第2話

「おい山芋!」

 乱暴な呼び声が聞こえるや否や、後頭部へ激痛が走る。あまりの痛みに目の前が白んだが、辛くも昏倒だけは免れた。足元を見れば血塗れの石が転がっている。疑問を抱く間も無く横合いからぞろぞろと、同年代程の少年達が姿を現した。

「山芋!裏切り者川路ん事は聞き及んじょるな!おめん兄もどうせ、くでもなか事を目論んじょるんじゃろう!」

 主犯格と思しき大柄の少年が声を荒げる。山芋と呼ばれたのは当時齢七つ程の横山詠太郎少年で、この頃は未だ貧相な体躯の青瓢箪だった。

「ないとか言え、山芋ん子め!」

──件の主犯格が詠太郎の胸倉を掴み前後へ揺する。その度に頭部から血が噴き出るので、取り巻き達が血相を変えて止めに入った。


◆◆◆


──時は明治十年二月四日、廃刀令・秩禄処分に端を発した西南の役が起こる僅かに十日前の事であった。

 明治の初めに故郷・薩摩へ凱旋を果たした中井弘は城下東千石馬場へ豪壮な邸宅を構えている。そこで幼少期を過ごした詠太郎少年は、後述の事情があり大変な苦労を強いられていた。

 兄・中井弘は御一新の以前、脱藩浪士として長らくその身を追われる立場にあった。関所破りも十六の若輩者の思いつきである。着のみ着のまま諸国を放浪し、困窮を極めながらも自ら郷里へ戻る事はせず、遂には土佐藩の計らいで英国へ渡る事になる。帰国後は大政奉還に携わり外国官判事へ栄転せしめ、おたずね者から高級官吏へその肩書きが代わったのだが、これには真っ当に勤めていた郷里の連中が面白くない。中井は友人が多い方だが敵もまた多かった。薩藩出身でありながら藩閥の主流へ馴染む事をせず、決定的なのは長州土佐と交わり大久保の懐刀であった事だ。西南の役で賊軍となった陸軍少将・桐野利秋は中井の友人だが、大将の大西郷とは反りが合わなかったらしい。郷里はあの生麦事件、其して薩英戦争を引き起こした薩摩藩である。薩摩隼人と謂えば聞こえは良いが、薩人は血の気が多く維新後も士族の一部は苛烈な攘夷思想に沸いていた。このような事情からか、郷里といえども中井は薩州を警戒している節があった。維新後帰郷した際は、死ぬ覚悟を決めて妻を離縁した程である。──帰郷後脱藩の詰問を受けると考えていた中井だったが、上からのお咎めは無かった。中井は晴れて十数年来の罪を放免され、藩主・島津家からは特別の優遇を受ける。流罪に処された父・横山休左衛門を鬼界ケ島から引き取り三千坪の邸宅を与え、親族には気前良く宝玉や金の類を振る舞った。

──横山休左衛門についてである。中井弘の実父だが、この男も又問題を抱えていた。横山家は祖父の代には薩藩御家老坐の奥書役を勤める名家だったが、休左衛門の代に没落し生活に困窮していた。祖父の代の蓄えで辛くも生き永らえていたのであるが、そこへ加えて久左衛門の悪癖である。この男はなけなしの金を酒へ注ぎ込み、酔えば理由も無く剣を抜き四方へ当たり散らす。このような酒乱の行状を薩摩では山芋を掘ると謂い忌避された。──中井と不仲にあった黒田清隆総理もこの質で、酒に酔い得意の大砲射撃で民間人を死に至らしめた程である。刀剣蒐集家で得物を振り回し妻を斬り殺したとの噂もあったが、蓋し只の噂とも言い切れない、其んな悪習のようなものが一部の薩州人にはあった。

 中井が十五の頃には久左衛門の素行は不良を極め、中井も已む無く父を諫める程だったが聞き入れられず、その内に親族猿渡家の嘆願により久左衛門は徳之島へ流刑となった。横山家は士族籍を失い中井は故郷薩摩からの出奔を決意する。此れは父を見限ったのではなく、全く逆の志があった。身を立て大事を成してから父を迎えに来る算段だったのだ。──休左衛門の愚行と中井の脱藩によりお家取り潰しの危機に瀕した横山家だったが、維新後は中井の帰郷により一時隆盛を見せた。一等地に構えた居宅には誰しもが驚き挙って中井の噂をしたという。暴徒を降した武勇伝よりも事実無根の妙な噂がより人気だったろう。今に知らるる奇人伝の幾つかは随分昔からあった。中井は醜聞を気にしない質で、何を言われても徒に退ける事をせず『そんな事もあったかもな』──などと応えるので益々噂は其の尾を広げていった。

