第7話 少年は黒い少女との距離を測る。

 

 通気口の出口を見つけて、俺はすぐさまその出口から身体を投げ出すようにして出た。実際、投げ出されてしまった。少々、高い場所からの転落ではあったものの、幸い頭部に衝撃はなく、大した外傷を負うことはなかった。


 だが──、


「……足、か」


 見てみると、本当に潰れてしまっている。

 ふくらはぎからその先を失っている。潰されてしまった際にあっちに置いてきたみたいだ。


 ノイズ音が耳に残る。脳が破裂してしまうほどの大きなノイズ音。

 それは少しずつ、未だに保てている精神状態をむしばんでいく。


「でも……ここ」


 倉庫のようだった。

 港にあるような倉庫だ。そしてすっかり外は暗くなっている。深夜だろうか。でもひとまず、生き残れたことに感謝しよう。──そう、逆に言えば足一本で済んだわけだ。そんなの、どうってことない。


 ──そう、どうってことないんだ。命を失くすよりは。


 痛みはまだある。正直、今にでも泣いてしまいたくなる。でも自然と涙はこぼれ落ちなかった。涙に濡れて、視界が揺れることもない。


 ──死んだらダメだ。


 耳鳴り。ノイズ音と混ざって、もう耳をふさいでしまいたいぐらい、嫌な音になる。


 ──ダメ。死んじゃ、ダメ。


 うるさいなあ。もう、黙っててくれよ。


 ──死んだら、──が許さない。


 死んでいないだろう?

 足一本で済んだんだ。命は大切にした。だからもう、これ以上何も言わないでくれ。


「すごいね、真堂くん」

「……」


 仰向けになり、目を閉じて、少しだけ休もうと思っていた。でもそんなときにそいつは現れやがった。俺をあんな牢獄へ連れこんだ、俺にとって憎き相手。

 おかげでこっちは足を失くした。


「教えてくれ。なんで、こんなことをしたんだ──」


 上半身を起こし、後ろを振り向く。

 文句を言ってやろうと思ったが、その気はさらりと風に飛ばされたかのようになくなった。


「……くろ、いわ?」

「ごめんね、急にいなくなっちゃったりして」


 俺を見て、微笑む少女。

 照れくさそうに、両手を後ろで組んで、首をかしげて笑う少女。

 それは──俺がいつも放課後に見てきた仕草。

 そしてその子は、単純に異性として好きだった女の子だった。


「なに、してんだよ……?」


 実を言えば、訊くのは怖かった。

 少し嫌な予感がして、もしその答えを聞いたら今度こそ俺の頭はおかしくなりそうだったから。


 それでも彼女をきちんと見据えて、俺はその問いを投げかけた。すると彼女はずっと笑顔のままで、人を癒す特別な笑顔で、なんでもないことのように、そう──


「何って当たり前じゃない。隆之くんを、迎えにきたんだよ?」


 言ってみせた。


「で、でも黒岩さん、失踪したって──」

「うん、そうだね。たしかに失踪しちゃったけど──ううん、その逆なんだ」

「逆?」


 黒岩さんはとうとうその笑顔を崩した。鮮やかに、最初からそんな顔してなかったよと言わんばかりに。それで次は目を細めて、冷たい眼差しを俺に向けて、


「今までの失踪事件はね、ぜーんぶわたしがやったことなんだ」

 

 今までのいたずらを明かすような調子で、そう告げたのだ。


「黒岩、さんが?」


 俺は見事に動揺を隠せなかった。それがおかしかったのか、黒岩さんはくすくすと童女のように、手を口にそえて笑っていた。


「うん、そうだよ」


 笑っている。

 いつものように。放課後、一緒に話しているときのように。そんな無防備な笑顔を向けてくる黒岩さん。


「なん、で……」

「ん?」

「なんで、そんな平気な顔して言うんだよ……?」


 怒鳴ろうと思っても、上手く声が出せなかった。それと少し意識が朦朧としてしまっている。どうやら時間の問題らしい。


「冗談、なんだろう?」

「ううん、違う。本当のことなんだ」


 本気、なのか。

 俺にはそれが嘘なのか、あるいは真実なのかなど、むろん判別つくわけじゃなかった。ただ──なんとなく、その無防備な笑顔の裏に何かが隠れているんじゃないかと思って、仕方なかった。


