「03」新しい命

「ねぇ、お父さん……」

 視界がぼやけていた俺だが、声を掛けられたことで徐々に意識がハッキリとしていく。

 まず俺は、自身の胸元に手を当てた。

 先程まで感じていた胸の痛みや息苦しさなどは──まるでなかった。

 全てが幻であったかのように、きれいサッパリ消えていた。


 俺は慌てて周囲を見渡した。

 さらに、俺は居間ではなく別の場所に立たされていた。床も天井も壁も白一色に統一された清潔感のある部屋──ここは、病室だろうか。


「大丈夫、お父さん? 汗、ビッショリだけど……」

「あぁ……」

 気のない返事をして、俺は袖口で額に浮かんだ汗を拭った。

 どうやら病室といっても、俺のために用意された場所ではないようだ。

 むしろ、俺は訪問側──。

 ベッドの上にはパジャマ姿の女性の姿があり、俺はその前に立っていた。

 これまでとは違い、俺の方がお見舞いをする側であるらしい。


「エェエェッ! エェエエェッ!」


 女性の手に抱かれたソレから、突如として泣き声が上がった。

──いや、もしかしたら先程から声を上げていたのかもしれないが、俺の耳には入らなかった。

 女性の手の中に居たのは赤ん坊だ。皺くちゃな顔をした赤ん坊は白地の布に包まれ、女性に抱かれていた。

 瞼を閉じてひたすらに泣き声を上げる赤ん坊を、女性は愛おしそうに見詰めていた。


「本当に可愛らしい男の子ねぇ……」

 俺の隣りに立っていた女性が、腕の中の赤ん坊を覗き込む。

 年老いたその女性は──居間で苦しむ俺の背を、優しく撫でてくれた女性であった。

 しかし、先程までとは少し容姿が違う。

 小皺の数が減ったというか、どことなく肌にハリがあって若返ったように感じられる。


 俺は自身の顔を擦った。

──もしや、また戻ったのか?

『戻った』というのはどうだろう。俺の知らない過去へと『進んだ』とも言えるかもしれない。

 此処は俺が病気を患って倒れるずっと前の時間軸であるようだ。

 だからこの年老いた女性も、少しばかり若く見えるのだろう。


「ねぇ。お父さんもそう思いませんか?」

 年老いた女性が俺の方に顔を向けて話を振ってきた。

「あ……あぁ」

 会話をよく聞いていなかったので何のことか分からぬが、取り敢えず相槌を打つ。

 そして──引っ掛かった言葉に、首を傾げた。

「お父さん? 俺が……か……?」

 困惑し、俺は目を瞬いた。

「俺の赤ん坊……?」

 まさか、と思いつつもその可能性を否定できない。


 俺が口にした言葉を聞いて、年老いた女性はクスクスと笑った。

「嫌ですわ、変な冗談なんか言って。あなた、おじいちゃんになるんじゃないですか」

「そうよ! この子のお父さんの座は幸太郎さんにあげて欲しいものだわね」

 赤ん坊を抱いた女性もそうからかわれた。


 二人の女性から笑われたが、何がそんなに可笑しいのか俺には分からなかった。


──赤ん坊。

──入院した女性。


 情報を整理すると、このパジャマ着の女性が赤ん坊の母親であるらしい。旦那は、此処に姿はないが──名前は幸太郎というようだ。

 俺のことを『お父さん』と呼んでいることから、この女性は俺の娘なのだろう。


 娘──。


 俺は、まじまじと娘の顔を見た。


 そう言えば──と、俺は未来の記憶を呼び覚した。

 どことなく、俺の臨終の場に居てくれた娘の面影があった。その時よりもずっと若くて化粧もしていないので気付かなかったが、間違いなくあの時の娘だ。


 俺は赤ん坊の方にも目を向けた。

 と言うことは──これがあの時に、最期に俺が笑い掛けた孫なのだろう。

 まだ産声を上げたばかりのようでどんなに見詰めてもその片鱗を見つけることは出来なかったが、間違いはない。


 これは、娘に子どもができ、俺と妻でそのお祝いに病室を訪れたシーンということか──。

 何となく、状況が理解出来てきた。


「元気なお子さんが生まれて良かったですね」

 俺は精一杯に祝辞を述べたつもりだった。

 ところが、どうやら距離感を間違えたらしい。娘はあんぐりと口を開けて、目を丸くした。

「何言ってるのよ、お父さん。そんな他人行儀に……」

「あぁ……うん。そうだな、すまない」

──確かに、何処の世界に自分の娘に敬語を話す父親が居るのだろう。

 勿論、居ないわけではないだろうが、少なくとも俺と娘の関係では違和感でしかないようだ。

 娘から冷ややかな目を向けられて、そのことに気付かされる。


「女性は偉大ってことよね」

「これは、男の人には分からないことだわよね」

 俺がボーッとしている間にも、何やら妻と娘とで勝手に話を進めて盛り上がっていた。

 置いてきぼりを食らった俺は、完全に蚊帳の外に置かれてしまう。

──まぁ、注目されて変に失言してしまうよりかは、このポジションに立っていた方が良いだろう。

 俺はフゥと息を吐いて、少しばかり心を落ち着けることにした。


「……そう言えば、幸太郎さんはどうしたの?」

 妻が尋ねると、娘がムッとした顔になる。

 どうやら地雷を踏んだようだ。

 娘は怪訝な顔になり、声を低くした。

「あの人……仕事が忙しいだとかで、まだ会社に居るって。今日中に作らなければいけない書類があるとかで、抜けられないそうなのよ」

「あらまぁ! こんな時くらい、早めに帰らせてもらえないのかしら……」

「まったくよ!」

 女性陣は不満を爆発させ、恐らく娘の夫である幸太郎氏の愚痴を口にしていた。

 一応、立場が危うくなりつつある幸太郎氏のフォローを入れてみる。

「まぁ、そう言ってやるなよ。雨風吹こうが何が起ころうと、なかなか職場っていうのは離れられんもんさ」

「そうは言うけどさ……」

 すぐに反論が返ってきた。娘から冷ややかなジトーッとした視線が送られる。

「幸太郎さんに、子どもの出産時には立ち会うようキツくお灸を据えていたのはお父さんじゃないの」

──あ、そうなのか……。


 俺にそんなことを言った記憶はないが、自分自身の発言なら責められても仕方がないだろう。

 上手くフォローをしてやったつもりであったが、これ以上はどうしようもない。すまぬ、幸太郎君──。


 心の中で謝罪の念を抱いていると、妻が俺の心中を察してくれたらしい。

「……まぁまぁ、お父さんの言いたいことだってわかるわよ。幸太郎さんも、貴方達のためにお仕事、頑張ってるんですから。お父さんに当たっても仕方ないじゃないの」

「そ、そんな、当たってるつもりはないわよ!」

 妻の言葉が場をおさめ、娘はプイッとそっぽを向いてしまった。幸太郎君に対する愚痴の話がこれで終わったので、俺はフゥと一息ついたのだった。

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