 鹿児島という地は古くより、薩摩の大提灯と揶揄される程に臣従思想が根強く島津家が黒と言えば白い物も黒と云わざるを得ない厳しさがあった。独特の進化を遂げた薩摩言葉、公然と行われる男衆の淫行、郷中文化──げに恐ろしい場所である。武家の出身でありながら帯刀を拒否し刀を捨てた中井の如きは藩の慣習へ馴染まない。然し関所破りという大罪を犯しながら放免され、藩主にも一目置かれる中井は士族達から随分妬まれていた。長藩との確執は未だ根強く諸藩へ交わる中井は謂わば裏切り者、加えて珍奇な噂に洋行帰りである。親族は随分肩身の狭い思いをしていた。詠太郎少年も折に触れては罵詈雑言を浴びせられ、酷い場合は乱暴までされる始末だった。


 さて肝心の中井弘であるが、此の明治十年には薩州に居らず、洋行帰りに帝都へ留まり工部省書記官などをしていた。当時の工部省と謂えば伊藤総理、山尾子爵の二段構えで如何にも長閥の窩である。然し中井と伊藤とは終生親しい間柄であったので、中井も工部省勤めの数年間は勝手気ままに遊んで暮らしたらしい。長崎製鉄所を糺し元幕臣の大鳥男爵を辞めさせたのもこの頃だった。──中井の方はそのような暮らしだったが、故郷鹿児島はお由羅騒動以来の危機に瀕していた。野に下り教育者となった大西郷を担ぎ上げ、不平士族が徒党を組んだのだ。西郷率いる私学校党へ、相対するのは大久保の指揮する新政府軍である。此の役は西南戦争で良く知られる所だが当時は薩州を二分しうる深刻な局面だった。とりわけ薩人へ疑心を抱かせたのは時の警視庁大警視・川路利良である。川路は薩摩の下級士分の出だったが西郷・大久保両人に認められ維新後に警察制度を確立する。その川路が故郷鹿児島へ間者を送り込んだのだ。間者は薩州出身の警察官ばかりで、拷問の末西郷暗殺の密命を自白させられる。川路そして川路の庇護者である大久保は不平士族の間で共に憎悪の対象になった。──このような経緯があり、鹿児島の地は明治十年初頭から窮めて緊迫した状態となる。冒頭詠太郎少年が暴行を受けたのも、中井に近しい血族であった事、そして中井と大久保が懇意にあった事が大いに関係していた。不平士族からすれば大久保は新政府の顔、それも友である西郷を裏切り暗殺を目論む巨悪の首魁──この頃疑心に陥った薩人は、知った仲であれ互いを見張るようにして過ごしていた。

 

◆◆◆


「……ないや詠太郎、また喧嘩したんか?」

 血塗れの詠太郎を一瞥だけすると、詠介は手にした猪口を一息にあおり中の焼酎を飲み干した。──詠介とは中井の父・久左衛門の別名である。詩を吟じるのを趣味としていた久左衛門が維新後に洒落ぶって付けた名で、隠居生活を愉しむこの頃は多くの詩を残した。詠の字は子の詠太郎・詠二へも受け継がれている。

「……喧嘩じゃらせん。一方的に、背後からやられた」

「おめ、そいでも薩摩隼人か。やられたら、そん分やり返せ!」

──ダン、と鈍い音が響き、次いで破砕音が耳を劈く。詠介の放った猪口が土間へ落ち砕けたのだ。破片の一部が詠太郎の脛を強か打ったが、件の少年はその僅かな痛みよりも、後掃除の事などを考え面倒そうに顔を顰めた。

「情けなか、こいが横山ん子か。休之進(註 中井弘の旧名)ん活躍を見れ。あいつは京でエゲレス人を付け狙う不届き者を一太刀に斬り伏せたんじゃぞ」

 云い乍ら、目に見えぬ刀を素振りしてみせる詠介──何度か振り終えるとドスンと尻餅をつき、ぞんざいに胡座をかきはじめる。

「酒買うてけ詠太郎。金は神棚にある。稲荷脇ん吉野屋が良か。そけお使いに行ってくれ」

「……父上、お言葉じゃっどん、もう今日は酒を控えた方が良かち思う」

 思わぬ諫言を受け顔を赤くした詠介が、徳利をも掴み土間へ投げ捨てる。

「おめ、父に口答えすっとな。休之進ならこげん時黙って買いに行っちょったぞ!こん出来損ないめ!」

 更に暴れる気配があったので、障子まで蹴破られては大変だ、と詠太郎は早々に根負けした。

「分かったど父上。いつもん芋焼酎で良かね。直ぐに買うてくっで待っちょってくれん……」

「ふん、分かればよか」

──これでいて詠介は、酒の入っていない正気の内は人並みに優しい父親だった。風流人の気質が強く、詠太郎を連れ桜島や錦江湾へ赴き共に詩を吟じたりもした。中井が散々迷惑を被りながらも生涯父を愛し続けたのは、粋人としての父を尊敬し、その破天荒な性格に愛嬌すらも見出した為だろう。

