第4話

 洛南伏見は戊辰戦争におけるごく初戦、鳥羽・伏見の戦いの舞台である。兵の数では新政府軍を遥かに凌駕する旧幕府軍であったが、交戦開始から二日と経たない慶応四年一月四日、薩摩藩本営・教王護国寺に錦の御旗が掲げられた事で新政府軍は官軍、旧幕府軍は賊軍と認知されるに到る。朝敵とされた諸藩は動揺し、急ぎ撤退をはじめるのだが──。


──明治二十七年十一月二十七日 夜半


〽︎宮さん宮さん お馬の前に

 ヒラヒラするのは 何じゃいな

 トコトンヤレ トンヤレナ

 あれは朝敵 征伐せよとの

 錦の御旗じや 知らないか

 トコトンヤレ トンヤレナ……


 小唄三味線の音色に合わせ、遠く戊辰生まれの流行歌が聴こえる。茶屋の軒先へ行灯の灯がぽつり、又ぽつりと灯り、花街の小路を仄かに照らし出していった。──此処洛南伏見の地には、我が大日本帝国に於いて最も信仰を集める稲荷神社の総本宮、伏見稲荷大社がある。神社と花街は其の結び付きが強く、金毘羅に丸亀、八坂に祇園のあるように、伏見も又撞木町廓に中書島廓とゆうに二つの遊郭を内包していた。


「……龍太郎、酔っているのか」

 牛鍋屋を出てから詠太郎、龍太郎の両人は一言も口を聞いていない。平素口を開けば嫌味を云うだけの龍太郎が其の晩は妙に大人しいので、訝しく思った詠太郎は根負けして声を掛ける。先の会食では思い掛けず口論になったが、流石に言い過ぎたのではと不安にもなった。

「『酔生夢死』──」

 鴨川の支流へ掛かる橋、其の欄干へ半身を預けて龍太郎がぽつりと呟く。呆気に取られる詠太郎を他所に、龍太郎は更に続ける──

「座右の銘さ。人生などは常に酒をくらい酩酊しているようなもの。そうは思わないかい?」

「……漢詩はやらんと言ったろう」

「方便だよ。面倒なんだ、父上の引き合いに出されるのが」

 会話は仕舞いとばかり背を向け、川の流れに視線を遣る。忙しなく揺らぐ水面は墨染のように底が知れない。

「詠太郎叔父さん、悪い事を言わないから中央へ出仕するのはやめておいた方が良い」

「……君はまだ、この期に及んでそんな事を言うのか。叔父の後ろ姿を素直に見送ってはくれないのか」

 矢継ぎ早に龍太郎が振り返り、詠太郎の喪服の肩口をグイ、と掴む。

「分かっていないのは君だ。生前父上が何と呼ばれていたか知らぬはずはないだろう。怪傑と謂えば聞こえは良い。然し本当は皆、あの男を奇人変人だと思っているのさ。……まだ分からないか?桜州の跡を継ぐなと言うんだよ。狂人の札がついて回るぞ。中井の血筋だと知られれば何をやっても真面目に取り合って貰えまい。過度に期待されるか笑い者にされるのが関の山だ。……僕は散々それで苦労してきたんだ。あの男は官吏なら兎も角、親としては出来損ないだ。真っ当に育てもせず、気に入らなければ不良だ脳病だと決めつけ感化院送りにする。一度気狂いの烙印が押されれば、生涯後ろ指を指され生きる他無い……。自分自身も横山の爺様や風評で苦労しているのに、其の因果を我ら子にも押し付けて……」

 平素人を喰った態度の龍太郎が、此の時ばかりは感情を露わにしていた。然し詠太郎には如何しても、兄を冒涜する先の台詞が気に食わない。

「龍太郎、お前は兄上の子である事を恥じているのか?」

「恥?……恨んでいるだけだ。甲斐性無しの父親をな。あちこちに妾と子を作り、家へ帰れば貧乏書生を連れてくる。母上は早くに離縁され酷く苦労をしたと云う。其の意味に於いて我ら嫡子は実の兄弟とは言えまい。男児は三人居るが、皆母親が違う。己が自身母恋しさに泣き濡れた夜を忘れ、子にも同じ思いを……。浄土へなど到れるものか。必ず畜生道へ堕ちるだろう」