「本当のことなら、なんでそんなことしたんだ」

「……とくに、理由はないよ」

「理由がないのに、そんなことをしてたっていうのか!」


 そこでやっと怒鳴ることができた。だが、そんなことをしても無駄だと自分自身が俺へそう告げていた。


「ごめん、理由はあるんだ」


 申し訳なさそうに顔を伏せる黒岩さん。


「こんなときに言いたくなかったけど、言うよ。わたし、真堂くんのこと好きなんだ。中学で出会って、そこで好きになったんだ。でも、全然振り向いてくれなくて」

「……俺の気を引くために、あんなことをしたっていうのか」


 少しずつ湧きおこるものは、黒岩さんへの怒り──のはずだった。


「そう、かもね……」


 消えてしまうんじゃないかと心配するぐらい、弱々しい声。

 俺は、最低なのか。


「なんで気づかないかなあ。わたし、頑張ったんだけどな」


 そして、よく見ると黒岩さんはその瞳を涙で濡らしていた。

 

 ああ、最低だ。


「真堂くんのために髪型変えたりとか、眼鏡だったのをコンタクトに変えてさ。すっごく、大変だったのにな」


 相手に対する怒りよりも先に、自分に対する怒りが湧きおこる。それはまるで噴水のように湧いてきたのだ。自分の不甲斐なさが、自分の無気力さが、自分の──無力さが、あまりに馬鹿馬鹿しく思えてくる。


「それでも気づいてくれないから、大嫌いになった時期もあったんだよ?」


 たしかそれは、半年前──まったく口を聞いてくれなくて困っていた、あのことだろうか。


「でも、ときどき優しくて……頼りになって。ときどきなのが、ずるすぎるよ……」


 俺は、そんな彼女の気持ちに気づいてやれなかった。

 俺は本当に──黒岩真奈美を好きだったのだろうか?


「ここまで言わせなきゃ気づかないなんて、ひどすぎるよ……」


 とうとう彼女は泣いてしまった。

 俺は、彼女に何も言ってやることはできないのか。

 

 俺に、何か言えるとしたら。

 それはこんな言葉だろう。


「黒岩……ごめん」

「謝っても遅いよ。もう、何もかも遅すぎるよ」

「でも、俺からも言いたいことがあるんだ」

「なに、よ?」

「俺は、たしかに黒岩さんの気持ちに気づいてやれなかったバカ野郎だった。けど、黒岩さんと同じ気持ちだったんだよ」


 言っていいのか、そんなこと。

 

 ──目の前の存在に、手を差し伸べなくてどうするんだよ。


 だがそれは、真堂隆之の本心じゃない。


 それは罪悪感から来るものだろう? 


 それは、偽物の感情なのだろう?


 ──違う。俺はちゃんと、黒岩真奈美って女の子を──


「本当に、好き?」


 黒岩さんは大きく目を開けて、じっと俺を見る。


「俺は……」


 黒岩真奈美って女の子が、好きだ。


 その言葉を口に出すことは簡単なはずなのに、でも、できなかった。

 俺は黒岩真奈美という女の子を、好きだったわけじゃなかったのかもしれない。ただ単に、その生き方に憧れた。誰かに戒められることなく、自由に生きようとするその未来に、憧れただけなのかもしれない。


 あまりに遠い存在だったから。

 あまりに近い距離だったから。


 俺はその憧れを、恋愛での「好き」と誤認してしまった。


 でも、そのうえで何かしてやれることはある。

 あるはず、なんだ──。


「答えてよ、真堂く──」


「タカユキっ!」

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