 然し詠太郎少年には釈然としない思いがある。兄・中井弘は詠太郎の物心ついた頃には既に鹿児島を離れていた。その為詠太郎少年は兄の事を良く覚えて居ない。然し父・詠介が得意げに語る口伝や巷の噂話、桜州の著書を元に中井の人物像というのは薄らと詠太郎の中にあった。其れから中井は筆まめな男で、洋行先から帝都から、横山家へ向け実に細やかな手紙を宛ててくる。文は父・詠介宛もあれば、幼い弟詠太郎を気遣った物、更には視察先の土産品が付帯した物まで様々であった。この頃詠太郎が思い描く中井像は英雄英傑そのもので、噂に聞く滑稽談すらも彼の人の愛嬌に思えた。中井は横山家を再興した大恩人であり、中井の親族である事は詠太郎にとって寧ろ誇りとなっていた。

──問題は父・詠介である。幼年期山芋の子と呼ばれ散々酷い目に遭わされたが、山芋とは詠介の酒乱を詰ったもので、詠太郎にとってはこの上なく恥ずかしく、また屈辱的な汚名でもあった。父を疎ましくも思うが、意見する度に中井の名を出し褒めちぎるので、詠太郎はその内自分の方がおかしいのだと感じるようになり口答えもあまりしなくなった。然し時折、ふと正気に立ち返る事がある。抗いようの無い『出自』という名の定めに、沸々と怒りが込み上げるのだ。──もし自分が中井の嫡子で横山の子で無かったとしたら、ここまでの誹りも受けないのではないか?──其のような夢想もした。然し現実には詠太郎は宗家の後継ぎ、庶家である中井の子になれるはずもない。

──出来る事ならば、今直ぐにでも兄に逢いたい。逢って認められ、鹿児島から何処へ遠くへ連れ出して貰いたい。──詠太郎は未だ見ぬ兄へ強い憧憬を抱くようになる。兄が得意とした漢籍や書を良く修め、父の語る中井武勇伝にも真面目に耳を傾けた。

「……あ、これは?」

 詠太郎が神棚の財布に手を伸ばすと、一片の便箋が供されている事に気が付く。宛名は詠太郎、裏返すと差出人は中井弘とある。

「おお、忘れちょった。休之進からおめ宛てん手紙や。一週間程前に来たな。持っていけ」

 如何でも良さげな態度で詠介が手を振る。詠太郎は財布と手紙を懐へ仕舞うと、直ぐに屋敷を飛び出した。


──兄上からん文や……やっぱい如何なっ時も兄上は僕を気に掛けて下さっど!兄上にとって僕は取っに足らんいたらん存在では無か……きっといつか、迎えに来て下さっど!


 馬場の大通りを駆け堤防を抜け、稲荷川の河川敷まで辿り着く。川岸を急ぎ川上へ向かえば、爽やかな風が詠太郎の頬を撫でるようにして過ぎ去っていった。

「山芋ん子か?わっぜ楽しそうじゃな」

 高揚感に身を預けていると、川岸へ屯する少年の一人が詠太郎に気づき声を掛けた。詠太郎はそれを無視し、早く使いを済まそうと先を急ぐ。

「ないや、無視しやがって。山芋ん癖に生意気だぞ!」

 激昂した少年が詠太郎を追いかけ其の身体を羽交い締めにする。仲間の一人が目敏く懐の便箋に気付き、差出人を読み上げてみせた。

「……『中井弘』?見てみぃ、けぇつ、奇人中井ん手紙を持っちょっぞ!何何?」

「密書じゃらせんか?私学校へ持って行こうや!兄上が党ん関係者の知り合いじゃっで、直ぐに見てもれるど」

「やっぱい中井も裏切り者か?大久保と云い川路と云い、政府ん連中は信用出来んな。……と、父上もゆちょったじゃ」

──と口々に捲し立てるが、要は下世話な好奇心故の過ぎたる行動である。詩人や書家としてもその名を馳せる中井桜州の直筆を、一目見たいとの思惑も多分にあったのだろう。詠太郎を押さえつけ、躊躇なく便箋の封を切る少年達──