 放っておけば中井への恨みつらみを延々吐き続ける龍太郎を、詠太郎は何処か他人行儀な目で眺めていた。

「……龍太郎、お前という男は詰まらぬ私情が全てなのだな。兄上の偉業のひとつも理解せず遺産を食い潰す虫か。情けない、何故お前が中井で僕が横山なんだ」

 龍太郎に限らず中井の嫡子は皆素行が悪く、正三位へ叙せられた中井の家格には相応しくない。詠太郎は中井家の行く末を案じ深く嘆息した。先の台詞は本心である。もし自身が中井の跡取りとして指名を受けていたのなら、此処まで頭を悩ませる必要も無かったのでは──兄桜州のする事に今更文句を言うつもりも無いが、後継の問題だけは然しもの詠太郎も一つならず思う所があった。

「……それ程中井の家名が欲しいのか?ならば中井へ改姓し給えよ。けれども父上は中井を捨て置いてまで横山へ執心していた。次期横山家当主の君が中井へ改名すると云うならば、父上の遺志を無下にしているのは果たしてどちらかな」

「ん?」

 其の時龍太郎の遥か後方、花街の一角へ妙な違和感を覚え、詠太郎は訝しく目を細める。遠目に見える若白髪──見間違いようもなく中井の娘婿・原敬である。然し隣に居るのは妻貞子ではなく見知らぬ女性──龍太郎も目敏く原を見つけたようで、含み笑いを浮かべ乍ら詠太郎へ耳打ちする。

「原兄か。あの人はああ見えて芸者を囲うのがお好きだからねぇ」

「兄上の四十九日に不謹慎じゃないか」

「君は本当に堅物だな。少しは愉しみを覚えた方が良い」

「えっ、おい!」

 詠太郎の腕を引き、勝手知ったるとばかりに廓の小路を進む龍太郎──

「一杯引っ掛けていこうか。奢ってあげますよ、叔父さん?」

 足を留めた先は行灯の灯も届かぬ袋小路で、夜泣きうどん売りが荷車を降し客を待っていた。龍太郎は主人へ小銭を渡し、二、三要件を伝えると直ぐに脇の木椅子へ腰掛ける。件の誘いには気乗りのしない詠太郎だったが、折角の厚意を無下にも出来ず渋々対面へと座った。すると食台へ片肘をついた龍太郎が周りを伺い口を開く──

「君は原兄とお貞を嫌悪しているな」

──どうだ図星だろう、とばかりに肩を竦めてみせる龍太郎。

「……だったら何だと言うんだ」

「まぁそう警戒するな。只君の考えが何となくだが分かるのさ。確かに原は横山中井の血族では無い。とは云え、親戚筋の中では中井に近しく年長者なのだから家長を代理して然るべき……然し然し、如何にも気に入らない。『中井の嫡子筆頭のような顔をしているのは一体何故だ?』……と、此のように考えている」

「……」

「お貞はかなりのじゃじゃ馬娘だから、君の様な男は良くは思うまい。父上もあれで娘には甘いから、お貞に関しては良く面倒を見てやっていた。どさくさに紛れ目を掛けていた原兄へ輿入れさせたくらいだから、酷い公私混同だ。……だがお貞の事を余り悪く思わないでお呉れ。あれはあれで不憫な娘なのだ」

──うどん売りが現れ、熱く煮出したちろりと一対の猪口を其々の手元へ置いて行く。

「……不憫とは?」

「君も知っているだろう。お貞は十四五で原へ嫁いでいる。表向きの理由は原の領事館勤めに妻が必要だと考えられた事、然し実際の所は違う。此れは婿取婚だ。原は氏こそ原だが、お貞を娶らされた事で中井・井上の唾をつけられている。まるで金印……否、犬畜生の首輪か?兎角そこそこの家柄に生まれた女と謂うのは、器量良しも醜女も等しく下品な着物を着せられ下賜品の扱いを受ける。此れは当事者が良く理解する所だろう。婿取婚の本質とは男女の婚姻ではない。氏と氏、即ち岳父と婿の契りなのだ。桜州と原が妙に馬が合うのも詰まりは其う謂う事だ……」

