 優しい暗闇に包まれて、

 私は少しずつ、

 少しずつ砕けていく。

 私は少しずつ、

 少しずつ潰れていく。

 徐々に機能をそこなって、体の器官が感覚を失っていく中、

 右耳だけが、私の砕ける音を、潰れる音を最後まで聞いていた。

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