「離せや、畜生共めッ!西郷なんか知らん、政府も関係なか!そんた兄上がおいにくれた家族宛ん手紙だぞ……ッ!」

 手紙の中身を確認し密書では無い事を悟った少年達は、互いに顔を見合わせて悪逆非道の暴挙に出る。──詠太郎の目の前で手紙を破り、稲荷川へ投げ捨てたのだ。急流に飲まれた紙片は直ぐに流され、一寸後には欠片ひとつ見えなくなってしまった。

「……!……ッ!」

──哀れ少年詠太郎、最愛の兄からの手紙は悪餓鬼共に勝手に読まれ、その中身を只の一度も見る事無く見失ってしまった。其れでも諦めが付かず、乱暴者の腕を振り払い稲荷川へ飛び込む。──南国薩摩とはいえ二月の寒空である。川の水は氷のように冷え、水流の激しさは槍で肌を突くかの様な厳しさがあった。袴姿の詠太郎は満足に手足が動かせず、半ば溺れるようにして下流へ流されて行く。

「こりゃ傑作や!奇人の手紙を追うて溺れやがった!山芋ん親父と同じく流刑になったごたっ!」

 二度も島流しに処された父と同列だと揶揄われ、詠太郎は悔し涙を流す。

「うぅッ……!皆け死んでしめ、糞食れだ、こげん鬼共ん住ん国など、ぐ……ッ共喰いで滅べば良か……!」

──此の時詠太郎の心中には黒雲が渦巻き狂飆が吹き荒れていた。表情なども類を見ない程に鬼気迫るもので、気圧された悪餓鬼共が慌てて逃げ出したくらいである。漸く詠太郎が川岸へ辿り着いた頃には、河川敷には人っ子一人おらず鳥の一羽ですら見当たらなかった。懐を探れば財布は未だある。正気に立ち返った詠太郎は使いの用事を思い出し、トボトボと川岸を稲荷方面へ歩き始めた。

 

◆◆◆


 島津稲荷は鹿児島旧清水城の懐、稲荷川沿いに位置する神社で大阪住吉大社からの分祀とされる。住吉の境内で生れた薩摩の家祖島津忠久は、母子共に稲荷神の狐火に護られて生れた。生涯住吉大社と稲荷神を信仰した忠久は薩摩へ降った承元三年に湯田村へ稲荷神社を勧請し、忠国の代に現在地へ遷座したと謂う。島津家は代々狐によって護られ、稲荷神社も広く信仰を集めた。

 此の島津稲荷の近所に吉野家という酒蔵がある。吉野の名は吉野狐伝承に肖ったもので、酒銘も吉野や初音、将又稲荷と付く物が多い。土地柄芋焼酎の銘柄が多いので詠介も此処吉野家の芋焼酎を愛飲していた。

 詠太郎は吉野家で焼酎を分けて貰い、父の割った貸し徳利を弁償する。使いは済ませたが直ぐに屋敷へ帰る気にもならず、その足で島津稲荷へと向かった。


◆◆◆


「……なんでおいだけがこげん不幸な目に遭わんなならんのか?」

 拝殿で手を合わせる最中、不意に先の出来事を思い出し無性に怒りが込み上げてくる。

「……おいがないをしたちゆど?悪か事などひとつもしちょらん、質素を心掛け勉学にも励んだ。……生まれか?生まれひとつでこげん屈辱へ甘んじれと?」

 遣り場の無い憤りに肩が震え、床を打ちつけては嗚咽する詠太郎──

「うっ、うぅう……。薩摩が憎か、横山ん血が憎か……!兄上、はよ、はよ迎えに来たもんせ、僕には貴方しかおらん、貴方だけが頼りなんや……ッ!……南無稲荷大明神、……其処へ御座すのですか?ほんのこて御座すと云うなら、どうか僕ん願いを聞き届けたもんせ……。うぅ……ッ、こん僕を少しでも憐れんで頂けっとなら、どうか、どうか………」

 逢魔が時の薄暗がりの中、詠太郎の慟哭は何時迄も、何時迄も止む事が無い──。


◆◆◆


「……ッ兄上!」

 自身の叫び声で、漸く詠太郎は深い眠りから目を覚ました。


──明治二十七年十一月二十七日


 詠太郎は我が目を疑った。今が何時で、此れが夢の続きか否かも良く分からない。然し目の前に居るのは確かに死んだはずの兄・桜州で、詠太郎の額にそっと手を載せている。触れている箇所は矢張り生暖かい。