──と此こまで講釈を続けて、龍太郎は一気に酒を呷る。嚥下音と共に喉仏が動く様を、詠太郎はじっと見詰めていた。

「……詰まり原が嫡男家長の如く我が物顔でいるのは、其れが不文律であると?」

「然もありなん。君は未だ若いから其処の所に疎いのさ。兎角女に生まれれば政治の道具にされる。好いても無い男に股を開き、子を為さなければ石女と呼ばれ疎まれる。女ばかりではないぞ。男に生まれれば跡取り候補と見做され飼い殺される。不要とあらば即これだ」

──首を切る所作。

「世継ぎに選ばれず養子に出されれば家名を二つ背負う事になる。それは余程気を使うだろうよ。嗚呼、煩わしい。僕らはこの難を逃れたが、往々にして子というものは、実に不幸な生き物だとは思わないか?……まぁ、兄弟だからと同情も寄せるが本音を言うならば、僕はお貞のような気の強い我儘女は御免だね。其の点原兄の身上も少しは分かるつもりさ。芸者遊びに精を出すのもお貞を持て余しているからに違いない。もしも僕が貞のような女を充てがわれたら、……直ぐに離縁かねぇ?なぁ、詠太郎叔父さん。君も官吏になると云うのなら、早くに妻帯すべきだ。でないと原の二の舞になるぞ。……尤も、お貞を娶らされた事が幸いに働き東北人でありながら薩長閥へ与する事が出来たのだから、原の様な成り上がりからすれば、かの縁談は寧ろ天佑か……」

「……」

 其の晩は偶々悪酔いをしたのか、龍太郎は何時に無く饒舌に喋り続けた。東京の中井邸で初めて顔を突き合わせてから十数年と経つが、龍太郎が人の為に胸襟を開き語る姿を見るのは、詠太郎にとっては此れが初めてだった。

「……父上が早くに死んでくれたおかげで原はさぞ気分が良いだろうよ。岳父を恐れ離縁適わなかったが、これで井上まで死んでくれれば晴れて自由の身、万々歳で貞子に三行半を突きつけるだろうねぇ……。子を為さぬ女は石と同じ、血を絶やさぬよう次の女を迎えねば……とこの様に、男の本能は考えるのさ。……おっと、話し込んでいる間に伏見名物が焼けたようだ」

 うどん屋が現れ丸皿を置いていく。暗がりで真面に見えないが皿の中身が何らかの串物である事は伺えた。詠太郎は二串ある内の一串を取り真ん中辺りを口へ含む。固い食感と共に山椒の香りが口の中へ拡がった。

「……これは?」

「すずめの丸焼きだよ。ほら、屋台看板にも。すずめは穀物を荒らす害獣だから五穀豊穣を司る稲荷神への供物にされたとか何とか。……然しどうだろう、すずめに悪意はあったか?否、只馬鹿正直に生きているだけだ。例え罪が無かろうと害悪と看做され縊り殺される、残酷なようだが此れが現実だ」

 龍太郎はすずめ串をひらひら振りながら講釈を垂れていたが、言い終えると同時にすずめの頭(こうべ)を噛み千切る。──ガリガリと形容し難い噛砕音が聞こえ、悪趣味だと感じた詠太郎は以降串へ手を付けようとしなかった。無言の非難も意に介さず、龍太郎は素知らぬ顔で酒を勧める。ちろりを手に詠太郎の猪口へなみなみ酒を注ぐと、自身も手酌で酒を呷ってみせた。

「……」

 宵闇と礼服の黒へぼんやり浮かぶ龍太郎の生白い肌──在りし日の桜州を幻視し、ハッとした詠太郎は慌てて猪口を傾ける。

「良い呑みっぷりだねぇ。うわばみか?横山の爺様の子だから当然と謂えば当然か。ほら、又一献」

 機嫌良く酒を振る舞う龍太郎を、詠太郎は薄らと細目で眺める。──やはり似ているのは背格好や雰囲気だけで、顔の造形は桜州と瓜二つ、とは言い難い。

「何だい詠太郎叔父さん、先程からジロジロと」

「あ、いや。君は雰囲気だけは兄上譲りなのだな、と納得していたんだ。気に障ったのならすまない」

「……君の其の、良く通る声こそ父上譲りだと思うのだけどねぇ。失敬、」

 突如扇子を取り出し口元を覆う龍太郎──

「ん?」

 詠太郎が首を傾げると、くいくい、と扇で後方を指し示してみせる。後ろを振り向けば、高級遊女が何人か立ち止まり此方を眺めているのが見えた。うどんを買おうか相談している風でもある。