──兄はひょっとして、未だ生きている?何時ものように扇子で膝を打ち、『俺が死んだなんて悪い冗談だよ詠太郎、さてはおまえ、本気にしたな』などと、笑い飛ばしてくれるのでは?──


「良かった、生きちょった……!」

 直ぐに起き上がり兄の胸へ縋り付く。彼の人の心臓は強く脈打ち、詠太郎の心にもその熱い脈動が伝わるかのようだった。然し生きていると分かれば怒りも又込み上げてくる。

「兄上!僕はこんな冗談は好きませんッ」

「……君、さっきから一人で何を言ってるんだい?」

 ハッとして詠太郎は顔を上げた。最愛の兄の姿は既に無く、縋っている相手が龍太郎なのだと漸く気がつく。

「!」

 龍太郎の身体を突き飛ばし、その顔を凝視する詠太郎──似ていると言えば似ているような気がしないでもないが、良く見れば顔の造形は桜州とは大分異なる。兄を失った心神耗弱から龍太郎を兄と見間違えた、──そう理解した詠太郎は自己嫌悪に頭を抱えた。

「……誰かさんと見間違えでもしたのかな、詠太郎叔父さん?」

 底意地の悪い笑みを浮かべた龍太郎が喪服の襟を正す。その様子を見て今日が兄の四十九日であると思い至った詠太郎が、急に慌て始めた。

「!まずい、喪服の仕立てをお手伝いさんに頼んでいるのだった……」

「服ならここに。着付けを手伝ってあげようか」

 龍太郎の指差した先には丁寧に畳まれた白羽織がある。然し起き抜けからか前日までの記憶が抜けている詠太郎は其処へ羽織を置いた記憶が無い。

「……?」

「それよりもだ。平気かい君、随分うなされていたようだけど?顔色が悪く寝汗も酷い。倒れでもしたら事だからねぇ、法要は抜けた方が良いんじゃあないか?」

 龍太郎の提案に詠太郎は僅かに苛立ちを覚える。実兄である桜州の四十九日なのだ。疲れている程度で参列しない訳にはいかない。もし此処で欠席すれば、事情を知らない参列者は桜州の寵児、正当な後継者が龍太郎なのだと誤認するだろう。──と、このように考えた。

「要らぬ世話だ、槍が降ろうと参列するさ。兄上の満中陰なのだからな!」

「……なぁ詠太郎叔父さん、偶には気晴らしに遊びに行かないか?こんな煙臭い屋敷に居たら、君まで喘息を患ってしまうよ。ほら此処に金がある。これでパッと祇園へ繰り出そうじゃあないか」

 矢庭に財布を取り出し、中身を見せる龍太郎──其処には端の揃った五圓札が十数枚びっしりと納められている。

「……どうしたんだ、こんな大金」

「原兄から貰った小遣いさ。……尤も此れは僕の相続した遺産、自由に使えないというのが可笑しい話じゃないか。父親の遺産なのだから、有効に活用してやるのが弔いってもんだろう?」

「……喪も明けぬ内から芸者遊び?巫山戯てるのか」

 あろう事か故人の四十九日に語るような内容では無い。不謹慎だと感じた詠太郎は一層龍太郎への苛立ちを募らせていった。

「龍太郎、君は今まで兄上から再三の配慮と工面を受け何不自由なく暮らしてきただろう。恵まれた環境にいたのに何故そうも放蕩に耽るのだ?家の名を貶めるとは思わないのか?」

 出来得る限り気を落ち着かせ嗜めたつもりだが、語気には相応の感情が籠る。詠太郎の提言に龍太郎は僅かに逡巡するが、直ぐに扇で口元を覆い、勿体ぶって目を伏せてみせた。

「……詠太郎叔父さんは、中々面白い事言うねぇ」

「はぁ?」

「中井の如きは守る程の家名じゃあないだろう、気紛れに興してから、まだ三十年と経っていないのだぞ。父上自身も中井の名に拘ってなどいなかった。寧ろ……。恵まれたとは、一体何を以てしてそう言い切れるのか。君も僕の側だったら分かるさ、僕ら中井の子は決して幸福などではないとね……」

──パチパチ、と音を立て舞扇子を閉じていく。流れるような仕草で帯へ差し、その場へ立ち上がる龍太郎。

「さぁ、余興はお仕舞いだ。今日は父上の四十九日なのだから、……しっかり頼むよ、喪主殿?」

 開け放たれた障子戸から燦々と光りが降り注ぐ。眩い程の閃光を背にして、龍太郎は再びあの、底意地悪い笑みを浮かべるのだった。

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