──文明開花の荒波は花柳界にまで押し寄せ、廓へ隔離されていた遊女達は御一新の後には皆自由に外を出歩けるようになった。前時代では見世の格子越しでも遊客が遊女へ素顔を見せるのは無粋とされ、客は女を買うまで編み笠や扇子で顔を覆い隠したと謂う。


「見ろよ、あの妓君を見ているぞ。気があるんじゃないか?」

 扇に隠れるのを良い事に、下世話な笑みを浮かべる龍太郎──

「此こ伏見夷町はかの大石内蔵助も遊興した忠臣蔵ゆかりの地。其こで女を抱いたなら随分箔が付くぞ」

「はぁ……」

 詠太郎はウンザリだ、と言わんばかりに頭を抱えた。身内の四十九日だと謂うのに原も龍太郎も女の事ばかり、真面なのは自分だけかと物悲しくもなった。

「女は不要だ、まだ身を立ててもいないのだから」

「……ふうん?」

 パチン、と音を立て扇子を閉じる龍太郎。何時の間にやら遊女達の姿も無い。遠く茶屋から座敷唄が聞こえる──


〽︎國を追うのも 人を殺すも

 誰も本意じゃ ないけれど

 トコトンヤレ トンヤレナ

 薩長土肥の 薩長土肥の

 先手に手向かい する故に

 トコトンヤレ トンヤレナ……


「本当に、其れが理由かい?」

「……他に何があるんだ」

「さぁねえ」

 暫し扇を開いては閉じを繰り返していた龍太郎が、矢庭に立ち上がりうどん売りへ声を掛ける。暖簾から顔だけ出した主人は幾つかの小銭を手渡され、心付けにと受け取ったようだった。


「……君は中井の嫡男を自負している。言わずとも分かるさ、兄を愛するが故の殊勝な心がけだ、何ともいぢらしい。……だが然し、信奉者の君へ言うのも何だが桜州は相当の隠し子がいるぞ。あの男の事だ、其の内何処の馬の骨とも知れぬ落胤が現れ、中井の財産を掻っ攫っていくのだろうよ……」


 遊里の門前で辻馬車を買い荒神町方面へ走らせる。客室から外を眺めれば馬車ウマの吐く息が水煙の如く夜の古都へ溶けていく──

「原に井上、あの人達も毒蟲のようなものだ。僕らの世話焼きをしているようで、まるで違う。原などは血縁でも無い癖に中井の財産をまんまと落掌せしめ、井上は更に酷いぞ。縁故を以って他人を自らの尖兵に仕立てるのだから。隠居していた父上を半ば強引に府庁へ引き摺り出したのは誰だった?かの悪名高き鹿鳴館も、井上が父上に命名させ桜州の名を安売りした……」

 客車の背に身を預け、龍太郎は馬の揺さぶられるが侭になっている。双眸などは殆ど閉じかかっていた。

「……龍太郎、酔っているのか」

「或いは。君も官吏共には気を許さない方が良い。中央の狐狸巣窟の度合いは此処や薩摩の比ではないのだから……」

 詠太郎は僅かに戸惑う。酒に酔い潰れ眠る在りし日の兄・桜州の姿が、如何しても龍太郎へと重なって見える──

「……分からないな、何故急に僕を気遣う?目的は何だ」

「なぁ詠太郎叔父さん、良い時勢だ。血盟を結ぼう」

「……!」

 降って湧いた不穏な単語に詠太郎は息を呑む。軽い酩酊に浮かれた気分が一瞬にして現実へと引き戻された。先の台詞の真意を問うべく龍太郎をねめつけるが、歳上の甥は不敵に笑うばかりで要領を得ない。

「……血盟などと謂う言葉を軽々しく使うな」

「ふふっ、僕は本気ですよ、詠太郎叔父さん?此れは同盟、若しくは共同戦線。あの忌々しき奸臣を追い落とす、横山中井官軍の血盟だ……」

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